ペーパーバックの数が増えていく TEXT+PHOTO by 片岡義男

24 箱入りカスタネーダ

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 『ドン・フアンの教え』から始まったカルロス・カスタネーダの三部作が箱に入っている。ポケット・ブックスの一九七五年の版に箱をつけたのだ。五ドル二十五セントだった。僕の長いペーパーバック体験のなかでも、三部作が箱入りになったものは、これが初めてだ。そしてそれ以後、おなじ試みを一度も目にしていない。
 見えている世界のどこか向こうにある、見えない世界への精神的な旅。三部作の表紙やその裏に印刷してある、うたい文句のひとつだ。見えている世界とは、西欧文明によって作られ規定されている世界のことなのだろう。見えている世界しか見えない自分という存在も、そのなかに含まれるはずだ。見えない世界とは、どこにもない精神世界の出来事ではなく、西欧文明とはその文脈を根幹から異にする、まったく違ったありかたの自分が見るはずの、別の世界のことだ。別とは言っても空は空であり、海は海、雨は雨、風は風なのだ。だからそこには道があるはずであり、その道を導かれて旅するなら、旅の果てには別世界があるのではないかという、西欧文明による世界認識そのものをなぞる行為が、いったいどこまで有効か。
 しかしアレゴリーとしては、そんなふうに言うのがもっともわかりやすいだろう。したがって、導かれて旅をする時空間は、民族史的なものにならざるを得ない。万物を越える知恵を持ったヤキという先住民に教えられながら、砂漠や荒野をさまよい、幻覚剤の助けを借りて危険の淵をいく、というようなことになってしまう。教えられながらの危険な旅とは、要するに蓄積のことだろう。蓄積の果てに別なものが見える、という前提になっているようだが、蓄積とはまるで反対のところに、道や旅などいっさい必要なく、目の前に、体のなかに、別世界は常にある。
by yoshio-kataoka | 2006-07-21 16:34




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