劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

特集 ハゲレットを真に受けて考え続ける

この記事は、前回の「ハゲレット」評から続いています。

CHAPTER1

 物語に出てくる貴族は、政治をやっている時もそうでない時も、大抵とても退屈そうだ。それでも毎日、実に豊かに喜怒哀楽の感情を表して、疲れて昼寝したりしているのは、頭を酷使して言葉を使い、互いをもてなし遊戯にしのぎをけずっていたからに違いない。
 イン/アウトドアどちらの遊びも、頭を使わないと退屈はあっという間にやってくるどころか、遊ぶ前より虚しさが増す。この時にもっとも辛いのは、現実は退屈なものだと認めることより、遊んでいる当人が、自分という存在の「きつさ」を感じてしまうことだろう。今は遊びを基準に考えたが、こうして見ると人がアクティブである状態というのは、行動の種類や頻度だけで決まるのではなく、まず脳が活発に動いているかどうかが問題だ。

 というわけで「ハゲレット」の考え続けたハムレットは、抜けた毛髪の量に比例してとてもアクティブな人だったのであり、「ハゲレット」は動体しかアクティブと認識できない「非アクティブな脳」の怖さを笑った力強い劇として捉えられないか、と考えたのだが。

 一人だけ生き残って辛いホレイショーの言葉は、原作の場合フォーティンブラスが聞く耳を持ち、正しく理解してくれることで力を持つ。それによってハムレットの遺志も叶う。しかし「ハゲレット」ではフォーティンブラスがあんななので、ラストの時点でホレイショーの言葉は行き場がなく、周りと断絶していて無力だ。
 また客の実感から逸れず大いに笑いをとった分、その笑いの元、つまりクローディアスやガートルードが代表する、雑で現実的な力の残響も大きい。が、劇を絶望・厭世で終わらせ、笑いと実感と雑な力が一直線に繋った時に客が非常に居心地悪くなるという、ある意味嫌がらせ的な手法をとったということでもないようだ。

 実際資料によれば「ハゲレット」は、エンタテイメントとしてのハムレットを追究したいという狙いがあったそうだ。しかし少なくとも自分の観てきたエンタテイメントのいくつかは、もっと始まった時点で諦観や疲労の淵に立っており、最終的にはそこにわずかに立ち上るタフで寛容な明るさを見せていた、という実感があった。
 
 では自分ならこのラストをどうするかと考えたが、フォーティンブラスの描き方は「ハゲレット」の成果だろうと思うので、やはりレイアティーズに「う」ではなく台詞を言わせてみよう。ハムレットのハゲ・フォロワーを増やすことにより、「口にこそしないがハムレットがずっと持っていたであろう、自負と誇りとそこはかとない希望」に言葉の輪郭を与える。

気高いハムレット、許し合おう。
私や父の死が、君のせいになりませぬよう。
  
そして君のハゲが、遺伝のせいと言われませぬよう。[死ぬ]

CHAPTER2

自分に問題を出してみた。

 Q. CHAPTER1で言及した他に、「エンタテイメント」について考えを述べなさい。
使用禁止語:スペクタクル 消費 観客というシステム 政治 演劇の死/崩壊 おバカ

 A. 楽しませ方、つまり娯楽性というものが豊かで、頭の理解だけでなく視覚・聴覚に訴えてくる面白さがある。たとえば、話は自分の日常とかけ離れている上に無茶苦茶なのでちっとも共感できないが、音楽的な言葉の響きや、特別な修練を積んだ身体だけから立ち上がる、生々しいリアルな何かにもらい泣きするとか。あるいは、思い出してみると辻褄はあわないのだが、感覚は非常にリアルで、すごい快楽に浸った夢を見たような。それから話に敷かれる根本的な世界、呑気なファンタジーにせよ仰々しい一つの完結したものにせよ、または統一性のない複雑なものであるにしても、それを芝居にしていく徹底した推敲と取捨選択を行っている。

 さてここで、エンタテイメント性を志向したという「ハゲレット」に目を向けてみよう。今回は観客の笑いを丁寧にすくい取るために、「現代日本人の実感から離れない」を軸にしようという意図があったはずだ。しかしその実感の捉え方が、やや単純だったかもしれない。

 最後のレイアティーズとの許し合いは、友情の回復というよりも「死後の神の裁き」を考えると、なくてはならない台詞である。それを「ハゲレット」は「う」にした。その他にもクローディアスの「祈ったふりをこいていた」例を取り上げたが、これらは登場人物の信じているものを茶化しているのではなく、違う時代と文脈から実感に沿って無理のないように脚色すると、そうなったということだと思われる。
 
 人物たちはいちおうは救われようとするが、許し合いは前面に出てこない。超越的な存在との関係よりむしろ個人的に悩み、しばしば居直る。このなんだか強い感覚、原作の死生観から見るとなんで平気なのかという驚きを「ハゲレット」の世界として徹底すれば、私たちが普段意識していないけれども気づかされる「実感」が増え、面白さも多面的になったのではないだろうか。
by kouchiyama-simone | 2006-05-05 09:03




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