「死んでしまった人間たちの数を考えてみねェ!」
かつて、アメリカの劇作家テネシー・ウィリアムズが、アメリカの南部訛りで叫んだ言葉だ!
「死んでしまった人間と、今、現在生きている人間の数を比較してみねェ! 今、生きているということがどんなに貴重なことか!」と、まァこんなことを言っていた。
そう言われてみれば、確かにそうだと頷くしか、しょうがあるめェ。
その上だ! 死んだ人間の数だけの悲しみ、悔しさ、喜び、やさしさ等々が名もない人々の心の奥に仕舞われたまま、語られず、埋もれているのだ!
だから、本物の表現者たち、つまり、詩人、画家、音楽家、作家、演劇人たちは、何も語らない人々に代わって、その苦しみ、悲しみを表現したのである。決っして、なりふり構わず己の自己主張をしたわけではないのだ! だからこそ、彼らの作品は、古典として生き続けるのだ!
アメリカの19世紀の詩人、ウォルト・ホイットマンの作品に『草の葉』という素晴らしい詩集がある。この中で、彼は次のようなことを、謙虚な言葉で残している。
−−僕の作品は、あらゆる時代、あらゆる土地の人たちの考えであり、私の独創ではない!……。
それがどうだ! 今、テレビでよく見かけるタレント、エセ評論家、政治家たちは、何秒か何分かの間に、ただ肺活量だけを頼りに、口角泡を飛ばして喋りまくってやがる! たいした学問や感性もないくせに若いお笑いタレントが顔を真っ赤にして、社会問題を稚拙な言葉で自己主張していることなど、とんでもないはき違いだぜ! タレントや芸人は、あくまでも自分の芸を通して、メッセージを表現するのが本道なのだ! その代表格が、あの天才チャップリンだ! 後は言わずともわかろうがな、だろう!
テレビ業界がどれほどの影響力をもっているか! 作り手が、核兵器並みに危険な凶器を握っていることを意識していないと、メディアの力が本当に人間世界を壊してしまうだろう。そして、人間が消えてしまった後も、テレビの画面だけが虚しく光り輝き、喋り続けているという結果になるぜ! ただ、視聴率だけを追っかけているということは、このメディアという核兵器で、どのくらいの人数を殺せるか、次の新しい兵器で何人殺せるかを計算している、狂気の独裁世界と同じことなのだ!
電車のホームで「足元にご注意下さい! 足元にご注意下さい!」と、テープに録音された声がスピーカーから流れている。ある日、酔った客が足を滑らせて、ホームの下に落ちてしまったが、誰も気がつかなかった。その間も、スピーカーからは「足元にご注意下さい! 足元にご注意下さい!」という放送は流れ続けている。転落した客が死んだ1時間後も、同じようにスピーカーからは「足元にご注意下さい! 足元にご注意下さい!」と、呼びかけ続けていた。
視聴者を悪酔いさせ、「足元にご注意下さい!」と、もっともらしく喋るんじゃねェよ!
それに、番組の間のコマーシャルで、嘘っぽい芝居を細切れにして、酔客を騙すんじゃねェよ!
客も客だ! もっとましな酒を飲めや! そしてあの馬鹿馬鹿しい世界に一喜一憂してるんじゃねェよ! テメェの頭で、テメェの心で、喜びを見つけ、悲しみを感じ、人の哀れを理解しろや!
テレビという化け物によって、国民全体が価値観を統一されるとは、こういうことだ。
つまり、テレビで放送されることを丸呑みして、車を買い、クーラーを買い、口に入れる薬さえ中身もわからずに飲み込む。何々が体に良いと言われれば、何の疑いもなくその食い物に飛びつく。
また、テメェのシワと贅肉には目をつぶり、亭主を野球の選手と比べ、韓国俳優と比べ、男と女の違いもごっちゃにする。
さらに、テメェの価値観を持たず、オウム教に近い状態でテレビを信じ、毎日を追われるように過ごし、働き、テレビが薦めるものを買えないのは、ガキも女房も亭主の働きが悪いためだと思い込む。だから不幸なんだとガキと一緒に、亭主を責め、亭主もどこかでそれを認める。そして、家庭では、自分のいる場所さえおぼつかなくなっているのだ。
物言わぬ人々とは、そういう人間じゃないのだ! 言うべき哲学を持ち、信念も持ち、それでいて間違った権力に押し潰され、死んでいった人々のことをいっているのだ! 何も語らなかった人々の声なき声に耳を傾けなけりゃいけねェ。それが、歴史を学ぶということなんだ! そして、今テメェが生きている生きづらい人生の未来を考える糧とすることだ!
だから、歴史を学ぶということは、今を生き、何も語らず頑張っている人々……、すなわち個人が、やはり何も語らず死んでしまった人々から続く「時」の帯を手繰り寄せ、その声なき叫びの記録を見つめ返すことなんだと思うぜ!
ニセモノの権力国家が歴史を語るのは、又そのニセモノの権力の元に、物言わぬ人々が理不尽に殺されていくことなんだ。どこの国でもそうだが、国家が歴史を勝手に語るほど危険なことはないのだ! ましてや、他国の歴史にまで嘴を入れることは、明らかな武力行使だ!
それは、時の権力にしがみつこうとする者が、テメェたちに都合の良いように歴史を弄り回すことなんだ!
世界中の権力者が、宗教も含めて、歴史観を勝手に歪め、物言わぬ人々を理不尽に殺してきたのが、世界史なのだ。
世界史は何も語らなかった人々の死体の山の中にある!
だから、キミたち若者が自分の子どもを育てるとき、「学ぶ」ということの意味から教えてやらなければいけないのだ! 勿論、子どものときは強制的に九・九や割り算、足し算を教えなければならんが、少し大きくなったら、何故、数学を勉強するのか、何故、歴史を学ぶのか、ということをちゃんと教えて、納得させた上で、学ばさねばいかん! サッカーや野球は、何故厳しいトレーニングを必要とするのか? その必要性を本人が理解し、望むからこそ一生懸命やることができるのだ!
例えば、数学で「確率」を何故勉強するのか? 日曜の朝、今日は何をしようかと1人の若者が目覚めたとする。恋人と海に行こうか、デパートに買い物に行こうか、映画を見ようかと、やりたいことはいろいろと思い浮かぶが、出来ることは、その中のたった1つ。なぜなら、体は1つしかないのだから……。しかし、その中の1つ、海に行って、恋人とサザエのつぼ焼きを食べ、水平線をしっかり見つめて帰ったとする。又はデパートに行って、あれも欲しい、これも欲しいと思いながら帰ったとする。その2つのうちの1つを選んだだけの1日の行動ですら、この恋人同士の人生における影響は微妙にだが違ってくるのだ!
人生は毎日ほんの些細な違いを選びながら進んでいくのだ! それが1年、5年と経つと、物凄い違いが出てくるのは、理屈としてわかるだろう。これを含めて、君の人生の「確率」を見よ! ということなのだ!
なるたけ良い確率を選んだ方がいいに決まってる! だが、「確率」についての知識がなければ、「占い」に頼るしかないのが現実……。「確率」だけを信じることもないが、1例として知っておいて、キミの人生にとって邪魔にはならないだろう。何かを学ぶということは、この程度のあやふやなことなんだ、さりとて、知らないより知っておいた方が良い。
数学はこの程度だが、「歴史」となると、結構役に立つ。誰しもこの世の中生きやすいなんて思っているヤツはいない! だからこそ、過去に生きた人間はどんな風にこの困難な人生を生き抜いてきたのか、参考として歴史を学ぶのだ! それは、徳川家康の生年月日を暗記することじゃない! ちなみに、徳川家康が晩年、淋病で苦しんだことは知るまい。そんなことは、学校じゃ教えてくれんだろうからな。将軍の生年月日を覚えるより、徳川家康という大権力者が、ペニシリンのない時代に淋病とどう闘ったかということを考えてもみねェ、笑えるし、男として参考にはなるぜ!
「学ぶ」ということの根本的理由を教えないで、ただ勉強しろ! とケツを叩いても効果があがるわけがない! だから、まず最初に自分が何をやりたいか考えさせることだ! 幼児の頃から、いきなり何かを教えようとせず、「学ぶ」ことの楽しさを自分で見つけられるような環境を作ってやることが大切だと思うぜ。
そのためには、幼児期から子ども同士で真剣に遊ぶ環境を作ってやればいいのだ! 大人が口出しをしない、子どもだけの世界で遊べる空間を与える。それが自分を見つめ、まわりを見つめ、自分自身の判断に自信を持てるようになるトレーニングへと繋がるのだ! 子どもの頃の遊びは全て、瞬時に自分で判断するということを学んでいるのだ! かくれんぼ、鬼ごっこ、全てそうだろう……。
今回のワールドカップでの日本チームの敗退を見るに、そういった子ども時代がなかったことに原因があるように思える。彼らは、いきなり子どもの頃からサッカーという規律と大人の指導の中で、トレーニングしているのだ! なんの規律もなく、ただ子どもとしての判断でボールを蹴って遊ぶところから始まっていないのだ!
まず大人のルールありきから始めているからまずいのだ! それは他の分野でも同じだ! 幼児のときから、大人の指導の下で習い事を始めているのだ! ブラジルのサッカーは、まず子どもだけの世界で、ただボールと友達となって遊び、転げまわることから始まっているのだ!
先進国と称する日本は、ハイ! 御英語、ハイ! 御塾、ハイ! 御ピアノという馬鹿げた贋物の大人の世界で、大人の監視の下、無菌状態の中、虐待にちかい厳しさで、「御ままごと」をさせているのだ!
その結果、子どもの瞬間の反応を殺し、瞬間の判断力を奪い、自分の生命すら瞬時に守ることもできない生き物に去勢してしまっているのだ! だから、他人の生命の重さもわからないのだ! ちょいと、ルールが見当たらないと、今度は人の命を取るところまで暴走するのだ!
追い詰められた瞬間に、己自身で最高の判断ができるように育っていないのだ! 誰かの指示がなければ動けないのだ! 幼時のときから己を信じるような人間に育てるこったァ! そうすれば、悪い指示を拒否することも身に着く筈だ!
親も信じられねェ、その上自分も信じられねえから、トチ狂った行動に走るんだぜ!
そして、何より、己を磨き、自信を持って、語るべきときには権力にも、金力にもおもねらず、自分の意見が語れる人間に育てることだ!