劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

演劇の目で観たスポーツ 3 フレンチオープンテニス

プレーヤーズ・プレイ 俳優の試合と選手の演技

 全仏公式マガジンRoland-Garros Magazine Internationaux de France 2005 の98-100ページ では「俳優たちのゲーム」というタイトルで、映画の脚本家Jean-Loup Dabadie(1938-)が、10年前に同誌で受けたインタビューを抄録している。ちょうど2005年の8月、彼が昔手がけた作品のDVDが発売になったらしい。

 映画はテニスが出てくる70年代の連作コメディだったようで、実際に元デ杯の選手をコーチに招き、週2回の割合で1カ月間、ジャン・ロシュフォール(Jean Rochefort,1930-)ら4人がしごかれたそうだ。映画のアイデアはどうやってうまれたのか、また制作・撮影時のエピソードなどが語られている。
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 写真のセレクションが最高だ。どれを見ても本編を観たくなる。インタビューは「試合後の解説です」というフレーズで始まり、誰が一番いいプレーヤーだったかお互いに語るという、俳優の仕事にひっかけた遊び記事(DVDの特典映像から書き起こし)もある。ダントツの大根はGuy Bedosで皆の意見が一致している。

 映画の監督はイヴ・ロベール(Yves Robert,1920-2002.「冒険また冒険」「マルセルのお城」など。舞台俳優出身で「男と女」には俳優で出演している)。Dabadieと組んだこの2作は優れたコメディのようだが、調べた限り日本では通常公開されなかったらしい。ちなみに1番目の作品「Un Éléphant, ça trompe énormément 」は、80年代にアメリカでリメイクされ「The Woman in Red」になった。

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 左上はRoland-Garros Magazine の表紙。2005年はフランス人テニスプレーヤーのスザンヌ・ランラン(Suzanne Lenglen, 1899 -1938)が、ウィンブルドン6度目の優勝、また国際大会になって初の全仏選手権に優勝した1925年から80年目にあたった。それにちなんで現役のアスリート9人が、54-65ページでランランの時代のテニスシーンを演じている。

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 コートに立つ彼らは単体で観ると大変研ぎ澄まされた身体なのだが、当時の実際の写真と比べると、テニスの技術の進化に応じて、くっつけたりぶらさげているものが多い身体であることもわかる。

 ハードヒッターが増えテニスのパワー化が進むにつれ、身体だけでなくボールの速さや強さもずいぶん変わった。
 97年にはWTAランキングの計算法が平均法(1年間の獲得ポイント÷大会数)から加算法になり、以後選手は世界各地での連戦を余儀なくされている。計算法の変更は、ベテラン勢が出なくなった大会のスポンサー離れを防ぐ策でもあったという。それらが原因で、特に女子トップ選手の故障が続出している(6月20日付の朝日新聞朝刊より)。主催者は、以前に比べ金銭面での待遇をさらによくすることに成功したが、興行優先でツアーは過密日程らしい。

 冬季オリンピックが好例だと思うが、日本人選手活躍の後のあからさまなルール変更の歴史から学べるのは、「あちらの考え方では、ルール(きまり)は自分たちを有利にするためにある」ということだ。今回の場合、主催者にとって「自分たち」に選手はたまたま入っていないのであって、現状が自分たちに不利と判断したら、素早く変えるはず…なんだか、すごく古い話につきあっているような気がしてきた。今日の新聞を読んだとは、とても思えない気持ちだ。

 「演劇の目で観たスポーツ」の1と2で詳しく書いた通り、フレンチオープンの観戦には、リズムの面白さ、演技ではないが演技のような世界の驚き、新しい科学に立ち会う興奮があった。選手のコンディションが慢性的に著しく低下すれば、これらは観られなくなる。

 プロ・テニス界の現状に問題提起する切り口はいろいろあるだろう。ただスポーツ・ジャーナリズムからはるか彼方にいる者としては、合言葉のような拝金主義やスポンサー批判よりも「面白いものがつまらなくなるおそれがあります」と言われた方が、深刻な問題だという意識をすぐに持てる。

 ところで今劇場で観るクラシック・バレエや歌舞伎などの伝統芸能も、作品が初演された当時のパフォーマーと今とでは、 やはり大きな身体差があるだろう。それを超えて現代の観客に「古典」としての感動を与えるためには、視覚に対してはもちろんのこと、聴覚など視覚以外の作り込みも大事だ。

 「近世の大坂、つまりある時代のある地域で記された言葉(義太夫訛り)が、型という特別な修練を積んだ現代の人間の身体を通し音として目の前に立ち上る、その生々しく艶のある音の抑揚や運びから、言葉の意味を超えた人間の内面の起伏そのものをありありと感じ取ることによってもらい泣きが起こるのだ。音楽的かもしれないが、音楽とは異なる。感情移入でも同化でも共感でもない。だから頭で考えるとめちゃくちゃな話でもかまわない。例えるなら、辻褄はあわないが感覚だけ非常にリアルな夢を見たような感じだ。 」
劇評「若草物語」から引用した。この前に、19世紀に書かれた『Little Women』という物語の読み方と、そこに出てくる身体について少し書いている。
by kouchiyama-simone | 2006-06-21 01:12




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