28—29 十三歳の少年の一人称で

もう何年も前にこのデューモントで、ふたつのまったく関係のない殺人が、偶然にも同時に引き起こされた。殺人だったとは気づかれないまま、どちらも経過していった時間の底に埋もれ、未解決のまま町の人々からはほとんど忘れられた出来事となっている。日常生活のなかのほんのちょっとしたことから、このふたつの出来事へやがては到達するはずの最初の一歩を、少年は踏み出してしまう。ふたつの殺人の真相に、彼はどこまで接近することが出来るか。少年の一人称を支え、その語りを推進させていくサスペンスが、そこに発生する。
ふたつの殺人のどちらもが、具体的な事実関係をそれぞれに持っていた。真相とはその事実関係であり、それはどちらの出来事においても、ひとつしかない。存分に時間が経過したあと、数少ない、しかもどれも小さくて断片的な手がかりを積み重ねる作業をとおして、殺人として現実に存在した事実関係に、どこまで迫ることが出来るか。推理によって組み上げた真相の構造が、現実にあった事実関係の構造と、どこまで合致するか。おそらくこうだったのだろう、とひとまずは言いきっていいぎりぎりのところまでは、到達することが出来る。
ふたつの殺人に関して、その真相をすべて明らかにすることは出来ない、という方針で書かれている。正解はそれしかないだろう。手がかりがどこにもなく、しかも事実関係はとっくに消えているのだから、真相など明かしようもない。ふたつの殺人のうちひとつは、かなりのところまで解明される。そしてもうひとつは、全体像がぼんやりと浮かんだところで、物語は終わりとなる。かなりのところまで解明される殺人は、その出来事の構造が単純であるからだ。そしてその殺人事件は、一九五八年東テキサスの小さな町に生きた、最底辺と言ってもいいほどに貧しい人の側に、振り当ててある。ごく曖昧にしか解明されない殺人のほうは、その町でいちばんの金持ちの側の出来事として、物語が作ってある。作者によってここに対比が意図されているようだ、と僕は思う。
殺されたのはどちらの場合も女性だった。遠い昔の殺人の真相が解き明かされるとは、彼女たちを殺したそれぞれの人たちが、なぜ殺さなければいけなかったのか、その理由が明らかになることにほかならない。どちらの殺人においても、殺した理由は、自分のありかたをそれによって支え、補強し、出来ることなら増幅もしたいという、エゴにかかわる問題だった。東テキサスの小さな町、という限定された時空間のなかに、ふたとおりのエゴが対比されて描かれている。読み終えて半年後のいま物語を振り返って、僕はそんなふうにも感じている。

by yoshio-kataoka
| 2006-08-08 17:29