ビーチサンダル・クロニクルズ TEXT+PHOTO by 今井栄一

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022【奄美大島、2つの島唄 その2】

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 奄美へやって来た理由は、あるライブ・イベントを見るためだった。奄美大島の笠利町にあるカフェ&バー「夢紅」、その店の海に面した庭で開かれる、ハワイアンとアマミアンの島唄ライブだ。
 奄美島唄を唄うのは、地元の若い唄者、牧丘奈美さん。ハワイから来日したシンガーの名は、アンティー・ナラニ・カナカオレ。このナラニさん、知る人ぞ知る・・・という女性。

 毎年春のイースター・シーズンに、ハワイ島ヒロでは大きなフラの祭典が開催される。「メリーモナーク・フラ・フェスティバル」と呼ばれるそれは、ハワイ諸島最大のフラのコンペティションであり、ハワイ先住民の神話や伝統芸能にとって、とても重要なイベントだ。フラの世界では最も重要なイベントと言っていいと思う。数年前まで僕は、毎年のようにこのイベントを見に行っていたのだけれど、ここ数年はすっかり行っていない。どんな感じのイベントなのかということを書き出すと長くなるし、そのためには「フラとは?」ということにも繋がっていくので、今回それは省略。
 とにかく、そのメリーモナーク・フラ・フェスティバルが開催される場所、その会場は、「エディス・カナカオレ・スタジアム」という公共の大ホール。エディス・カナカオレとは人の名前で、この人は伝説的なフラのマスター、偉大なるクム・フラだった人物だという。偉大なるザ・レジェンドの名前を冠した場所、まさにフラ最大のイベントが行われるにこれほど相応しい場所はない、というわけだ。

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 「クム・フラ」とは、「フラの師」というような意味(簡単に言うと「先生」なのだが、学校の教師とはやっぱり違うので、ここでは師と呼ぼう)。
 フラとは、ジェダイのように師から弟子へと受け継がれていく家系制度による伝統芸能だ。詳しい説明は省くけれど、ここで言う「フラ」とは、たとえば花柄のムームーを着てゆるやかに踊るいわゆるハワイアン・ダンスではない。もちろんそれもフラなのだけれど、それは「フラの一部」にしか過ぎないのだ。フラには古典的なフラと現代的なフラとがあり、ムームーを着てハワイアン・ソングを背景にゆるやかに踊るそれは、現代的なフラの一部でしかない。古典的なフラとは、神々への祈りや自然への感謝の気持ちを肉体と言葉で表現する行為である。それはものすごく神聖であり、荘厳。実はフラとは、元来そういったもの、つまり「祈り」だった。古代には女人禁制で、聖なる舞台の上で男性だけで踊られていたと伝えられる。そして、ステップひとつ間違っただけでも「処刑されていた」時代もあったという。今、ワイキキのホテルのディナー・ショーで僕らが見るフラ・ダンスとは、なるほど、何もかもずいぶん違うということがわかる。
 とにかく、「クム・フラ」とは、そういった「フラ本来の高い精神性と技術力」を今に伝え、伝授していく「使い」というわけだ。

 ハワイ諸島には、偉大なるクム・フラ、伝説のクム・フラという人たちが何人もいる(伝説のジェダイみたいだ)。このナラニ・カナカオレは、そんな「伝説のひとり」のスタジアムの名前にもなっているほど偉大なクム・フラ「エディス・カナカオレ」その人の後継者。彼女は、自身の姉プアラニと共に、ハワイの伝統的なフラや神話を現代の世に伝える、ハワイ文化の担い手というわけだ。
 その彼女が来日して、奄美の小さなイベントで唄うというので、僕はなんとか仕事の都合をやり繰りして奄美へ行ったというわけ。このイベントを企画したのが知人であったこと、そのナラニさんの旦那さんが僕のハワイの友人であること、そういうことにも後押しされて、奄美へ飛んだのだった。

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 結果的に、ずいぶん久しぶりに奄美大島へやって来ることができて良かったと思う。人間、何かしら理由をつけないと、なかなか「何処か」へ行かないものだ。元来の放浪者なら、そういう理由もなしに、あらゆる場所へ次々と旅していくのだろうけれど。名前が今すぐに出てこないのだけれど、最近読んだ本に、こんな言葉が書いてあった。
 「街を歩くとき、目的や計画を持って歩いてはいけない。ただ歩くのだ。それが、正しい街の歩き方である」
 なるほど、かっこいい。旅もまた、こうであるといいなぁと思う。「僕はただ旅をする」というように。
 沖縄の島々も大好きだけれど、奄美の島々もいい。すぐそばにあり、「同じ琉球弧だ」と書く文献は多い。実際、なんとなくだけれど、似たような文化もある。一方で、いろんなことが違う。考えてみれば、同じ沖縄でも、宮古島と石垣島では言葉も唄もかなり違うわけで、ならば、もっと離れている奄美が沖縄と同じであるわけがないのだ。
 言葉が違う、島唄が違う、などなど、文化人類学的なことを言い出すときりがないし、僕は専門家じゃないからできない。ただ、僕が「印象」として感じる奄美大島の特徴は、その緑の濃さ、山の高さだろうか。沖縄の島々では、西表島をのぞいて、「山」というものをあまり感じない。奄美では「山」を感じる。緑濃い山並みが連なっている。サマセット・モームはかつて「タヒチは、緑したたる高い山だった」と書いたけれど、それをもじって奄美大島について僕はこう言おうと思う。「奄美は、緑したたる山の島だ」と。素朴で、ふっくらとしていて、大らかで、濃い。沖縄がハワイなら、奄美はタヒチだ、そんな乱暴な比喩をここに書いてしまおう。でもほんとうに、それくらい奄美は緑が濃く、山が高く、深いのだ。

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 水曜日。夕方5時頃に、ホテルから車で会場となるカフェ&バー「夢紅」へ行くと、もう大勢の人々が集まりだしていた。日本各地から、インターネットや人づてでこのイベントを知った人たちがやって来ていたし、もちろん奄美ローカルの人々もたくさん来ていた。
 このお店、「夢紅」は、もう10年以上前にオープンした奄美では老舗のオシャレ系カフェ&バーのようだ。一見して僕は「お、ここは奄美のブルームーン」と勝手に思ったり。オーナーは横須賀の方。店のいきさつを勝手に想像するとこんな感じだ・・・葉山か逗子あたりで店をきっとやっていて(まさにブルームーン的な)、それで「もっと南へ行きたい」と思って奄美まで来てしまって、それで店を始めて・・・という感じ(これは僕の勝手な想像で、聞いたわけではありません。ただ横須賀の方というのはほんとう)。
 事実、この店のオーナーを慕ってやって来ているらしいニューエイジ風の若者が大勢いて、そういう雰囲気も葉山一色ブルームーンにちょっと似ている。
 道路沿いに店の建物があって、その裏が広い裏庭になっている。この裏庭の居心地が抜群。目の前は海で、庭の片隅に大きなガジュマルが立っている。そのガジュマルの樹のそばにすでにマイクやアンプがセッティングされている。大きく広がったその枝の下に、木のテーブルとベンチがたくさん置かれている。僕はその木のベンチのひとつに落ち着いた。もちろん地面の上、草の上なんかに座ってもいい。
 とにかく、とても良い雰囲気だ。
 太陽はまだ水平線よりだいぶ上で、日没まではあと2時間ほどだろうか。最初に奄美島唄で、その後でハワイアンが始まる。ショーのスタートまで小一時間ほどあるということなので、とりあえず腹ごしらえを・・・。
 この日に用意されていたのは、「ハワイアン・ランチ・プレート」。夕方だからランチではないけれど。プレートにのっているのは、アヒ・ポキ、フリフリ・チキン、ロミ・サーモン、そして白いご飯。本場とは微妙に違う味付けもまた一興だ。飲み物は、まずはオリオン・ビールのドラフトで始め、やがて奄美のフルーツと焼酎をベースにしたマイタイ。ライブがスタートする頃には、ほろ酔い気分。

 やがて奄美の島唄が始まり、その最中に日没。島の夜の中、ナラニさんによるハワイアンの唄がそのあとにスタートした。
 そうして、たっぷり2時間、2つの島をつなぐ唄を楽しんだ。
 ライブが終わって海辺を見ると、ぷっくり太った黄色い月が水平線から上がったところだった。ムーンライズ。前日が満月だったということだけれど、この日もフルムーンのようなまんまるイエロームーン。
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<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『GABBY』GABBY PAHINUI
『STRAW HAT, 30 SEEDS』GABBY & LOPEZ
『SLOW DOWN SUMMER』DATRI BEAN
『NAMAHANA』HAPA
『ALL I WANT』ROBI KAHAKALAU

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by imai-eiichi | 2006-07-22 17:36

021【7月、奄美大島、2つの島唄。その1】

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 夜明け前、東京の海辺では雨が降っていた。
 自宅を出たのが午前6時半過ぎ。雨は上がっていたけれど、地面は濡れていた。南への飛行機に乗って空へ飛びたったとき、東の方にはまだ雨雲が残っていた。明け方の驟雨なんて、まるでハワイやタヒチ、そう、熱帯の島みたいだ。
 東京はほんとうに熱帯化しているのだろうか。でも、東京にはしっかり「寒い冬」があり、雪だって降るのだから、やはり熱帯化はありえない。ただ、あまりにも夏と冬との寒暖の差が激しすぎるような気がするわけで、それは「四季がはっきりしているのはいいね」とか何とか、そういう風情を通り越して、不快な感じ(あくまで個人的に)。

 羽田空港から2時間ほどのフライトで着いた先は、青空の下にあった。台風3号、4号の影響が心配されたのだが、台風はずっと西南のほうに過ぎ去ったらしく、空は青かった。
 小さな地方空港だけれど、世界最悪の成田空港や、世界最悪ナンバーツーの羽田空港に比べたら、ずっと心地いいし、きれいだし、使いやすい。奄美空港。鹿児島県の奄美大島だ。空港の小さな建物から外へ出ると、途端に熱風に包まれた。

 今週、奄美大島へ行ってきたので、そのことをちょっと書こうと思う。ほんとうは前回に続いて「7月のポルトガル」について書くつもりだったのだけれど。

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 奄美大島へ行くのはこれが3度目。最後に訪れたのは、たぶん、7年か8年くらい前。もうずいぶん昔のような気がする。
 空港には、宿泊するホテルのスタッフがワゴン車で迎えに来てくれていた。西村クンという、たぶん、20代の男性。僕は彼の隣、助手席に座った。
 クーラーはついているけれど、そんなに効き目はよくないみたいだ。西村クンは窓を全開にしている。だから僕も取っ手を回して窓を降ろし、風を浴びた。湿った、温かい風。「台風は、大丈夫でしたね」と僕は西村クンに言った。
 「そうですね。今はもう台湾のほうに向かっています。結局こっちには来ませんでした。ただ、風が強いですけど。たぶん今日が、一番風が強いんじゃないですかね」
 風は強く、湿って、熱い。手や首筋や、身体の表面の毛穴がどんどん開いていく感覚。何もしていなくても、全身がいつも湿っている感じ。
 蝉が激しく鳴いている。
 「あ、今年初めて蝉の鳴き声を聞いた」と僕が言うと、西村クンは、「ここでは年中鳴いてます。特にこの辺りでは1年中鳴いてますね」。
 車はちょうど、濃い熱帯の森の横を走っていて、そこから大音量の蝉の鳴き声だ。
 「えっ? 冬でも蝉はいるんですか?」
 「いますよ〜。そうだな、2月の初め頃だけ、1週間くらい静かになるかな。あとはずっと鳴きっぱなしですねー」
 以前に訪れたのは、春と初夏だった。きっとそのときも蝉は元気に鳴いていたのだろうけれど、記憶にない。とにかく、これが、僕が今年最初に聞く蝉の声となった。
 小さな集落を過ぎて走る。平屋のトタン屋根の家が並び、その隙間にバナナの木が林になっている。ここでは芭蕉と呼ぶべきか。風に揺れる芭蕉の葉。確か、実がなるのがバナナで、実がならないものを芭蕉と呼ぶのだったか。ずっと昔に竹富島のオジイからそんな話を聞いた気がするのだけれど、忘れてしまった。
 ソテツの大群もすごい。奄美大島は、米の二毛作、サトウキビ、ソテツ、グアヴァ、ビンロウ椰子が有名。もちろん海の幸も。大好きなもずくはとても安いし、アーサー(あおさ)もたっぷり漁れる。

 左手には海があり、強い風が吹いているのがわかる。大きなうねりが次々と入ってきているけれど、波はもうぐしゃぐしゃだ。誰も波乗りなんかしていない。でも、奄美大島はいい波が立つことで有名。1年中島のどこかでいい波に乗れる。
 「波乗り、しますか?」と西村クンに訊いてみた。
 「自分はしませんね。ダイビングはしますけど」
 「ダイビングって、スキューバ?」
 「いいや〜、ま、ときどきスキューバもしますけど、素潜りですね。タコとか漁ってます」
 「タコ?」
 「ええ、あの辺り」と言って西村クンが顎をしゃくる。車はちょうど海岸線の道路を走っていて、助手席に座った僕の左手に波が打ち寄せている。
 「いつもここに潜ってますね。今日は潜れないな、でも。残念ですねー、潜りたいなぁ」
 西村クンの言い方からは、「潜ることができない」のを残念がっているのか、それとも「タコをとることができない」のが残念なのか、今イチわからない。きっとその両方なのだろう。
 「岩場とかにいるんですか?」と僕は訊く。
 「ええ、そうですね、岩場とか。あと砂浜にもいますよ。どこにでもいるんですよ。とにかくいっぱいいますから」

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 高速道路なんかない。ローカルロードをただ走っていく。片道一車線で信号はほとんどない。ガラガラの道だけれど、西村クンはあまり飛ばさない。とても安全運転。その後、何かの話の流れで、彼はこんなことを教えてくれた。
 「島で一番怖いのは、お巡りさんです。とにかくお巡りさんが一番怖い。スピード違反はめっぽう厳しいですから」
 周りを見渡してもお巡りさんの姿もパトカーも見あたらない。ソテツの陰に隠れているのかもしれない。
 「道はいつも空いてるから、つい飛ばしたくなるんですよ。途端にお巡りさんが現れますから」
 それとも、あのビンロウ椰子の陰にいるのかも。隠れているのは熱くて大変だろうなぁと思う。でも、それが彼らの仕事なのだろう。わざわざ車を飛ばさせて、つかまえるのだ。警察官というのはそもそも、「守る」ためにいる人たちではないのか。つまり「警備」「防護」「防犯」といったこと。「犯罪を犯させないこと」が大切なのであって、「犯罪者を捕まえること」ではないはずだ。まずは予防が一番。風邪と同じだ。物陰に隠れてスピード違反を取り締まるなんて、それこそが犯罪行為みたいなものだと僕は考える。彼らにそんなせこいことをする権利を与えた覚えは僕にはない(彼らは公務員で基本的に僕らの小間使いなのだから)。警察官というのはだから、どんなに暑くても寒くても、雨が降っていても、堂々と道端に立ち、あるいはしょっちゅうサイレンを光らせたパトカーで道を走っているべきなのだ。そうすれば、みんな気にしてスピードを出さないし、駐車違反もしなくなるだろう。それを「犯罪の予防」と呼ぶ。それが「警察官のほんとうの仕事」ではないか。日本の警察官がやっている仕事とは、わざと相手にミサイルを撃たせて、倍にして迎撃する、ということだ。そう、ブッシュのように。

 そんな僕のイライラを西村クンは無視して走っていく。
 車はいつしか海から離れて、くねくねと細くなる。と思ったら今度は右手に海が現れた。西村クンが教えてくれる。
 「さっきまでの海が太平洋で、こっちは東シナ海です。こっちの海の方が静かで、穏やかなんですね」
 なるほど、確かにこの海は大きく波うっていない。穏やかな遠浅の海。エメラルドグリーンの、すごく温かそうな海だ。
 「この辺りが、ホテルからすぐの海辺です。水着のまま歩いて来られますから」
 と西村クンが言ったと思ったら、車はひとつカーブを曲がって、ホテルに着いていた。
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<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『THE ERASER』THOM YORKE
『LE VOYAGE DE SAHAR』ANOUAR BRAHEM
『DIFFERENT GAME』MAKANA
『COMPOSER』ANTONIO CARLOS JOBIM
『KUPU KUPU』ASANA

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by imai-eiichi | 2006-07-15 17:29

020【Lisbon in July. 7月のポルトガル その1】

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 リスボンは今、鰯(イワシ)が美味しい季節だ。6月、7月、リスボンの旧市街地を歩けば、あちこちの路上からもくもくと煙が上がっている。レストランの店主は店の前、路上に炭火焼きコンロを置き、そこで鰯を焼く。そういった店がいくつもある。
 「なんだか日本みたいだな」と思うのは正しい。実際、日本の七輪とそっくりな道具で地べたに座り込んでしみじみと焼いているオヤジもいて、もしそのオヤジが手にうちわでも持っていたら、そこがリスボンとは思えないだろう。煙と匂いの裏通りに、まるで「昭和○○年代の日本」といった雰囲気。
 秋でも春でも、時には冬でも、その風景を見ることはあるけれど、やはりシーズンは今。脂ののった、美味しい鰯が毎日たっぷりリスボンの漁港に上がるのが、6月、7月であるし、それぞれの店主たちが競うように路上炭火焼きショーを展開するのが、今の時期なのだ。この時期ポルトガルへは、ヨーロッパ各地から観光客がどっと押し寄せるため、店の前でのこのショーが、即ち客引きというわけ。

 僕は今、東京で、毎日のように「朝まで生テレビ」状態でサッカーのW杯ドイツ大会を楽しんでいる。今週、躍動するポルトガル代表を見ていて、フィーゴやマニシェや(アソーレス諸島出身の)パウレタらを見ていたら、なんだかポルトガルがとても懐かしくなってしまった。結局、天才ジダン率いるフランスの前に敗れてしまったけれど。それにしてもポルトガルよ、おまえたちはマリーシア(狡猾)というよりも、姑息に過ぎる時があまりにも多くあり、それはいかがなものか。デコを中心としたチームは素晴らしかったし、90分の中、美しく強いフットボールを多々魅せてくれる一方、多くの時間が実は姑息なプレイに徹するシーンに満ちていて、それが見ていてやや辛かった。でもそれもまた、彼らのサウダーデのひとつなのかもしれないが・・・。

 さてさて、初めてポルトガルへ旅をしたのは、何年前だったろう? たぶん、10年前か、それくらい。僕の初めてのポルトガルへの旅は秋で、それから何年か、毎年のように訪れていた。秋に行ったときにも鰯を食べたけれど、やはり初夏に訪れたときにその絶品を味わった。
 リスボンに限らず、ポルトガルの海辺の町では魚料理が美味しく、特に鰯は絶品だ、ということを僕は、壇一雄のエッセイで読んで知っていた。壇一雄は、リスボンから北へ、車で3時間ほどドライブした海辺の町サンタクルスに2年近く暮らしていたのだ。そのサンタクルスにももちろん僕は行った。壇が暮らしていた家は今も残されていて、「彼の生活を手伝っていた」と自称するおばさんが自称「管理」している。「壇一雄通り」もある。その大西洋に沈む夕陽を望む町の一角には(そこは広いきれいなラウンドバウトになっているのだが)、壇一雄の碑がある。碑には、壇の直筆が刻まれている。こんな言葉がそこにある。
 「落日を 拾ひに行かむ 海の果」
 ユーラシア大陸の西の果ての小国、ポルトガル。その西海岸の港町サンタクルス。それより先には、大西洋の広がりしか見えない(その遙か向こうはニューヨークだ)。僕も初めて行ったとき、まさにその碑がある場所から、どっぷり大きな夕陽が大西洋に沈んでいく様子を眺めた。落日、という言葉が身に染みたのをよく覚えている。

 サンタクルスでもポルトでも鰯は食べられるけれど、僕はやはり、リスボンのアルファマで食べる鰯が一番好きだ。そこには、ただ美味しいというのを通り越し、独特の風情がある。サウダーデ、という風情。恥ずかしがり屋、シャイで、目が合うとさっと目をそらしてしまう人々が暮らす街、リスボン。けれど、ひとたび仲良くなると、ぐいぐいとこちらの心の中に突っ込んでくるような大らかさ、実直さ、優しさ、強さ。そして同じくらいの、哀しさと侘びしさを、彼らは抱えている。「郷愁」という言葉がリスボンやポルトガルを表すキーワードとして頻繁に用いられるが、「異議なし」である、「郷愁に一票!」。リスボンに滞在していると毎日必ず、郷愁=サウダーデを感じる一瞬が訪れるのだから。

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 1755年の大地震が、古都リスボンの街並みの大半を破壊した。そのとき、被害をほとんど受けなかったのが、アルファマという一画。実はここは、昔も今も比較的貧しい人々が暮らす地区。地盤の固さが、アルファマを地震から守ってくれたのだ。アルファマにはだから、その大地震より前のリスボンの姿がそのまま残されているということになる。
 古い時代の街並みのままなので、アルファマには車などは一切入れない。細い小径が蜘蛛の巣のように絡み合っている、としばしば表現されるけれど、確かにそんな感じ。ただ、イスタンブールのバザールやフェズのスークのような迷路感はない。上を見上げれば空だし、白やイエロー、ブルー、ピンク・・・色とりどりに塗られたまさにイベリア半島風の壁が続き、晴れた午後には初夏の太陽が燦々と反射して眩しい。細い小径だから、右の建物から左の建物まではすぐ。見上げると、その空の下で、洗濯物が舞っている。右の家の窓から左の家の窓へロープが渡されて、洗濯物を干しているわけだ。ちなみにこの洗濯物の干し方にはルールがあって、「○曜日はどちら側の家が干す」とか「○曜日はカーペットや敷物関係を干す日」といった具合。長くなるからそれについての詳細はまた別の機会に書くことにしよう。

 「7つの丘の町」と呼ばれるリスボンは坂道の街で、アルファマも急な坂道にへばりつくようにして展開している。その坂の下の方に、やはり港に近いからだろう、たくさんのレストランやカフェが集中している。美味しいレストランはリスボンのあちこちにあるけれど、僕は滞在中いつもこの一画で朝、昼、夜と食べる(定宿もこの一画だし)。当たりはずれが少ないし、どこも小さくて狭いけれど雰囲気満点だし、値段の安い店もある。
 鰯は初夏から夏にかけてのリスボン名物だが、食べ方はこうだ。レストランに入ると、だいたい入口にずらりと「今日漁れた魚」がクラッシュアイスの上に並べられている。店の人に、「これとこれを焼いてくれ」とオーダーすることから食事は始まる。鰯が食べたいときは、それを指さすか、ひと言「サルディーニャ」と言えばいい。頭から尾までそのまま炭火で焼かれた熱々の鰯が、だいたいどの店も最低で4尾、多いときには6尾ほど、皿にのってくる。付け合わせは茹でたジャガイモ。グリーンサラダが少々。このジャガイモが、アイルランドや北欧に負けず美味しいのだが、それも言い出すと長くなるので今はやめよう。
 とにかく鰯をナイフとフォークで開いてざっくり切り分けたら、テーブルに必ず置かれているオリーブオイルをふりかける。たっぷりと。そして豪快にレモンを絞る。
 美味。ただ、ただ、ひたすら、超美味。美味しすぎる。
 初めて食したとき、「鰯って、オリーブオイルがこんなに合うんだ!」と驚愕した。実は小さな醤油瓶を持参していたのだが、すぐに使うのをやめてしまった(焼いた鰯にはオリーブオイルとレモンがとても合う。騙されたと思ってぜひ試してほしい)。
 鰯だけではない。店では、アジの開きやカツオにサンマ、サーモン、タラ、アンコウ、タチウオ、タコにイカと、何でも炭火で焼いてくれるのだが、どれもこれも、オリーブオイルが完璧に合う。そして、茹でたジャガイモも。だから僕は、初めてのポルトガル以来、東京の自宅で魚を焼くと、いつもオリーブオイルとレモンで食べている(もちろん、時たま醤油を垂らすし、大根おろしも捨てがたい)。

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 ポルトガル人は米もよく食べる。僕が一番好きなポルトガル料理は、「アロウス・デ・タンボリル」で、「アンコウの雑炊」。リゾットではない。日本人からすると明らかにそれは「雑炊、おじや」なのだ。熱々の土鍋で供される。大きな料理で、大人4人で食べても充分なほど。他に、「アロウス・デ・ポルボ(タコ雑炊)」や「アロウス・デ・マリスコ(海の幸雑炊)」なども美味。ああ、食べたくなってきた・・・

 ポルトガルは美味しい。ポルトガルは美しい。リスボンのサウダーデが懐かしい。
 W杯の3位決定戦では僕はポルトガルを応援し(でも負けそうな気がする)、決勝戦ではイタリア、フランスどちらのチームも応援せず、ピルロ、ガットゥーゾ、カンナバーロ、デルピエーロ、ジダン、マケレレ、リベリー、ヴィエイラ、アンリと、大好きなプレイヤーたちを応援することにしている。ただただ、美しいフットボールを愛でるのだ。それが、フットボール最弱国に暮らすフットボール・ファンの幸せであろう。ただフットボールを愛でることができるのだから。


<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『O PARAISO』MADREDEUS
『CAFE ATLANTICO』CESARIA EVORA
『CLASSIC MEETS CUBA』KLAZZ BROTHERS & CUBA PERCUSSION
『CASA』MORELENBAUM 2 SAKAMOTO
『A LITTLE BIT OF SOMETHIN'』TOMMY GUERRERO

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by imai-eiichi | 2006-07-08 15:56

019【The 4th of July, New York】

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 今日、アメリカ合州国は7月4日、インディペンデンス・デイ(独立記念日)だ。
 先週末からロング・ウィークエンドのホリデイ、ほとんどの企業や会社、多くの店は休み。アメリカ人にとって7月4日は、日本人にとっての1月1日に相当する。「完全に祝日」だし、最も大切なホリデイだ。
 ニューヨークのイーストリバーでは、恒例の夜の花火が行われたはずだ。タイムズスクエアには、祝日でやって来ているアメリカ人旅行者を中心に大勢の人々が集まり、深夜過ぎまでにぎわっていたにちがいない(まぁ、あそこはいつも人通りが多いけれど)。
 エムパイア・ステイト・ビルは7月4日の夜、ブルー、レッド、ホワイトの3色にライトアップされる。それは、合州国国旗の色、米国のナショナル・カラーだ。

 1984年の7月4日は、僕が生まれて初めてニューヨークに「上陸」した日だった。大袈裟ではなく、そのときのことを僕は決して忘れることはできない。
 米国中西部のハイスクールをその年の5月に卒業した僕は、地元のベースボールのサマーシーズンの大会を終えると、荷物を全部片づけて、ミネアポリスの裏通りでグレイハウンド・バスに乗った。およそ2年をかけて僕は米国を旅していったのだが、その旅の前半のハイライトが、ニューヨークだった。
 当時まだニューヨークは、マンハッタン、ブルックリン、ブロンクス、クィーンズと、行政区が完全に独立していた。僕にとってニューヨークと言えば、いつもマンハッタン島のことだった。

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 シカゴやデトロイトといった街に滞在しながら、1か月以上かけて、バスでのろのろと東へ向かった僕がニューヨークに到着したのが、7月4日の早朝だったのだ。
 実は、時計もしていなかった僕はその日が7月4日だとは知らずにいた。自分が独立記念日にニューヨークに到着したとは気づいていなかったのだ。
 当時、マンハッタンのユースホステルはタイムズスクエアから東へ数ブロック歩いた場所にあった。繁華街のすぐそばである。当時のタイムズスクエアというと、「ジュリアーニ以前」もかなり昔で、実に猥雑で汚かった。ポルノショップが林立していて、ジャンキーが路上にたむろしていて、ドラッグ・ディーラーがぎらぎらと目を光らせていた。歩いているだけでマリファナの匂いがぷ〜んと漂ってきたし、注射針がたくさん落ちていたから、今のようにビーサンで歩くことなんて怖くてできなかった。そう考えると、ニューヨークはずいぶん変わったのだ。とにかくクリーンになった。ジュリアーニの仕事は徹底していたわけだが、それにしても、あんなにたくさんいた浮浪者たちはいったい何処へ消えたのか。

 とにかく、ユースホステルに僕は宿をとった。お金がなかったからだ。84年当時、1泊14ドルだった。4人部屋。
 荷物を置いてたまった洗濯をして、夕方近く、外へ出ると、通りをとにかく大勢の人々が、行列かデモのように、一方向に歩いている。みんな東の方、つまりイーストリバーの方へ向かって歩いているのだ。どうしたんだろう? と僕は思った。パーティでもあるのかな、と思って僕は、どうせ何も予定はないのだし、その流れにまぎれて歩き出したのだった。
 川辺につくと、ものすごい人だかりだった。屋台も出ていたし、日本の花見のように場所取りが激しい。「何かあるんですか?」と僕はそばにいた黒人に訊いた。彼は目をまるくして、おまえアホか? というような顔をしてこう言った。
「何言ってんだよ、オマエ、インディペンデンス・デイの花火を見に来たに決まってんだろ!」

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 学生ビザを持っていた僕は1週間後にはアルバイトを見つけ、それから1年近くニューヨークにいたのだった。着いた日の夜に見た花火のことを僕は「やって来た自分を祝福してくれている」と受け止めたし(実に単純な奴だ)、それからも毎日は祝祭のようだった。
 もちろん、貧乏だし、いつもお腹を空かしていたし、昼間はユースホステルの受付のバイト、夕方からはヴィレッジのレストランで皿洗い(後に調理場で料理を作った)と、振り返ってみればファンシーなことは何もなく、何がそんなに楽しかったのか。
 ニューヨークは、ずっと憧れの街だったのだ。僕がそれまでに抱いていたイメージはこうだ。空に突き刺さるような高層ビル、きらびやかなネオンは消えることがない。世界中からやって来た人々は誰も一攫千金を夢見、そこには無数の人種が混在している。世界一の活気がある。世界の中心の都市・・・。
 初めてエムパイア・ステイト・ビルの展望台に立ったときの衝撃はただならぬものであったし(今もすごいなぁと思う)、秋のセントラルパークの紅葉の美しさとか、自然史博物館の広大な回廊の涼しさとか、ハーレムの黒人たちの熱気やブロンクスの燃えさかる車やガラスが1枚もない廃墟ビル(当時のブロンクスは信じられないほど危険だった)、真夏のワシントンスクエア公園のあの噴水広場の水遊び、凍えるような2月の雪の朝・・・、何もかも、何もかもを、1秒1秒を、僕は抱きしめるようにして感動しまくっていたのだと、今から振り返ってみて、思う。今書いていて思いだしたが、パラディアム、トンネルといったディスコティーク(クラブ)が大流行していた時期でもあった。ときどき、仲良くしていた女の子たちに誘われて踊りに行った。当時はコカインがニューヨークで大流行している頃で、そういったクラブのトイレへ行くと、どいつもこいつも個室で白いラインを作っていた。『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』と『レス・ザン・ゼロ』が書店に並んでいた年でもあった。
 結局、ニューヨークの冬の寒さや雪にうんざりして、僕は翌年にはフロリダのキーウエストへ引っ越したのだが、それはまた別の話。

 当時は写真を撮ることに熱心ではなかったから、ほとんど写真は残っていない。数少ない当時のニューヨークでの写真を見ると、もちろんあの2つの塔がそこにはある。
 あの2つの、のっぺりした塔のことを、僕は好きじゃなかった。アールデコのデザインが美しいクライスラービルやエムパイア・ステイト・ビルに比べると、顔が感じられなかったからだ。でも、ブルックリン・ハイツに暮らすニューヨーカーの知人が2001年の9月に僕に語ったように、僕もまたその2つの塔がなくなって初めて、失われた物の大きさを知ったのだった。マンハッタンの風景が根本から変わってしまったからだ。あの2つの塔は、大きな眼のように、マンハッタン島に必要だったのだろう。

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 7月4日、米国の独立記念日。あの大統領は大嫌いだし、今あの国を覆うダークサイドはほんとうに危険だと思うし、そしてあの国に積極的に「行きたい」とは思えないけれど、でもやはり、今も僕はニューヨークが好きだ。


<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『THE ERASER』THOM YORKE
『DIFFERENT GAME』MAKANA
『LIFE IS WATER』SIM REDMOND BAND
『THE INTERCONTINENTALS』BILL FRISELL
『COLLATERAL』ORIGINAL SOUNDTRACK

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by imai-eiichi | 2006-07-05 22:37

018【聖地その3 Bali, Ubud】

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 バリ島の人々は言う、「海には魔物が棲んでいる」。
 バリニーズ(バリ人)にとって「海は悪い場所、魔物が棲む世界」であり、反対に「山は聖なる地、神々が棲む世界」だ。
 30年前、40年前のバリ島を知っている友人がいて、彼はこう言う。「当時は、クタやレギャンに行っても、海に入っているバリニーズはまずいなかったよ。海は、恐れる場所だからね」
 漁師たちは? と僕は訊いた。
「バリにも、カースト制度がある。インドほど強烈なものではないけれどね。もともと漁師はカーストの低い人たちの仕事だったんだ。位の高い人たちは海には寄りつかない。そこは悪魔が棲み、汚れた心が漂う世界だから」

 今は、バリニーズもサーフィンをする。クタやレギャンに限らず、バリ島のどこでも、若者たちは海に入るし、子供たちは海辺で遊ぶ。もはや海は「近寄りがたい魔界」ではなく、「近所の遊び場」になった(物売りにとっては、そこは大切な商売の場所だ)。
 バリ島は、ずいぶん昔から他のアジアの島々や、アフリカ東海岸域からの影響をたくさん受けてきた。バリ島の漁の方法や船のスタイルを見ていくと、そこには様々な異文化の混在が確認できるという。
 だから、「海は魔物の世界」とは言っても、ずいぶん昔から、海に入っている、海で仕事をしている、という人々はいたようだ。ただ、寺の僧侶をトップにしたカースト的バリニーズ界では、海は「近寄りたくない場所」とされていた。

 前述の友人。彼は、1960年代末から70年代初頭にかけ、米国西海岸で学生時代を過ごしていた、僕よりずいぶん年上の友人だ。過ごした年代、時代、世界はまったく違うけれど、僕らは親友である。
 彼は、ウッドストック世代であり、ビートの本を手に、インド・ゴアやアフガニスタン・カブールなどを「旅の聖地」として巡り、世界中を旅していた。そう、「あの時代の旅人」のひとりなのだ。彼が初めてバリ島へ訪れたのは、1972年。
「クタの一部にしか、まだ電気は通ってなかったし、水道がない宿が当たり前。ウブドなんて、電気は一切なかったし、電話なんてゼロ。道路はどこも田んぼのあぜ道みたいなもんだったよね」
 アマン・グループやフォーシーズンズのホテルを知っている世代からするとにわかに想像もつかないが、それはわずか30〜40年ばかり前のことだ。
「初めてバリ島に着いたときのことは忘れられないね」と彼は述懐してくれた。
「ヒッピーバスに俺たちは乗り込んで、みんなで海辺をめざしていた。深夜中走り続け、明け方、黒砂の浜辺に到着したんだ。クタビーチだったけれど、まだクタなんて名前も知らなかった。バスの中ではみんなでジョイントを吸いまくっていたから、どいつもこいつもストーンしていた。バスを降りると、ちょうど夜が明けようとしているところだった。俺たちは裸足で黒砂の上に降りた。クタビーチの海沿いには、その頃はまだ何も建物なんてなかった。ずっと田んぼだけ。田んぼが終わると浜辺だった。ひとつだけ、バンジャール(バリ各地に必ずある、村や町の集会所)があって、そこに村人たちが何人か集まっていた。俺たち白人ヒッピーが10数人、ドヤドヤとヒッピーバスから降りると、どこからかひとりの老人が現れて目の前に立った。彼は、僧侶だった。彼は俺たちをひとりずつ自分の前に立たせると、ひとりずつに向かって何かお祈りを唱えてくれたよ。バリ語だから何を言っているかなんてわからない。ストーンしていた俺たちは一瞬にして醒めて、みんな恐縮したし、でも、なんだか心が清められているみたいで、実によい気分になれた。あれは、素晴らしい瞬間だったな。そうやって、俺たちヒッピーはバリ島に迎えられたんだ。髪の毛もヒゲも伸ばし放題、汚い格好をした俺たち白人を、僧侶もバリニーズも、何の差別もなく受け入れてくれた。“ああ、ここは楽園に違いない”ってオレは思ったし、すぐにこの島を大好きになったんだ」

 彼は言う。「バリ島は、地球上の聖なる場所のひとつだ」。
 僕は何度も彼と一緒にバリ島を旅した。島全体について「聖なる場所だ」と彼が言うこともあったし、島の何処かで「ここは聖地なんだ」と言うこともあった。たとえば、アグン山。実際、アグンは、バリニーズにとっての「聖地」でもある。そこにはバリ島で一番重要な神が宿り、重要な寺があり、大きな力が備わっているという。バリニーズたちは、アグンに向かって心の中でお祈りをするのだ。
 アグンは、美しい山だ。雨季には低く垂れ込める雲に隠れてあまり見えないが、乾季に訪れると、いろんな場所からよく見える。南半球のバリ島は今、乾季である。

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 何度も訪れているバリ島で、こんな風景が心に残っている。もう、かれこれ10年前のことだ。

 僕はウブドのはずれにある、小さなロスメンに滞在していた。ロスメンというのは、B&Bというか民宿というか、朝食が付く安い宿のことだ。今、そのロスメンはコンクリートの壁にセキュリティされた、ずいぶん立派なコテージハウスに変わってしまったけれど、当時は人も風も犬も猫も「通り抜け自由」という感じの安宿だった。
 多くのバリの宿がそうであるように、2階にベッドルーム、1階には吹き抜けになったリビングルーム、その奥にバスルームがあった。目の前は、田んぼ。いわゆるライス・フィールド、水田である。
 夕方、そのライス・フィールドが美しい色のショーを見せてくれる。バリ島の稲作は三毛作が基本だが、目の前の水田は、お百姓さんが毎日苗を植えている時期だった。毎日、毎日、数人のお百姓さんたちが、家族総出という感じで、夫婦や友達、子供も一緒になって、朝早くから夕方まで、水田に稲の苗を落としていた。バリ島には昔も今も「協力し合う」習慣があって、苗を植える水田があると、周りの別の水田の農民たちも手伝いに馳せ参じる。お互いにそれは行われる。そう、自然に習慣化されたギヴ&テイクだ。
 赤道直下のバリ島のサンセットは早い。乾季なら、だいたい6時半頃だったろうか。その1時間ほど前から、空の色がゆっくり変わりだす。光の変化に伴い、水田の表面の輝きも変わっていく。日中、青い空と雲を鏡のように映し混んでいた水田は、夕方にはオレンジ色に変わり、やがて水面が深紅に染まっていく。ほんとうに、ほんとうにきれいだ。太陽がついに西の山の向こうに沈むと、赤が急激にフェイドアウトしていって、紫や藍色がさーっと水面を覆う。空にはまだ明るさが残されているのに、水田の水の色はいつかし漆黒にも似た、影のような、ダークカラーになる。空はまだほんわり明るい、その下には、黒い影になった水田の広がり。絶妙なコントラストだ。
 その頃には、お百姓さんたちは1日の仕事を終え、帰路につこうとしている。そのすべてが見渡せる1階の吹き抜けのフロアの座布団の上に座り、僕は見ているのだ。
 5人、6人くらいの大人たち、その前や後ろに、遊び半分であぜ道を駆けていく子供たちの姿がある。サンセットの少し前に彼らはすっかり帰り支度を終えているわけだが、とうとう陽が暮れたかどうかという瞬間、彼らは必ずーーそう、それは毎日、毎日、必ずなのだーーふと立ち止まる、田んぼのあぜ道の途中で。そして、夕焼け空を見やり、そっと頭を下げるのだ。ゆっくり頭を下げ、また上げると、そこには何とも言えない満足感に満ちた、穏やかな笑顔がある。「今日も1日、どうもありがとうございました」・・・まるでそう言っているような、誰かにーーアグンに? それとも空に? 太陽に?ーー彼らは一礼を捧げることを忘れない。

 僕が感じたのはーーあくまで僕の個人的な感じだがーー彼らはきっと、目の前のその美しい風景すべてに対して、「ありがとう」と言っていたのではないかと思う。そう、万物、森羅万象への感謝の気持ち。
 ああ、なんて美しいんだろう・・・! 僕はその風景を見てそう思った。たぶん、何度かは涙さえ流したと思う。バリニーズのお百姓さんたちの、自分の島=土地への想いが僕の心の中にもすーっと入ってきたような気がした。この風景が僕をバリ島にぐっと近づけてくれたと思う。もちろん僕には決して超えられない壁を知ったわけだが、そのことで僕はこの島を大好きになった。
 今、その風景を鮮やかに思い出してみると、彼らお百姓さんたちにとってその場所はすべて、「聖地」なのではないかと思える。聖地という言葉そのものの本来の意味は知らないのだが、僕が目撃した風景はとてもスピリチュアルであったし、彼らの一連の自然な行動は、スピリチュアルなものだった。
 バリ島が聖なる場所であるかどうかはわからないけれど、あのとき、あの瞬間、僕にとってバリは確かに聖なる世界に生きる人々の土地だった。
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<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『BALI DUA』JALAN-JALAN
『IN A SAFE PLACE』THE ALBUM LEAF
『LE PAS DU CHAT NOIR』ANOUAR BRAHEM
『AMBROSIA』A REMINISCENT DRIVE
『NATURAL MYSTIC』BOB MARLEY

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by imai-eiichi | 2006-07-02 15:48




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