劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

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ハゲレット 

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ハゲレット
【原作】ウィリアム・シェイクスピア
『ハムレット』
【翻訳・監修】小田島雄志
【脚色】鈴木 聡
【演出】山田和也

近藤芳正
笹本玲奈・陰山 泰・石田圭祐
鈴木浩介・福本伸一・木村靖司
櫻井章喜・湯澤幸一郎・土屋裕一
久世星佳
ベンガル

2006年3月9日~3月21日
紀伊國屋ホール


 「ハゲレット」のデンマーク王子ハムレット(近藤芳正)が若ハゲになったのは、西欧一有名な自意識の強さ─自分が生まれたのは、外れてしまったこの世のタガを直すためと言い、実行を前に悩んだことが原因ではないようだ。そんな人生は何か大きな摂理に反している気がするらしく、こまごまと地味に悩み続ける感じやすさゆえに、毛が抜けたのだ。あとは普段ギャグとして認識されない流麗な台詞を丹念に拾い、ほとんど原作の「ハムレット」を変えずに笑わせるのだが、ところどころ翻案はあった。三ヶ所に絞って見てみよう。

 父王を毒殺して王位についた叔父、クローディアス暗殺の好機を捉えたハムレット。しかし奴は祈りの最中、今殺すと天国へ行くからと計画を延期する。原作のクローディアスはといえば、懺悔の資格すらないみじめな自分を再確認してへこむ。ところが「ハゲレット」のクローディアス(ベンガル)はこの時、祈ったふりをこいていただけだった。そんな姿も、あわよくば神からはかわいい人間に見えるかもしれぬ、ダメならどうとでもなれと気炎を上げる。大胆な(と本人だけがまばゆく信じている)思いつきに、おののきつつもどっぷり酔うというベンガル得意の太い演技によって、どうやらこれは今までの演出で素朴に納得させられてきたほどには、無邪気な場ではないのかもしれないという実感がわく。

 また強い腕という名を持つノルウェーの王子フォーティンブラスは、物事の中間を見ないことにしている、しかも周りの大勢を巻き込む可哀相な男として描かれた。 元は「ハムレットにとって、熱情と理性のバランスが取れた理想的人物」(『新訳ハムレット』155頁)なのに。ハムレットが決闘で死んだ後、外国での戦いから凱旋してきた彼にホレイショーが「考え続けたハムレット」の辛さと偉さを説明するのだが、フォーティンブラスは三つ以上単語のある文は理解できないと言い放つ。浮かない顔のホレイショーから、とりあえずハムレットは武人としてOKだった、という言質を取り、意気揚々と弔いの指揮をとるフォーティンブラスの麗句は、横たわるハゲの上を虚しく滑り落ちていく。

 この二つ、要は現代の実感に沿って考えたら露骨なくらいに「宗教と戦争」をめぐる台詞が無理だったので茶番にしました、ということだろう。「普遍」なはずの古典名作も、違う時代の異なる文脈にじっくり照らすと、時にダイナミックなまでに無理が生じる、という事実を両者は伝えている。となると、ぼんやり言われてきた「ハムレット=普遍」の根拠は、今どこにあるのか。はなから普遍と決めてかかってその方向でまとめた物言いを見聞きする度に、劇の茶番や滑稽がよみがえる。つまり「ハゲレット」の中の茶番は、私たちが日常で耳にする言葉とダイレクトに繋がっている。
 
 最後にクローディアスと王妃ガートルード、そして剣を交えた友人レイアティーズ(原作では瀕死のハムレットに、互いを許し合おうと美しく述べて果てる)、それぞれの死に際の言葉を。

     ガートルード  煩悩まみれでなにが悪いっ
     クローディアス お前は考えすぎなんじゃー
     レイアティーズ      う

 この場面に場内はわき、私も笑った。それは、やっぱり人はかっこよく決められなかったり居直る場合の方が多くて、こんなふうにしか生きられないのかもしれないという予感を、魅力的な俳優たちが生き生きと演じるおかしさだった。言いかえれば現実社会に生きる人間がうすうす感じていること、善悪の判断不能なままバラバラと存在する価値観や、収拾のつかない様々な状況が表象されたということだ。

 笑いのツボは古今東西あまり変わらないという。今回の笑いが新奇であったかと考えれば、それは既知の人間考察に収斂されるものだった。ではやはりこうした喜劇の変わらない一面である、人間に対するニヒリスティックな眼差しやほとんど絶望に近い諦観に、演出はどこまで自覚的だったのだろう。身体を丸めて肌色の頭頂部を見せながら息絶えるハムレットは、その暗い穴に為す術なく包まれていったようにも見えた。

 決闘の場までのハムレットは、自分の正しさだけを守り抜こうとする人物ではなく、自分の選択によって生じる可能性のある悪を、自覚しようとする人として描き得ていたと思う。近藤の抑制の効いた演技がよく表現していたのは、私のハゲをなんだと思っているんだという、口にこそしないがハムレットがずっと持っていたであろう、自負と誇りとそこはかとない希望だ。それが漠然とでも明るさとして残れば、この作品はさらに大きな成功を収めたと思う。

特集 「ハゲレットを真に受けて考え続ける」に続きます。

by kouchiyama-simone | 2006-04-26 00:21

ダンスを撮る、踊る

b0080239_2319377.jpg 1997年に放映されたと思われる「きょうの出来事」のシルヴィ・ギエム特集を見た。ギエムは昨秋「最後のボレロ」と銘打たれた公演(プログラムを見ると、日本最後と書いてある。やや東スポメソッド)で、モーリス・ベジャール振付の「ボレロ」(1)を踊ったダンサーだ。最後にしたのは、他の優れた新しい作品も日本に紹介したいという─ここでは「いつまでもボレロばかりありがたがって見に来ないでよ」と訳そう─、芸術家としての決断だった。芸術家と書いたのは、エンターテナーとは決断が少し異なると思うからだ。ただそれは違うというだけで、どちらか一方を偏重し、片方を敬遠するという考え方は私個人にはない。

 さて「きょう出来」の特集には、日本で6度目の「ボレロ」公演のために来日したギエムと、一部ステージの様子が収められていた。現在ギエムの「ボレロ」は市販映像化されていない(2)ので、貴重な映像らしい。
 特集全体は8分程度、長い予告編のような感じだ。「ボレロ」の簡単な上演史のあと、彼女の経歴紹介とインタビューが続く。体操からクラシック・バレエの世界に入り、華々しい昇進劇でパリ・オペラ座のエトワールに任命され、後に英国ロイヤルバレエ団に籍を移す。ウィリアム・フォーサイスを始めとする現代の振付家とも積極的に仕事をし、100年に一度のプリマ・バレリーナと呼ばれ、足型のブロンズまである。よくnoと言うのでMademoiselle nonの異名をとるが「素顔は気さく」。移動の様子を捉えたちょっとした瞬間などに、正直で愉快なキャラクターが顔を覗かせる。カーテンコールの笑顔も可愛らしさと強さにあふれた、すばらしい表情だ。

 「ボレロ」の映像は後半にまとめられていて、オープニングと途中、ラストを編集で繋いである。わずかな時間ダンスの断片を映像で見ることと、劇場での実体験がかけ離れたものであるのは、ギエムってどんなダンサーかと紹介する以上に、今さら書くまでもないだろう。だがそうした映像であっても、群舞の動きはよく見えた方が、群舞(リズム)とギエム(メロディ)、音楽の進行と振付の構成との関係が端的に掴めるのだが、ギエム上半身/下半身のアップを多用していた。さらにナレーションが「ギエムはボレロを踊る時、社会に対し立ち上がり、戦う人間を思い描くそうです」「ラヴェルはこの曲のエンディングのような、悲劇的な最期を遂げました」とかぶる。

 これだと見ている側はひきずられやすいだろうな、と感じた。民衆を率いる神々しい先駆者的な、ベタ・具象のイメージに。しかも「どうだった?」と聞かれてこれをアレンジして言えば、自分であまり言葉を考えなくても、とりあえずまとまったわかりやすい発言ができあがる。
 ナレーションが入り続けると、音楽が聴こえにくくなるばかりではなく、その言葉を理解しようとする頭が働く。遮断するのは難しい。しかし「ボレロ」は具体的なドラマや特定のイメージを伝えたり、音楽の構造だけを見せるものとは異なり、私たちが音楽を聴いた時に感じ取ることすべてが、聴覚のみでなく視聴覚を包囲するかのように強烈に届く、とても感覚的であると同時に論理的な作品だと思う。特にギエムは、圧倒的な身体で音に対する深い洞察力を見せる。単純な命燃やしまストーリーや、あらすじを誘導するような撮り方と説明が惜しまれた。
 「たしかに下手なボレロなら誰にでも踊れます。しかし元からすばらしいこの作品を、さらに良く踊るのは大変なことなのです」とインタビューの中で語ったギエム。「踊る」は「撮る」にも当てはまるのかもしれない。 

(1)1960年初演。特集の「1928年初演」という説明はニジンスカ振付のものだろう。ベジャールはこの時まだ1歳なので、人にあれこれ言うのは難しい年頃だ。
(2)バレエやダンスのビデオ・DVD販売を手がけるクラブメールの回答によれば「私どもの知る限りでは、存在していない」とのこと。

画像:THE TOKYO BALLET JAPAN TOUR 2005 プログラム表紙 
by kouchiyama-simone | 2006-04-20 21:56

プロフィール

河内山シモオヌ(こうちやま しもおぬ)

東京生まれ。日本演劇学会・近代演劇史研究会に所属している。
『20世紀の戯曲 三 現代戯曲の変貌』(共著)、『I AM ALICE』(劇評)、
『SWITCH』(インタビュー 本多一夫/05年5月号 うめ吉/06年2月号)
などで執筆活動を行う。
ウェブでは河内山シモオヌの名前で日英2カ国語の情報サイト「REALTOKYO」、
メールマガジン「ICREO」に舞台・映画紹介の記事を書く。
そのほか、劇評サイトにも寄稿している。

現代人が日常でよく遭遇する「演劇ですか、それは」と思いたくなる話や言葉。
現実は演劇よりはるかにノイジーで、演劇もビックリのベタに満ちている。
そんな時代に、あえて何かを観に行く面白さについて考える。

【-関連サイト-】

劇場紙風船 おふろ場
SWITCHonExciteに書いた記事の関連情報と、おつまみのレシピ 

大福帳
観たもののメモ・リスト、漫画などの特集記事
by kouchiyama-simone | 2006-04-20 21:31




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