今月初めに101歳のお誕生日をお迎えになったグドルン・ツァップ・フォン・ヘッセさんのお宅に、明るい黄色の花束を持ってお祝いの言葉を述べてきました。
グドルンさんが、いつも通りいそいそと勧めてくださる美味しいお茶とケーキが楽しみです。
ドイツはこの日、二ヶ月ぶりくらいに晴れ渡って午後になっても氷点下、いつも以上にそのお茶が美味しい。グドルンさんがおっしゃるには「ダルムシュタットは、水が良いのよ」。ケーキは必ず二つ以上いただきます。今回うかがったのが1月18日、髙岡重蔵先生がご存命だったら98歳のお誕生日だったので、二つ目のケーキは重蔵先生のぶんと思って味わいました。
最近、ルドルフ・コッホ(Rudolf Koch、1876–1934)の本を古本でいろいろ買ってながめていて、わからないところがたくさんあったのでグドルンさんに質問してきました。
たとえば、この本『Das ABC Büchlein』(ABCの小冊子)のなかのこの字は書き文字の種類としては Sütterlinschrift なのか、それとも deutsche Schreibschrift なのか、とか。これは deutsche Schreibschrift で、グドルンさんが学校で習ったのはこれではない、などなどお話をしていただきました。
コッホの本は、他にもこの切り絵の本がすばらしい。私の持っているのは1940年前後に発行されたものです。中身は同じ。本の表紙は出版年によって違って、私の知っているのはこの二種類があります。
1915年前後に、コッホが自分の一家の生活の様子を切り絵にしたもので、4人の子供たち(兄パウルと3人の娘たち)の何気ない日常の一瞬が収められています。そして、日常の生活のページのところどころに、庭の風景が挟まれます。
庭先や道ばたに普通に生えている、いわゆる「雑草」をコッホはこよなく愛し、それを木版画にまとめた本もあるくらい、コッホの雑草を見つめるまなざしは温かく、そしてコッホの手を通して切り絵になった雑草のたたずまいの美しさには、ため息が出ます。
コッホの本に出会って、それとエドワード・ジョンストンの本の二冊をお手本にカリグラフィを始めた、というのは、知り合う前のグドルンさんもヘルマン・ツァップさんも同じですが、お二人ともルドルフ・コッホさんに直接お目にかかったことはなかったそうです。コッホが1934年4月に亡くなったときは、1918年生まれのグドルンさん16歳、ヘルマンさんも15歳でした。
でも、その数年後、当時はまだ無名のヘルマン・ツァップさんはルドルフ・コッホの息子パウル・コッホの工房で働き始めます。当時、ヘルマンさんは市電の乗車券の料金を節約するために4キロメートル以上の道のりを歩いて工房に通ったそうです。しかし、パウル・コッホは、音符についての小冊子を1939年に出したところで兵役にとられてしまいます。
これはその冊子の第二版。1953年の出版です。
1953年のこの第二版には、「パウル・コッホは戦争から戻らなかった。彼の友人、フランクフルトのヘルマン・ツァップがこの第二版を彼のために出す。」と書かれています。
本文に使われているのはルドルフ・コッホの活字書体 Jessen で、音符や歌詞はヘルマン・ツァップさんが書いています。
ルドルフ・コッホの切り絵の小さな本の中で、3人の妹たちが乗っかった小さな荷車を前のめりになってぐいと引っ張っている子供のパウルくんが、私の知っているパウル・コッホの姿です。そしてそのパウルくんは、ヘルマン・ツァップさんに大きな影響を与えたあと戦争にかり出されて1945年に亡くなってしまいました。
グドルンさんもヘルマンさんも、お話をうかがっていると戦争をとても悲惨なことと考えているのがわかります。こうしたつながりをたどってみて、戦争でどんなにたくさんの大きなものが失われたのか、呆然とするよりほかありません。