ペーパーバックの数が増えていく TEXT+PHOTO by 片岡義男

13 アイン・ランドの小説をもらった

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 三十一歳か三十二歳だった頃、ホノルル空港で見知らぬアメリカ女性からもらった『アトラス・シュラグド』を、僕はいまでも持っている。完璧ないきずりの関係でしかない四人の他人が、空港のバーでモノポリーをしてひとときを過ごした。モノポリーをしないかと提案したのが、そのアメリカ女性だった。
 モノポリーが終わって別れる前に、彼女がバッグから取り出して僕にくれた『アトラス・シュラグド』が、写真のいちばん下にある。一九五七年に刊行され、シグネット・ブックというペーパーバックのシリーズに加えられたのが、一九五九年だった。それから版を重ね続け、僕がもらったこれは一九六一年の第八版だ。
「私はもう読んだから、これをあなたにあげます。もらってくれるなら、これからこの本はあなたのものです」彼女がそんなふうに言ったのを、なんとなく覚えている。生活にも気持ちにも余裕のありそうな、したがって教養も充分に身につけた人という雰囲気の、中年女性だった。
 彼女からこの分厚いペーパーバックを受け取ったとき、僕がまず感じたのは違和感だった。千ページを越えるペーパーバックの、古びて傷んだ様子が、彼女には似つかわしくないのだった。彼女は一冊の本をこんなふうにしてしまう人ではないように思えた。ということは、彼女以前にすでにこの本は何人もの人たちの手をへているのだ、と僕は推測した。傷んでいるとは言っても、それほどひどくはない。しかし手垢は充分についている。どの人も熱心に読んだのではなかったか。
 写真のなかでまんなかにあるのは、おなじ『アトラス・シュラグド』の、おそらく一九七十年代の版だろう。そしていちばん上にあるのは、一九九二年に出た、刊行三十五周年記念の版だ。こうして三冊揃うと、小説であり本であると同時に、写真の被写体として絶好と言っていい質感や雰囲気を持った、たいそう好ましい物体として、僕は接したくなる。
『アトラス・シュラグド』を僕は読みたいと思っている。しかしその前に、一九四三年に出た、序章とも言うべき『ファウンテンヘッド』という小説を読んだほうがいいかもしれない。さらには一九三六年の処女作『ウィー・ザ・リヴィング』まで、さかのぼるべきか。さらには著名な四冊のノン・フィクションも、少なくとも手もとには置いておくといいだろう。そのどれもが、僕の背後にそびえているペーパーバックの山のなかに、かならずやあるはずだ。
 アイン・ランドが説いたのはオブジェクティミズムというヴィジョンだった。客観論あるいは客観主義、といった言葉があてはめられるかと思うが、彼女が言う客観とはアブストラクションのことだ。具体的なものはひとつひとつみな違うけれど、アブストラクトすると論理はおなじであり、そこにはロジックの法則がとおっていて、ではそのロジックの法則はどこから生まれてくるものなのか、そしてそれはこの世でどのように機能するのか、ということを小説で描いたのが、『ファウンテンヘッド』や『アトラス・シュラグド』だ。
by yoshio-kataoka | 2006-06-12 11:19




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