劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

FINA Synchronised Swimming World Cup 2006 (2) 

シンクロワールドカップ2006 フリーコンビネーション 横浜国際プール 9月14日

芸術性ってなんですか イメージと身体 

初回はこちらです。音楽と身体のことを中心に書いています。 
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スペイン:使用曲はアンドリュー・ロイド・ウェーバー『CATS』
(テキスト内の小さな画像は、クリックすると拡大します)


前回の最後に、演技終了後の選手の身体について書いたが、では演技が始まる前はどうだろう。
シンクロの選手たちのきびきびした入場や入水前のポーズは、点数にこそ入らないが、元マーメイドの皆さん(審判員)の心証アップを狙って、あのように動くのだという。ルール自体は陸上の競技なしで水中からの演技スタートもOK、飛び込み方法に規定はない。
            
ならばそういうものを見慣れてスレた審判員は、チェルフィッチュのようなノイズだらけの身体でバラバラと選手が現れ、 妙にきつい体勢でダラーと入水するや人間脱水機みたいな壮絶な演技をしたら、がぜん注目して、独創性や新しさに心をときめかすのではなかろうか。

…少し誇張はしたが、ふざけたつもりはない。「人と同じことをしていてはだめなんです」式の説教は、日常でしょっちゅう聞くではないか。それにのっとって戦略を練れば、こういう心証アップの方法もありではないかと。
しかし実際にそんなことをする国はなく、選手たちが揃って組んでぴちぴちと動き、テーマとなる何か既存のイメージにコミットする、という方向性は決まっている。

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スペイン:↑はトップ画像を正面から撮ったところ

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カナダ

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日本(1)
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日本(2)

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ロシア(1)
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ロシア(2)

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スイス

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ブラジル

「観ている不特定多数の客が、安心して受け入れられるものの方が、よりわかりやすい」
かりに「わかりやすさ」のガイドラインをこんなふうに引いてみると、テーマに選びやすいのは…

・わあっきれい、おおパッショネイトと思えるもの

本音はこれにつきるのではないか。
ここで記事を終わりにすると身も蓋もないので、もう少し考えてみると

・シンクロが知られている地域で、誰もが知っていると言われるような、フォークロア的な伝説やお伽話。バレエなら『ラ・シルフィード』からマリインスキー劇場時代のプティパ全幕作品を経て、バレエ・リュス『シェエラザード』ぐらいまでの時間的・地理的な幅を含める。エキゾチズムもここに入る
・同じく、誰もが知っているような童話や文芸作品、神話(の主人公)
・その底流にある世界観や抽象的概念
・一般に強烈なイメージを持たれている歴史上の人物
・古典から現代まで、太い音楽の骨格を持つ芸術/エンタテイメント作品

思いのほか分け方が難しく、それぞれに当てはまる作品を挙げていくと被るもの、特にオペラやバレエ作品は数多い。これらは「どベタ」な要素を多分に持っている。そのベタを前面に出せば、さらにイメージはわかりやすく、伝わりやすくなる。そんなわけでスポーツの芸術性は、この「ベタ」に戦略的に近づくのではないかと思う。

選ばれた既存のイメージに対して、客がそれぞれ勝手に持っている雑多な先入観にたくましく応え、さらに面白がらせる。書くと簡単だが、パフォーマンスとして定着させるには多くの才能とアイディアが必要だ。したがって面白がらせるための伝統的な方法や、新しい試みを観るワクワクした気持ちや楽しみ、あるいは死に体にしょんぼりすることは、これまでもこれからも変わらずにあり続けるだろう。

二回に渡って書いたことを芸術性というのであれば、技術は芸術性をたやすく左右する。それに技術の可変域は、あらゆる意味で限定される音楽と身体の関係、イメージと身体の関係とは、比較にならないほど大きい。

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日本

たとえば約20年前は、仲間の力を借りて身体の8 ~9 割を水上に出していたのが、今では自力でほぼ同等の身体体積を、水上に持ち上げる選手が現れたという。それから速い移動と展開、衝突しそうなぐらいに近づいた選手間の距離、高い跳躍と柔軟性、アクロバティックなリフトを支える推進力の飛躍的な伸びなどは、シンクロを見慣れた人の「シンクロナイズドスイミング観」にも強い衝撃を与えてきた。
それらを一連の泳ぎに織り込んだ結果、「選ばれた既存のイメージに対して、客が勝手に持っている雑多な先入観にたくましく応え、さらに面白がらせる新しい試み」になったのではないか。

報道などで言われる「技術性か芸術性か」という煽りは、採点競技をわかりやすい勝ち負けに見せるための工夫なのかもしれない。「技術一辺倒への批判」などといえば、芸術性は対抗馬であるかのようにさえ感じられる。が、そもそも二大別できてしまえるとする思考法の方が、よほどいびつだと私は思う。

あるいは、こんな言い方もできるかもしれない。
シンクロの選手たちは、「同調する身体」というフィクショナルな動きを人に見せる意識を、強く持っているように感じられた。ただし音楽/イメージと身体の決まった関係、勝ち負けなどの条件があって、演技は純粋なクリエーションとして振付られたり評価されることはなく、現行のルールに従って採点される。だが力学的に不可能と思える泳ぎを、流れるように見せるエッジな身体は、そうした状況に制限されず、時にそれらが推進力となって先にいける。

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日本

シンクロを含めて全般にスポーツの放送は本来ならこういう科学、特に信じがたい運動現象を解明するスポーツ科学の中心的な領域を、ていねいに観るのに向いているはずなのだが、いろいろと不可解なことが起きている。

まず実況の奇声とか、酔った親戚がつけそうなコピーで一律的な感動をくださろうとする姿勢を、なぜ頑なに守ろうとするのかが不思議だ。
それから、映す/映さないの判断。
たとえば今年のプロ野球日本シリーズの最終戦では、落合親子がついに映らなかった。しかし何年か前の巨人戦~終了後のセレモニーで、徳光アナの号泣と感極まったつぶやきは、ずうっと流していたのを私は覚えている。両者を分ける倫理と感性はなんなのか、よくわからないし、知ってもがっかりするだろう。

現場で観たシンクロの身体は、スポーツをめぐるそういった不可解な音・映像とは異次元の場所に、これまで聴いたことのない力強い水音とともにあった。そして、速いからってなにとか勝ち負けのくせになどという、スポーツ嫌いに揶揄されるがままではなく、スポーツ観戦はもっと身体を観る目を養えて、科学に親しめるものだという大きな可能性を示していた。

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イタリア

観戦雑記に続く
by kouchiyama-simone | 2006-11-06 13:34




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