ビーチサンダル・クロニクルズ TEXT+PHOTO by 今井栄一

044【ashes and snow、瞑想する象、シンクロニシティ】

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 昨年の2月にサンタモニカで見たGregory Colbert(グレゴリー・コルベール)の個展『ashes and snow』が、やっと日本へやってくる。来月から東京・お台場で始まるのだ。
 この壮大なエキシビション、一昨年はニューヨークで開催されていた。僕はその年も何度かニューヨークへ行ったのにタイミングが合わず、ついに見られずじまいだった。そのもっと前はヴェネツィアだった。ずっと「見たい、見たい」と思っていて、それで昨年やっとサンタモニカで見ることができたのだった。
 とにかく素晴らしいエキシビションだった。
 独特の体験をさせてくれる空間がそこにはあった。それをここで言葉だけで説明するのはとても難しい。
 あえてひとつだけ言うならば、コルベールがやろうとしているのは、「時間体験」なのだろう。ある「時間」を、訪れた人々に体験させる、共有させる、考えさせる、ということ。その独自の「時間体験」を見事に増幅させているのが、彼の写真や映像であり、音楽であり、後述するがその独特の美術館の形態なのだ。
 この「時間」はそのまま「歴史」と言い換えてもいいかもしれない。歴史と言っても、歴史的建造物とか戦争とか人類史とか、そういうことではない。コルベールが表現している時間とは、「あらゆる生き物の、細胞の時間、思想の時間」である(もちろんこれは僕の個人的見解だけれど)。

 とにかく、サンタモニカでコルベールの素晴らしいエキシビションを体験して以来、再び見られるのを楽しみにしていた。必ずもう一度ゆっくり見たいと思っていた。サンタモニカの次に東京で開催されることはずいぶん前に発表されていたから、僕は文字通り首を長くしてやって来るのを待っていたのだ。
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 グレゴリー・コルベールの名前を聞いたことがある人はいるだろうし、彼の作品を見たという人もいるはずだ。
 数年前、彼は来日して個展を開いているし、現在、東京・六本木ヒルズにあるミュージアムで、小さな写真展が開催されいる。けれど、これらは純粋な写真展であって、僕がサンタモニカ・ピアに特設された「The Nomadic Museum」で体験した壮大なエキシビションとは、かなりーーいや、まったく、と言った方が正確だろうーー異なっている。彼の世界はやはり、この『ashes and snow』で体験しなければならない。

 このエキシビションを語るときに、そのユニークな美術館の形態について説明する必要があるだろう。
 日本国内よりも欧米で著名な建築家、シゲル・バンによる、紙パイプとコンテナを使ったユニークな建造物を、バンとコルベールは、「The Nomadic Museum=遊牧民たちの美術館」と名づけた。コルベールによる個展『ashes and snow』は、その美術館と一体化したもので、どちらが欠けても成立しないのだ。
 コストがものすごく安価で、軽いから持ち運びが簡単、誰にでも組み立てることができ、再生可能、さらに燃やすことができるーーバンが考案・発明した「紙パイプを使った住居、建造物」は、すでに世界中で知られているが、最も有名なのは、阪神淡路大震災直後の仮設住宅や、スマトラ沖大地震によって発生した津波で大きな被害を被ったアジア各地の浜辺に自ら作った仮設住宅などだろう。バンは常にマイノリティや弱者の住環境に関心を寄せているようだ。
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 「The Nomadic Museum=遊牧民たちの美術館」は、その名前通り、遊牧する=旅する美術館である。前述したとおり一昨年の初夏にはNYにいた。船に乗って旅をし、昨年冬、LAにやって来ていたのだ。
 いや、正確に言うなら、この美術館そのものが「船」なのだ。その船が、3月、お台場に現れる。

 コルベールは、自分の作品展『ashes and snow』を開催するには、何か特別な形、スタイルが必要だと考えたのだろう。バンが設計した紙パイプを多用した巨大な倉庫は、無数のコンテナで形成されている。コンテナの中にコルベールの作品はしまわれ、コンテナ船ごと旅をするのだ。そして、到着した港に土地を借り、コンテナを今度は外壁として使用する。入っていた作品をその内側に展示する・・・というわけだ。作品も美術館もともに旅をする。なんて素敵なんだろう!
 とは言え、一生懸命書いたけれど、やっぱりわかりにくい。興味を感じてもらえたなら、是非とも自分の目で見、身体で感じて欲しい。「The Nomad Museum」は、お台場で現在組み立てられている最中だ。

 僕は幸運なことに、昨年、LA滞在時にサンタモニカ・ピアに寄港・開催されていた『ashes and snow』を見ることができたわけだ。バンによる建造物=美術館はもちろん素晴らしいが、やはりコルベールによる作品群には圧倒された。
 彼のHPを見ることでその独特な世界は感じてもらえると思うけれど、大きな和紙にプリントされた写真群、ヴァージンシネマ六本木の一番大きなスクリーンよりも巨大なスクリーンに投影された映像、そして、イマジネーションを喚起する音楽……。
 好き嫌いは人それぞれだと思うけれど、僕には、実に心地よい空間・時間だった。
 「ああ、僕が言いたかったのはこれだった!」という奇跡的なシンクロニシティを感じたのも、僕が感激した理由のひとつだった。きっと訪れる多くの人たちが、同じようなシンクロニシティを体感するに違いない。会ったことのない作者の意志と意図に、100%同調することだろう。美しいシンクロニシティを感じる展覧会なのだ。
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 我々は何処から来て、何処へ行くのか。我々とは何か。
 コルベールは、インドやアフリカの美しい人々を旅人として、そんな問いへの彼自身の思いを想像力豊かに、詩情豊かに、物語性豊かに、表現している。その世界では、無数のゾウやクジラたち、鷲や鳥やヒョウたちが、瞑想している。彼らが僕ら人間に、何かを教えてくれようとしている。そして見る我々も、瞑想するだろう。

<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『ASHES AND SNOW』from ASHES AND SNOW
『TAKK』SIGUR ROS
『9』DAMIEN RICE
『ELEMENTS』FINALDROP
『CENDRE』FENNESZ + SAKAMOTO

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# by imai-eiichi | 2007-02-04 23:43

043【桜、地球温暖化、多様性】

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 パリとニューヨークで、桜が開花したという。
 ニューヨークにはたくさんの桜の樹があるし、パリにもけっこうある。もちろん、それらすべての桜の樹の花が開いたわけではないと思うけれど、話題になるくらいだから目立ってはいるのだろう。
 先週、ニューヨークに住む知人がメールしてくれた写真には、浜辺で水着になって日光浴している人々が写っていた。1月初旬のコニーアイランドの風景。
「昨日は25度まで気温が上がったよ。街中、Tシャツと短パンだらけ。春なんかひとっ飛びで、もう夏だね」
 と彼はそのメールに書いていた。
 数日前はロンドンに暮らす親友の女性から久々にメールが届いて、「ロンドンも温かいよ」との連絡。ちなみに、彼女(日本人)、旦那の名前がニール・ヤングで、その旦那の弟の名がポール・ヤング。冗談みたいだけれど、ほんとう。
 ところがそのロンドン、この週末にかけては「冬の台風」がやって来たそうで、死者も出たとか。ロンドンで台風というのは聞いたことがないし、死者が出るなんて・・・。
 ロンドンは北緯51度30分に位置している「北の都市」だけれど、たとえばニューヨークのように冷えこむことはない。雪はほとんど降らないし、零度以下に冷えこむことは多くない。東京の冬と同じか、むしろ東京よりも温かいというのが僕の印象だ。大西洋からのガルフ・ストリームの影響もあって、この辺りは温暖多湿なのだ。
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 各地で早々と桜が開花し始めている。さすがに東京ではそんなことはないようで、近所の桜の木々を見ても、芽はまだまだ縮んだままだ。でも、沈丁花や梅は蕾が膨らみ始めているから、確かに「春遠からじ」だ。
 各地の冬が温かい、というニュース。地球温暖化なのか異常気象なのか、それは僕にはわからないけれど、とりあえず車をパークしたらすぐエンジンを切るとか、ペットボトルなどのリサイクル品は(もちろんキャップやファイルは剥がして)分別するとか、最低限の常識は守っている。
 科学者の中には、「今は長い氷河期の終わりであって、だから気温が上昇しているのだ」と語る人たちもいる。
 どうなんだろう?
 確かに、気の遠くなるような地球の時間からすれば、今は「長い氷河期の終わりで気温が少しずつ上昇している」頃なのかもしれない。ただ、その上昇に人間の活動の影響がどれほど関わっているのか、ということが問題なのだろう。
 もちろん、あらゆる生物が相互に影響し合っているわけで、人類が与えない影響などないはずだ。
 でも一方で、「地球の歴史のほんの最近しか生きていない人間なんかに壊されるほど、地球はヤワじゃないよ」と考えたい自分も確かにいる。人類なんかに影響されるほど地球はきっと弱くない、というか、そう信じたいというか。この惑星は繊細でデリケートには違いないのだけれど、人間なんて「地球全体から見ればちっぽけな存在だ」という思い(そんなちっぽけなヤツらが最近はのさばって好き勝手やっているわけだ)。
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 この「人間活動」というものは、草や樹や魚たちの側からすれば、「まったくお前ら人間、いい加減にしろな!」と言いたいところだろう。実際、彼らが僕らと同じ言語を話せたら、集団で大ブーイングしているはずだ。魚も樹も草も花も象も鯨も熊も、彼らはみんな「考えて」生きているのに、地球上で唯一人間だけが「何も考えず=つまり自分たちの都合だけを考えて」生きていることは明白なのだから。
 様々な環境運動やエコ活動に「地球のために」「地球の未来のために」というキャッチコピーが使われるけれど、それは結局のところ都合のいいコピーであって、本来ならこう言うべきなのだろう。
 「人間のために」「人間の未来のために」。
 地球からすれば、「あんたら人間が全員いなくなったら、一番幸福なんですけれど」という意見だろうから、結局こういうのは僕ら人間のためでしかない。僕ら人間が絶滅したくないから一生懸命にエコ活動をしたりしている、と言うべきだろう。そういう意味では「エコ運動」とか「環境活動」というものは存在せず、本来なら「人間運動」とか「人間活動」とだけ呼べばいいのだろうと思う。
 こういう「人間がやっている、当の地球を参加させない議論」にこの地球がなんと答えるか是非とも聞いてみたい。もし、この惑星が僕ら人間に向かって言葉を使って主張できるなら、彼(ら)は何と言うだろう?
 そう、エコとか環境についての「議論」や「研究」や「決定」というのは、常に、米国主導で決まっていくイラクの内政ルールのようなものに見えてしまう。主体はイラクでありイラク人なのに、すべて米国の都合の良いように(当の本人たちが不在のまま)何事も決まっていく。アフリカの無関係な国へ勝手に爆撃するのも同じ。つまり、人間が、人間以外のあらゆる生き物を無視して人間主導で決めていく「エコのルール」や「ロハスの活動」というのがあるわけで、そう思うと、なんだかやりきれない。だからといって、何か代替案があるのか? と問われれば、じゃあ、人間が絶滅すれば地球のためにはいい、というのでは、辛いし、やりきれない。
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 初めてアリゾナのナヴァホ・インディアン居留地へ行ったとき、知り合ったナヴァホの男が僕ら4人に向かってこう訊いた。4人とは、僕、旅を共にした写真家、編集者、そしてユタ州からやって来たコーディネイターの米国人、という4人。
 ナヴァホの男がこう言った。
 「自然、と言われて思い浮かぶものを言ってごらん」
 「自然」。自然とは何だろう?
 たとえば、そこに転がっている石。足の下にある土。たとえば遠くに連なる山脈。たとえば、森の木々。森に流れる川。地の果てにある海。海の中の生き物たち・・・。
 4人はそれぞれ、そのようにパッと思いつく自然、つまり一般的に答えるような対象を、それぞれ言ったのだと思う。僕は「樹」と言ったかもしれない。覚えていない。
 ナヴァホの男はにっこり笑ってこう言った。
 「何か、大切なものを忘れているね」
 そして彼は、僕ら4人を指さして、こう言った。
 「君自身のこと。君も大切な自然の一部。人間も、自然なんだよ」

 とても西洋的、あるいはクリスチャン的と言うか、資本主義的と言うべきか、わからないけれど、僕らは確かに「自然、人間」と別々に考える。ある意味、河岸・彼岸のように、対比して考えたり、別々の場所に存在しているかのように語るのだ。
 だから、標語にはこう書いてある、「自然を大切に」。あるいは、こんなふうにも言う、「私たちの大切な自然」。
 自然は僕たちの「もの」なんかじゃないし、僕らもその一部に過ぎないのに。
 僕ら人間もまた自然なのだ。石や樹や草と同じように。
 だから、そう考えれば、家族を大切に、というのはつまり、「自然を大切に」と同義語なのだ。本来的には。木々を大切にすることはつまり、家族や友人を大切にすることと同じ。
 僕ら「人間がいて」、その向こうに「自然がある」、というような考え方を、僕らは子供の頃から教わってくる。なぜだろう? 僕ら人間(西洋社会の人間だ)の生きる世界では自然と人間との間に境界線があるのだ。いつ、その境界線が生まれたのだろう?

 旅の最初にナヴァホの男は、僕らが当然として抱えていた西洋クリスチャン的な考えとは異なる、オルタナティブなアイディアを示したわけだ。
 石と人間の間に差はない。熊と人間は同じである。「人間の傲慢さが生んだ境界線をとりなさい」と彼は言いたかったのかもしれない。
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 「自然って、いいよね」と僕らは言う。森や海辺へ行ったときなどにふと口にする。でも、僕ら自身も自然であり、そして僕ら自身の内部に無数の自然がある。僕らの中に森や海があり、僕らは彼らの一部として、時には全体として、共存しているのだから。
 ナヴァホ居留地を旅しながら、特に議論することもなく、特に強いメッセージを発することもなく、ナヴァホの男は僕に、彼が持つそういった自然観をいろいろ話して聞かせてくれた。僕らは友人になり、今では僕は彼のことをガイドとして尊敬している。
 異国へ旅をすると、様々なオルタナティブな考え方、見識、常識に出会う。まさに千差万別というか、人それぞれ違う青の色を持っているように、考え方が異なる。
 米国の大統領はアフガニスタンやイラクを攻撃する際、「我々につくか、さもなくば敵だ」と言った。映画『スターウォーズ・エピソード3』の最後、ダークサイドに落ちてダースヴェイダーになってしまったアナキンはその米国大統領とまったく同じセリフを吐いて話題になった。もちろん、米国大統領がダークサイドにいることを示すブラックジョークでもあるのだけれど、とにかくこの似たもの同士の2人が(そして彼の部下たちが)「こっちか、向こうか」という二元的な物差ししか持っていないことに「やれやれ」と思わざるを得ない。人が3人いれば、3つの考え方があり、3つの宗教があり、3つの常識がある。「こっちか、あっちか」なんて、子供のドッジボール・ゲームじゃないのだから、そんなふうに決められるわけがない。あらゆる米国のスポーツは引き分けを認めない。たとえばメジャーリーグ・ベースボールは深夜1時を過ぎても決着が着くまでやるし、再試合も辞さない。ヨーロッパや南米の主流スポーツであるフットボールには引き分けという決着がある。勝負は勝ち負けだけではない、そんなに単純なものではないのだ。米国一般の二元的な発想は、そんな身近なスポーツの世界にもよく現れている。

 そう考えていくと、「人間、自然」というのも、ある意味で単純な二元論の物差しだ。僕らはもっと多元的な、というか、多種多様な(diversity)眼を持っているはずだ。熊や鯨や、樹や草たちのように。そしてそのダイヴァーシティは、さらなる深淵へと至るはずだ。魂とか、心とか、そういう決して目に見えないものに宿る「何かの答」とでも言うのだろうか・・・。
 ナヴァホの友人は僕にこう言った。
 「Remenber that the air shares its spirits with all the life it supports. 忘れてはいけないよ。我々が吸いこむ空気(大気)には、それが育むあらゆる生命と魂があることを。あらゆる生命が分かち合って生きているんだ」
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<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『PEACETIME』EDDI READER
『SAG VOYAGE 2006』VARIOUS ARTISTS
『AFTER THE GOLDRUSH』NEIL YOUNG
『THE END OF VIOLENCE Original Score』RY COODER
『ASHES AND SNOW』from ASHES AND SNOW

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# by imai-eiichi | 2007-01-22 13:32




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