劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

エンジョイ(四幕)/RIDING GIANTS

文中では、加藤(同上)というように、人名の後に(同上)がついています。これは「加藤の話をする、誰ともわからない男だが、たまに加藤として喋る男」の略式表記です。前回劇について説明している時に、いちいちそう書くのは長いので、以下すべて(同上)にすると決めたのです。
(同上)を連打していて、しつこさが次第に快感になってきました。こういう変な劇─ブレヒトがやったことをテキストレベルにまで落とし込んだ劇─を、演出の岡田利規は今のところつくっています。
観に行って実に不思議な体験をしました。できるだけわかりやすく、ほかの演劇とどう違うのか説明してみようと試しましたので、はじめにこの記事にいらした方は、もしよかったら『エンジョイ』の前に をご覧ください。
エンジョイ(四幕)/RIDING GIANTS_b0080239_13164312.jpg


私はタイトル「エンジョイ」という言葉と、元の英語の動詞「enjoy」の意味するものが、この劇にとって非常に大事だという見方をしている。そこで寄り道して、はじめにenjoyについて書くことにする。

enjoyは、よく用いられるありふれた動詞だという。それを知識として知っていても、私は外人に自分から「enjoy!」などとは、向こうがそう言われるのを待ち構えているのがわかる時にしか出てこない。片仮名のエンジョイは、それに輪をかけてまったく使わない。恥ずかしいからではなく、元々のenjoyからしてパッと出てこないので、思いつかないといった方が当たっている。

英語のenjoyは楽しむというほかに、享受する、よいもの(たまに皮肉的に、悪いもの)を持っているという意味でも使われる。enは名詞について何々を与えるという意の動詞をつくるので、おそらくI enjoyには「他者にjoyを与える」という言外の意味がある。「私は持っている/他者に与える/その他者が持つ/別の他者に与える」と、だんだん連なっていくイメージだ。

たとえば、特殊な言い方ではない「enjoy the confidence of one's friends」。これで「友人の信頼を受けている」という意味になる。自分が友人と関われば、遅かれ早かれ友人の理解できない、自分とは違う部分にぶちあたる。それも受け入れたり認めたり信用して初めて、友人が「the confidence」を渡す。渡されてようやく、自分が持つ(I enjoy)という状態になる。
さすがに現実は、この通りすばらしいことばかりではなさそうだ。が、少なくともenjoyは、他者との関わりなしには生まれない動詞であることはわかる。

なかなか出てこない私の「enjoy」と違い、それを使いこなしていた知人たちのことを思い出せば、彼らは英語を母国語とするキリスト教信仰を持つ人たちだった。試みに新カトリック大事典をめくると、「他者」のページにはこう記されている。

他者とは,まず家族や親族,友人,知人(略)世界中に生きている人々も,この他者という言葉のなかに確実に含まれてくる(略)
実に,他者は連帯性において捉えられるのであり,他者とのそのような関わりのうちに信仰は生きられるのである.同時に現実的には,他者との関わりにおいて示される我々の限界を認めることも一方では必要であろう.しかし,神は,我々にキリストに従うとはどういうことであるかを,他者との関わりにおいて問うているのである.

enjoyという言葉は、日本語の「エンジョイ」のように「楽しんでるのぉ」ていどの気軽なものではなく、「他者によってjoyがもたらされ、他者にjoyを与え、そのjoyで繋がって…」こんな厚みのあることを、いっぺんに私に感じさせる。現実のこうした「他者との関わり」から、彼らはもしかしたら自分の「神、信仰、宗教」をちらっと意識するきっかけを、見つけることがあるのかもしれない。

もちろんずいぶん前から「神は後退し信仰の力は衰えた」と言われている。ただ教徒であるという自覚がそれほどないまま現代に生きている人と、非キリスト教徒の私は、さまざまな意味で同じにはならないだろう。enjoyがありふれた言葉だと知っていても、未だにしっくりこない私の感覚は、背景にこんな「joyの概念」的なものがあるとすれば合点がいく。

それで『エンジョイ』の1幕、水野(同上)と小川(同上)が付き合いだしたことを喋る川上(同上)の台詞に、「手持ちの感想だとしっくりくる言葉が見つからない」が出てきた瞬間、私は驚愕した。川上(同上)の台詞が、そのまま英語のenjoyへの違和感を映しているように思われたからだ。川上(同上)はenjoyについての印象を述べたわけではないのだが、私にとっては衝撃的で、「エンジョイとenjoy」が何かのポイントになるのではという考えは彼の台詞を機に浮かび、劇を観た後は確信に変わった。
 
エンジョイ(四幕)/RIDING GIANTS_b0080239_13171676.jpg

 『エンジョイ』に出てくる人たちの説明をしておくと、30代に入った三人の男:水野・川上・加藤、20代半ばの二人の男:清水・竹内、23歳の女:小川。全員、漫画喫茶の従業員たちで非正規労働者だ。それに水野の前の彼女で派遣社員:前野、水野の幼馴染みの会社員:あつし。名前が出てくる人は、これですべてだ。しつこすぎるので省いたが、書き出した名前の後ろには皆(同上)がつく。

タイトルの『エンジョイ』は、漫画喫茶略してマンキツ→満喫の英訳なのかもしれない。それならrevelの方が訳語としてあいそうだが、その話はおいておくとして、とりあえずこの劇のエンジョイを見てみることにしよう。
まず漫画喫茶バイトの対価として、金は享受している。金についての台詞は実にきめ細かい。「けっこう飲んで男子は3000円ぐらい出して」とか、系列のカラオケ店は割引で行けるとか、彼女の誕生日プレゼントに、テディベアが高かったので無難な値段のリラックマに落ち着いたとか。等価交換で、これは使える・役に立つと自分が思うものを手に入れることができて、ほかは退けられる。これが金の楽しみだ。

今回はしょうもない駄洒落に踏み込むというリスクを侵してまで、岡田は「金の楽しみ」を言おうとしていたようだ。それは最後に『親指スターウォーズ』の劣化コピーみたいな映像で出てきた。指に顔が描いてあって、そこに漫画のような吹き出しが重なる。吹き出しの中身はなんと「¥ジョイ」。「ならもう、人はメニークルシミマスでよかったじゃないか」と雑に糾弾されかねない(『エンジョイ』は12月23日まで上演していた)。

もう一つ、その場の状況が自分に都合よくなるよう細かく立ち回り、チープに得する楽しみも描かれる。女への誕生日プレゼントや柔軟剤の残り香が恋愛でいかに役立つかを実践し、竹内(同上)に「意識超高い」という絶妙の台詞で褒められる清水(同上:画像下右)が、それに長けている。

竹内(同上)と清水(同上)は、30代の3人の頭文字をとって彼らを「みかか」と区別している。以前「ジーザス系」(ホームレスのこと)が来店した際に自分らがとった対応を、二人は「みかか」の水野(同上)から理不尽に怒られた。その一件を楯に、二人はジーザス対応全部を「みかか」へ押しつけることに成功する。珍しく小失敗するエピソードは、新入りを見た目から「自分たちサイド」と思い込んだ清水(同上)が、うまく取り込んでおこうと近寄ったものの、実は「みかかサイド」を上回る歳だったと喋るくだりだろう。
彼らを見るに、より楽しむコツは自分の役に立つ・得になるとわかることをジャッジし、それだけやるのに特化することだ。わからないものは避け、ごまかし、嫌うといい。

それでも他者との密な、継続的な関係をゆっくり築いていく恋愛は、相手の理解できない部分を関係ないとは押し切れないのではないか。しかし『エンジョイ』数組の恋愛はそうはいかない。出会ってから数カ月の「狩り」的な性格の強い時期と、要は自分に得させろという末期の会話からは、彼らが関係性を持続させる実力がほんとにないのがうかがえて、恋愛は怠け者の自己肯定のような体をなしていく。
 
エンジョイ(四幕)/RIDING GIANTS_b0080239_13174541.jpg

これらが『エンジョイ』のエンジョイだ。他者との持続的な関わりの中に成り立つ喜びが、わざと抜かれている。なぜ彼らが関わらないのか、あるいは関われないのか理由は示されず、他者との関わりがなくても生まれてしまえる片仮名のエンジョイだけが、舞台の上にぽつねんと残される。まるで彼らと他者との隔たりを可視化するように。

世代や立場に関係なく、ここで描かれたエンジョイを身近でリアルな楽しみとして感じるとしたら、それは自分と他者とが、ちょうどこんな隔たった関係にあるということなのかもしれない。その他者─共同体─社会─かつてそれと結びついていた、また国によっては今もそう遠くない関係にある「神、信仰、宗教」は、彼らの周囲にひたひたひたひた暗示的に捉えられている。劇の最初に映像で説明された日本の状況(景気が上向きだと言われているが、それが労働者に還元されないこと)や、フランスのデモの映像は「共同体─社会─かつて(略)」を暗示させるものだと私は考えている。

歌舞伎のように超越的な存在が登場したり、鮮やかな季節感の表現から、自然という圧倒的な存在と人間(観客である自分も含めて)が繋がっている感覚を、持ちやすい舞台を思い出してみよう。そこで味わう楽しさや恍惚感はまるでないが、このように『エンジョイ』では異種の感覚に触れることができる。一口に日本の演劇といっても、パフォーマンスはそれぞれ、比べられない魅力を秘めている。

なお、この作品には「フリーターのうわべだけ撫でた」「表層的」だとする見方がわりとあるが、それにも取り柄はなくもない。エンジョイという言葉のごく浅い、陳腐な使い方とその見方とが表裏一体の関係であると教えてくれるからだ。
ただ『エンジョイ』は、チェルフィッチュの優れた代表作『三月の5日間』と、暗示的な構造が若干似ている。新しい実験を観ているという意識を、あまり持てなかった理由の一つがこれだ。

また現実で、ある人が「知り合いの話なんだけどさ」と話している最中に、実は本人の体験なのではという匂いがしても、指摘しないことはたまにある。SMクラブに行った「知人の」体験を語る上司の話を、2人の同僚と黙って聞いたという実話が、私の身近にもある。

このように聞き手全員が「あなたの話ではないの」と察しているのに、あくまでも他人事として話が進行する状況には、劇的性格を持つ小さな渦が無秩序に存在している。たとえば聞く側が「あれ?」と思う瞬間、つまり本人の体験としての生々しさが匂い出してしまう時など、その場で聞いていたらとても劇的だ。

ところが『エンジョイ』では始めの方で登場した川上(同上)が、「あなたの話でしょ」(※台詞の細部は失念した)と加藤(同上)に言う。言い出さない現実に比べると、かえって作為的で演劇的なのかもしれない。

もし川上(同上)の台詞が公式サイトにある「超リアル日本語」だとしたら、「超リアル」は現実に生じている、劇性のある細かな渦が、従来の演劇的に「くーるくる」と巻き直してプレゼンされる場合も含めるのだろうか。この試みが「わかりやすさ」への配慮だとすれば、そこはかとなく残念だ。

ここには駄洒落「¥ジョイ」のわかりやすさとは違うまずさがある。テキストだけでなく身体もまた巻き直しの渦に飲み込まれ、前回書いた、ほかの舞台にはない面白いリズムは薄弱にならざるを得ないからだ。こうした配慮は彼らのやっている実験を、実験でなくしてしまうぐらいの破壊力を持っている。


【新国立劇場『エンジョイ』撮影:谷古宇正彦】

映画  『RIDING GIANTS』                   波は人ではないけれど…
エンジョイ(四幕)/RIDING GIANTS_b0080239_1963787.jpgつねに変化する壁のような波は、巨大な生き物に見える。波音を聴くと、思考を奪われる感じの恐怖がある。波を、自分とは圧倒的に違う他者だと考えてみよう。ビッグウェーブに乗るトップサーファーはそれに身体で触れて、一緒に遊んでいる。そんなものすごいことのできる天才たちの至高体験が、この映画ではトップ・オブ・ザ・トップの共通認識として語られていた。新旧の名サーファーがインタビューに答えている。語り口は違うが、皆さん大変愉快という点であまり変わらない。
by kouchiyama-simone | 2007-01-02 13:49




ページの上へ