劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

FINA Synchronised Swimming World Cup 2006 (1)

シンクロワールドカップ2006 フリーコンビネーション 横浜国際プール 9月14日

芸術性ってなんですか 音楽と身体

ごく簡単なルール説明、参考サイトなどは別ページにまとめました。
「認めがたい」のナゾと、シンクロ4つの種目
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上:ロシア 下:日本 
(テキスト内の小さな画像は、クリックすると拡大します)


できるだけラクして、あたりかまわず長く泳ぐ。
これの対極にあって、さらに一部の選手は力学的に可能と思えない泳ぎをするのがシンクロナイズド・スイミングだ。
競技時間はテクニカルルーティン ・フリールーティンの順に、ソロは2分と3分 、デュエットは2分20秒と3分30秒、チームは2分50秒と4分。フリーコンビネーションは5分(各±15秒)。この短さは一説によると「限界だから」。競技のきつさは想像をはるかに超える。

実際にプールでフリーコンビネーションを観たら、身体の同調性が高いと力強さが増すのを感じた。それは水音にも現れる。水の抵抗を身体の芯から断ち切るような力は、動きをよりクリアに伝える。音楽のダイナミクスに同調しているかどうかは、動きがクリアに見えないと判断しにくい。それに水からたくさん身体が出ると、やりたいこともはっきりする。

同じ角度で水面に上げられた複数の脚、難しい回転でも軸が微動だにしないたくさんの脚を観て思い出したのは「in the groove」だ。グルーヴの語源になった言葉で、レコードプレーヤーの針が、レコードの溝を正確にトレースしている状態を表す。脚を針にたとえれば、競技中に「真っ直ぐ」「きれい」と高く評価される脚は、音楽にぴたあっとハマっている状態なのだ。これが連続すると、泳ぐ身体にはグルーヴが生まれる。

上でリンクしている「『認めがたい』のナゾとシンクロ4つの種目」の中で、採点競技につきものの「順位が決まっているのではないか」という指摘の根拠を仮定して、ずいぶん遊んだ記事を書いた。が、近くで観ると今書いたことが如実にわかるので、遊び記事に書いたような採点は、やはり安コントや劇中劇の領域に入ってくるだろう。

競技でよく使用されるクラシック、シルク・ドゥ・ソレイユの舞台音楽、映画のサウンドトラック、ミュージカル…いずれにしても大勢に向けてつくられた曲には、不特定多数を惹きつける、とても太い骨格がある。この骨格の太さに選手たちの身体がシンクロすると、観客は一気に引き込まれる。

たとえばロシアが使ったヨハン・シュトラウス二世作曲の『こうもり』は、バレエを挟む形式の、特に第2幕は酔っぱらいながら踊りまくり「シャンパンの唄」で最高潮に達するオペレッタで、そもそも大変ダンサブルだ。

歌詞には何回か鳥が出てくるが、どてっとしたさえないものを尻目に鳥が軽やかに飛ぶような洗練と、他愛なく辛辣でいきいきした人間観察、和解が人間愛ではなく酒の下でなされるアイロニー、それにコミックバンド的笑い(個人的に大好きだ)がとけあった作品になっている。

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b0080239_23122570.jpgワルツの3拍子と、母音がしっかり子音の面倒を見る日本語のリズムは、まるで違う世界だ。でも私が初めて劇場で『こうもり』を聴いた時は、そんな事情に関係なく、水を弾くように粋でアッパーで悦楽的な音に夢中になった。よほど暗くて悪い時代にできたのかもしれないと思ったら、初演は経済恐慌を引き起こしたウィーン株価暴落の翌年だ。おまけに構想された頃は空前の好景気だったらしい。
これは想像の域を出ないのだが、初演当時『こうもり』のワルツは、観客の郷愁のようなものをおそらくものすごい勢いでかき立て、その高揚感は新しいとも古いとも区別できない愛国心─ワルツを育てた自分たちの文化に対する誇り─と、どこかで繋がったのではないかと思う。

b0080239_23125339.jpgロシアの演技が、そういう音楽にどうシンクロしていたかは、画像が鮮やかに伝えてくれるだろう。
フィギュアスケート競技のジャンプでは、「私は これから 大技に 入るっ(踏み込み)」という選手の滑走を、観客は固唾を飲んで見つめる状態になる。音楽はここで、ストップウォッチ的な役割を果たす。シンクロの場合、大技を水中で組み立てている間の身体は、上から観ていると様子がわからない。ロシアが潜水している時の水面は、レッド・オクトーバーがザバァと海面にスピン浮上してくるような、不気味な静けさをたたえていた。こうなると見えない緊張をはらんだ水自体が、一つの仕掛けだ。音楽は、水の幕が上がる前の序曲になる。身体が見える/見えないだけで、音楽の印象はこんなにも変わる。画像8点:ロシア

水面と水着の輝きは想像していたよりずっと眩しい。スピードのある幾何学的なフォーメーションは、撮り方によってはサイケデリックな映像になりそうだった。
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左:ブラジル 右:ロシア

最近シンクロの論文を読んでいたら、ロケットスプリット、ロケットサイドスプリットというフィギュア(技)が紹介されていた。
こんなところにもロケットが!「ロケットなんとか」はグラビアからスポーツまで、万能なネーミングらしい。そういえばドラえもんにも、ロケットガム(噛むとガスが出て自己発射可)というひみつ道具があった。
またシンクロ史に刻まれる新しい技や演技は、著しくスキルの高い選手の出現によることもあるのだが、おもに「ルール改正」がきっかけになって現れている事実に驚く。

b0080239_0281861.jpgルール変更は、この論文によれば「ビジネス」や「あまりに退屈だという見る側からの一方的な理由」で行われることもあるらしい。ルールの変遷にはおなじみのスポーツ政治の歴史が、はっきりと映し出されている。

かりに技術の進化や演技の多様化は、初めにそうしたルール変更ありきだとしても。選手は高得点のためだけに精進しているのか、それとも表現したいという気持ちが高まり大きなエネルギーと快楽が生まれた時に向上するのか、はたから各選手の心理を忖度して二大別することなど不可能だろう。
左:ソロ/カナダ

ただし採点法にある多様性や創造性、水域の利用といった言葉は、振付を純粋なクリエーションとして現代人の脳と感覚で自由に評するのとは違い、現行のルールで高得点に結びつく動作を、決まった時間の中にどう効果的に構成したかを問うためのものだ。
このために、仕方ないことだが音楽はつぎはぎとカットを施され、また音楽と身体の関係は、あるていど限定されてくる。

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 スイス: ↑はジャンプ中というより、宇宙船に吸い込まれていくようだ

ところで32回転や超絶技巧を決めてガッツポーズを出すバレエダンサーを、私は見たことがない。
終わった直後のレべランス(お辞儀)も、最初は踊っていた役の余韻や作品の情感を深く残して現れ、拍手に応えて何度も登場する内に、ゆっくり目覚めるように自分に戻るバレリーナもいる。

逆に芸術性のあるスポーツでガッツポーズを見ると、勝負師の世界の凄味や闘志を感じて素朴に尊敬したりするのだが、それはあくまでもアスリートに対する感動だ。
シンクロの選手たちは、まちまちに喜びを表現したりこぶしを突きあげる様子はなく、演技終了直後から結果が出た後も、ゆるやかに動きやリズムをあわせていた。同調というのは、それ自体とてもフィクショナルな行為だ。

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左:日本 右:スペイン

…この記事続く イメージと身体
by kouchiyama-simone | 2006-11-01 16:49




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