発売日のメンバーはOFFで、翌日からユニコーン史上最長の80公演を行ったツアー「舞監無き戦い」のリハーサルが始まるのであった。
このアルバムのツアー名を考えた時に、「ヒゲとボイン・ツアー」や「ボインとヒゲ・ツアー」というのは“ちょっとな~”と思い、別のツアー名を考えていたこの時期、マネージャーの原田・鈴木が映画「仁義無き戦い」のビデオにはまり、見まくっていた。そこへ、それまで一緒にやってきた舞台監督が失踪したという情報が入り、このこのツアー名になったのであった。
ちなみにアルバム名の由来は、前年「ケダモノの嵐」で日本レコード大賞のアルバム大賞を受賞した時にもらった盾に女性が横になっている図柄があったが、その女性が漫画家・小島功氏が「ビッグコミックオリジナル」で連載していた漫画「ヒゲとボイン」の登場人物に似ていた事がきっかけとなった。
この握手会では直筆のサイン色紙をプレゼントしたのだが、そのためにレコーディングスタジオでは連日手の空いたメンバーがサインをしまくっていた。
発売日のこの日は「嵐のケダモノ・ツアー」の倉敷市民会館での公演があった。91年最初のライブだった宇都宮で阿部がブルースリーの立ち回りをやって脱臼した直後の公演だったので、阿部は左肩を吊った状態で演奏した。
この曲はシングル用にミックスをやり直したが、確かシングルのヴァージョンは最初のギターの前に“パンッ!”というSEが入っている。この音はスタジオでスリッパで床を叩いた音を録音した記憶がある。
発売日であるこの日は「嵐のケダモノ・ツアー」の東北から戻って、12/3の京都までのつかの間のオフ。
このアルバムは9月にNYで録音したのだが、ジャケットもNYのデザイナーに発注し、向こうでのレコーディングと平行してデザインのやり取りをした。そこで、渡米前にアルバムタイトルを決める必要があったが、曲は揃ったが、歌詞は揃っていない状態だったので、これまでの全ての楽曲を録り終ってからタイトルを考える方法が使えず、かなり悩んでいた時、EBIがポロッと言った「ハヴァナイスデー」が採用されたであった。
コンセプトは子供に向けて!である。どこからか子供からの支持が低いというデータがあるという事で、楽曲も装丁も子供を意識した。