ビーチサンダル・クロニクルズ TEXT+PHOTO by 今井栄一

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049【ヴォネガットの死、『バベル』、誰かを好きになること】

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 カート・ヴォネガットが死んだ。
 ヴォネガットのホームページ を開くと、トップページにドアが開かれたままの鳥かごが大きく描かれている。中には1羽の鳥もいない。ヴォネガットは飛んでいったのだ。
 彼の魂は今、何処に在るのだろう?

 10代の終わり頃、ジョン・アーヴィングを通じて僕はカート・ヴォネガットの存在を知った。
 18か19のときジョン・アーヴィングの『ガープの世界』を読み、すっかりアーヴィングの小説世界のとりこになった僕は、『ウォーターメソッド・マン』、『サイダーハウス・ルール』、『熊を放つ』など、当時日本語訳が出ていたアーヴィング作品を次々と読んでいった。
 アーヴィングの物語はいつもとても長く(日本語訳のハードカバーはどれも必ず上下巻あった)、だからたっぷり時間をかけて読むことができた。大人は「時間を過ごす」ためにバーで酒を呑んだりするけれど、少年少女は本を読んだり、新宿の映画館で3本立ての映画を観たり、ただ歩き回ったり、そういったことで時間を過ごすのだ(と、思う。少なくとも僕はそうだった)。

 その頃僕はドロップアウトしたフリーターだったから、とにかく「過ごす時間(無為なる時間)」がたっぷりあって、分厚い小説ばかり買って読んでいた。すぐに読み終わる短編小説には興味が向かなかったのだ。いつまでも終わらないような長編小説が当時の好みだった。アーヴィングの長編は自分だけの時間に埋もれるにはうってつけだった。僕はまるで毛布にくるまるようにしてアーヴィングの本を抱えて1日を過ごしていた。
 そんなジョン・アーヴィングが「影響を受けた」と語っていた作家が、カート・ヴォネガットだったのだ。アーヴィングを一通り読み終わると僕は、次に、ヴォネガットの本を読み始めた。
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 作家に限らず、スポーツ選手でも音楽家でも映画監督でも、何でもそうだと思うのだけれど、「誰かを好きになる」と、今度はその好きになった誰かと繋がっている人たちや、その人が関係している世界のことを知りたくなるものだ。
 たとえば『スターウォーズ』を好きな人が、ジョージ・ルーカスが「私は黒澤明を尊敬していて、黒澤のいくつかの映画からスターウォーズのキャラクターを練っていった」と言っている記事を目にしたら、きっとその人は「黒澤の映画を俺も観てみようかな」と思うに違いない(何人かはそう考えるはずだ)。そして黒澤明の『七人の侍』を観ると、その次には『荒野の7人』のDVDを借りるだろう。やがてサム・ペキンパーを知り、ウォルター・ヒルやコッポラの作品に手を伸ばすことになるかもしれない。
 たったひとりを好きになるだけで、その後ろに居る、その周縁に存在する、様々な人たちや物事、出来事、場所や物語を知ることになる。その広がりのすごさ! 最初はたったひとり、たったひとつの出来事なのに、どんどんつながっていく。だから世界は面白く、驚きに満ちているのだ。
 それは別に作家や映画監督に限ったことではない。日常生活においても同じことが言えそうだ。たとえば仕事場で誰かを好きになれば、その「誰か」が好きな「別の誰か」とも知り合いになるだろうし、そうやっていくうちに好きな人がどんどん増える可能性はある。

 「好きになる」という気持ちはとても大切なことなのだろう。少なくとも、嫌いになるよりはずっと気持ちがいい。最悪なのは「無関心」だ。無関心でいると、まったく広がりがないし、無関心さは新たな無関心さを誘発していく。無関心さというウイルスは恐ろしい。それはときに「嫌いになる」というウイルスよりも強力で、ネガティヴである。
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 平和、というのは結局「好きになる」ことから始まるのだなぁと思ったりもする。
 「All We Need Is Love=愛こそすべて」とビートルズは唄ったけれども、なるほどその通りだ。もし米国のブッシュ大統領にイラク人の大切な親友がいたら、彼はイラクを攻撃できなかったかもしれない。好きな人の暮らす国を攻撃できるわけがない(ヤツならできるかもしれないが)。ブッシュという人物はきっと、好きな人がほとんどいない人なのだろうなぁと思う。だから彼はみんなに嫌われているのだ。誰かを好きになれない人は、誰からも好かれない。彼は悲しい人間なのだろう。

 カート・ヴォネガットは、そんなブッシュ大統領とブッシュ政権に対して、断固とした態度をとり続けた勇気ある作家でもあった。講演会に招かれれば痛烈でウィットのきいたブッシュ批判を繰り広げたし、良心がまだ残っているいくつかの新聞などに政府批判のコラムを書き続けた人だ。
 たとえば、ヴォネガットのこんなセリフが僕は大好きだ。

 「ブッシュ大統領とヒトラーは、基本的にほとんど変わりません。ほとんど同じと言ってもいい。ただひとつだけ違うのは、ヒトラーは正しく選挙で選ばれた大統領だったということです」カート・ヴォネガット

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 今年のアカデミー賞で最多ノミネート作品となった映画『バベル』が、やっと日本でも公開になる。
 ハリウッドやヨーロッパと日本との映画公開の「時差」には、時々うんざりさせられる。『バベル』がハリウッドで公開されたのは去年の秋のことだ。半年以上遅れての公開にいったい何の意味があるというのか。ときには数年前の映画が突然公開されることもある。『LOVE SONG FOR BOBBY LONG(ママの遺したラブソング)』は、米国ではもう2〜3年前に公開された古い作品なのに、今月日本では新作として公開される。おかしな話だ。

 僕は、昨年の12月、仕事で訪れていたホノルルで『バベル』を観た。ハワイ大学のそばにある「Vertical」というシアターで。大好きな映画館だ。
 北米ではその頃すでに『バベル』公開から数ヶ月経っていたから、大きな映画館での上映はすでに終わっていた。ホノルルでは唯一その映画館が上映していた。
 Verticalは古いミニシアターだ。オンボロの椅子がリノリウムの床に並び、あまり段差がないからもし目の前に背の高い人が座ったらスクリーンを遮られてしまうというタイプ。小さな映画館なのに一応スクリーンは2つあり、同時に2つの映画を上映している。問題は2つの部屋の間にある壁が薄いこと。隣の部屋でドンパチ音がうるさい映画をやっていたら、こちらの部屋まで響いてくるのだ。

 その夜、9時からスタートの『バベル』を観に来ていたのは、僕を含めて10人ほどの観客だった。ガラガラ。結果的にこのタイミングでこの映画館でこの映画を観てよかったと思う。
 ひとり客は僕と、少し前の方に座った中年の女性。あとは、ニューエイジ風の若いカップル、中年のゲイ・カップル、不思議な男4人組(20代から50代までバラバラの4人。家族には見えない)、初老の夫婦(だろう)。・・・そんな感じの人たちが、細長い室内の真ん中辺りの座席に、少しずつ離れて座っていた。
 時々、「実にしっくりくるモーメント」に出逢うことがある。この映画館で観た『バベル』が、まさにそれだった。
 12月の初め頃のホノルル。風が涼しい金曜日の夜のミニシアター「Vertical」。10人ほどの観客で観る『バベル』。
 結果的にぴったりのシチュエーション、ぴったりのモーメントだった。その場に居合わせた観客=僕らは、映画『バベル』の物語を共有し合った。
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 「バベル」とは、旧約聖書に出てくるあの「バベルの塔」のことだ。ブリューゲルの有名な絵で知っている人も多いはず。

 昔々・・・、世界はひとつだった。人間はみんな仲良く暮らし、平和だった。
 だが、人間は自分の力を過信する。人間はいくらでも傲慢になれる。
 人間は、高い高い塔を建てようと計画する。天にも届くほど高い塔だ。人間は神の領域に入ろうとした。
 塔の建造が始まる。
 天からその様子を見ていた神は怒る。人間の分際で神の領域を侵そうとは・・・、人間のくせに神になろうとは・・・!
 怒った神はその塔を破壊して粉々にする。
 粉々になりながら人間は、バラバラになる。
 バラバラの世界、つまり、神は人間に無数の言語や無数の人種、無数の宗教、数多の民族を作ったのだ。
 神は人間を隔てたのである。
 以来、人間は、無数の異なる言語を持ち、異なる民族や人種のボーダーの中で、コミュニケーション・ギャップを感じながら生きていかなくてはならなくなった。
 塔の名前は、「バベル」。

 バベルとはつまり、言語によって世界を隔てられた人間の物語である。そこには、神に近づこうとした人間の傲慢さと、その結果として人間が得たコミュニケーションの難しさがある。
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 映画『バベル』は、「言語とコミュニケーション」を描いた映画だ。
 監督のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは、デビュー作『アモーレス・ペロス』、前作『21グラム』らと同じように、3つの物語を同時進行させていくという構成で映画を描く。
 『バベル』の舞台は、北アフリカ・モロッコ、メキシコとカリフォルニアの国境地帯、そして、東京。3つの場所と3つの時間。
 モロッコを旅行中、とあるトラブルに巻き込まれる米国人夫婦を演じるのは、ブラッド・ピットとケイト・ブランシェット。彼らの言語=英語は、モロッコの小さな村ではまったく役に立たない。初め小さな傷口だったが、その傷口はコミュニケーション・ギャップによってどんどん広がっていく。けれど実は、同じ言語を喋るはずの夫婦が、もともと心のコミュニケーションをとれていなかったのがすべての原因なのだ。
 メキシコとアメリカの国境地帯。メキシコ人と米国人のコミュニケーション・ギャップがそこにある。ここでも、事件の発端は言語の違いである。言葉によって自分の思いを正しく相手に伝えることができない。傷口はどんどん広がっていく。けれど実は、言葉以前にそこには根強い人種差別があり、その差別意識こそが、ギャップを創造する源なのだ。
 そして東京。役所広司演じる父親と、その娘に菊池凛子。イニャリトゥは、「言語とコミュニケーション」を描く映画の最後のエピソードから意識的に「言語」を放つ。菊池凛子演じる女子高生は「聾唖の少女」である。彼女は耳が聞こえない、言葉を失った人間なのだ。彼女こそは、人間の傲慢さが生んだバベルの塔の最大の犠牲者である。言葉を持たない親と子供。彼らのコミュニケーションが最悪なのはすぐにわかる。言葉があってもどうにもならない我々人間だが、言葉なくしてはもう何処へも行けない、何もできない。無力。
 自分以外の人間を知ることとは何か? 我々は真にお互いを知り合うことができるのか? この映画は、そんな問いかけを繰り返す。

 終わらないどころかひどくなる一方のイラク戦争。まったく報道さえされなくなったアフガニスタンの現状。アフリカの飢餓、パキスタンとイスラエル、様々な内戦。欧米や日本で広がる格差社会、ワーキング・プアの世界。人種差別、宗教問題、民族紛争・・・。
 浮かれるばかりで真実をまったく伝えようとしない、努力をしないジャーナリズム、一部の人間のためのプロパガンダとして使われるマスメディア・・・。
 今、僕ら人間の世界はどん底の極みに向かっている。
 イニャリトゥ監督はこの映画でこうメッセージしているのだろう。
 「真実はとてもシンプルだ。隣人を好きになること、好きになる努力をすること。そのためには隣人を理解する努力をすること、隣人を知ろうとすること。好きになれば、悪くは決してならない。好きになることから、理解は始まり、その先に希望がある」
 米国の大統領はアフガニスタンへ旅をしてその土地の魅力を知ろうとはしなかった。彼はイラク人のことを学び、自分の隣人を好きになろうとはしなかった。もし、していれば、と思う。こんなひどい世界にはならなかっただろう。それを政治用語では「外交努力」と言うのだ。

 好きになること。隣人を知り、理解しようとすること。人を、誰かを好きになること。まずは日常から始めよう。すぐそばの誰か、毎日顔を合わせる誰かでいい、その人を知り、理解し、好きになりたい。
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<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『BABEL』ORIGINAL SOUNDTRACK
『神童』オリジナル・サウンドトラック
『ONE QUIET NIGHT』PAT METHENY
『LE PAS DU CHAT NOIR』ANOUAR BRAHE
『SAG VOYAGE 2006』VARIOUS ARITSTS

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by imai-eiichi | 2007-04-16 16:34




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