ビーチサンダル・クロニクルズ TEXT+PHOTO by 今井栄一

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011【ホノルル】

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 週末からホノルルに来ている。オアフ島。
 曇りと雨降りの日々が続いた5月の東京だったせいか、この島の太陽をものすごく眩しく感じる。
 ちょうど今、こちらは日曜日の午後3時前。暑すぎる陽射しを避けて僕は、ダウンタウンにあるお気に入りのカフェに座ってこれを書いている。「rRed Elephant Cafe」(なぜかRの前に小さなrが付く)というカフェで、隣は同じ名前のライブハウスだ。今夜はそのライブハウスで、友人マカナのライブがある。ソロのライブではなく、3人のローカル・ミュージシャンによるアコースティック・ギター・セッション。もうすぐニュー・アルバム『Different Game』を発売するマカナは、今年に入って心身ともに絶好調で、精力的にライブ活動をしている。6月は、その『Different Game』のプロモーションのため来日し、2週間ほどかけて全国各地でライブ・パフォーマンスをするそうだ。

 米国はメモリアルデイで、明日月曜日まで休日が続くロング・ウィークエンドだ。明日も休みだからか、いつもの日曜日以上にローカルの人々がリラックスしているような気がする。
 とは言え、ここでは毎日がお休みのようなもので、その「永遠の夏休み」の中でローカルの人々は働いている。もちろん仕事をすること、その仕事を持続させることは、どこにいても大変なことであるし、南の島にいてもそれぞれ苦労や悩みがあるに違いない。でもやはり、この太陽の下で青い海を持つ彼らを、単純にうらやましいと僕は思ってしまう。どうせ同じように毎日毎日働くなら、こっちの方がずっといいなぁと、個人的に思ってしまう。
 目的を持って東京(あるいは日本)に暮らすならそれもいいけれど、もし目的もなく「そこ」に暮らしているなら、「そこ」にいる意味はないわけで、だったら、同じように目的がない暮らしならせめて太陽が眩しくて毎日がヴァカンスのような「ここ」のほうが幸せな気がしてしまうのだ。
 目的を持って「そこ」に暮らすか、目的は特にないけど「ここ」に暮らすか。もちろん、「目的もあって、かつ、住みたいところに暮らす」ことができるなら、それが一番いいのだろうけれど。
 僕はきちんと目的を持って「そこ」に暮らしているか?と問われれば、「うーん・・・」と悩むしかない。

 「しょっちゅう旅に出たいと思う人は、結局のところ今いる自分の居場所に満足していないからです」
 そう言ったのは、スティーヴンスンだったか、それともモームだったか。
 少なくとも僕は「しょっちゅう旅に出たい」と思っている人種のひとりだ。

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 早朝に到着した昨日は長い1日だったので、昨夜は10時前にはベッドに入り、今朝は6時前に目覚めた。
 サン・スーシー・ビーチに建つこの古いホテルは、すぐ裏がカピオラニ公園。朝6時半からその公園の大きな木の下でヨガ教室が開かれていて、今回はそれに参加してみた。僕は身体がカタイし、ヨガを定期的にやっているわけではないけれど(毎朝いくつかのポーズの「まねごと」だけはやっている)、たっぷり1時間以上、インストラクターのまねをしていたら、汗をたっぷりかいて、肩や首のコリもなんだかとれた気がして、実に爽快だった。汗をシャワーで流すのがもったいないような気がしたので、そのまま海へ入り、10分くらい朝の海を泳ぎ、10分くらいただつかっていた。
 それから歩いてカピオラニ公園を横切り、モンサラット・アヴェニューにあるお気に入りのメキシコ料理店へ朝食を食べに行った。メキシコ人の奥さんと、チーチ&チョンみたいな感じの白人の旦那さんとが、2人でやっているメキシカンで、店の雰囲気がすごくいい。赤・黄・青3色のカラフルな壁にはフリーダ・カーロの大きな絵が飾られ、一方でワイキキの海辺に立つデューク・カナハモクの写真が額に入れて飾られてあり、その額にはいつもレイがかけられている。そう、こころざしのある、そういう「雰囲気」の店なのだ。Tシャツや靴と同じで、レストランもまた、味はもちろんだけれど、それと同じくらい「雰囲気」や「風合い」が大切であると僕は思っている。そう言えば、片岡義男さんが日経新聞の日曜版に、スイッチの「Rainy Day Books & Caf氏vのことを書いていたっけ。確かに「レイニー・デイ・ブックス&カフェ」も、素敵な風合いの店だ。まだ3〜4回しか行っていないけれど、僕は自分の心にブックマークしてある。
 良いカフェのある街はいい。さらに、自分が足繁く通えるようなカフェがある街は、さらにいい。

 意外かもしれないけれど、ホノルルにもそういうカフェはあって、ダウンタウンの「rRed Elephant」はそのひとつ。
 ホノルルのダウンタウンは今、大規模な再開発の途上にあり、ここ1〜2年でずいぶん雰囲気が変わった。そのオフィス街にはもともと19世紀末頃に建てられた古い建物がいくつもあって、中には「ぜひ残して欲しい」と感じる素敵な外観・内観のものもある。そういった建物のいくつかが再開発によってリノベイトされた。と言っても、クリーニングアップされた以外には外観などはそのままに残されていて、その地上階にカフェやレストラン、バー、ギャラリーなどが次々と入ったのだ。古いからと言ってすぐに壊して更地にして、そこに新しい建物を建てていくのではない。こころざしと雰囲気を持つ店がある背景には、こころざしや雰囲気を大切に考えるシステムもあり、それを実行する人々がいる。
 「rRed Elephant」は、ホノルル・ダウンタウンのランドマーク的な建物の1階に入っている。

011【ホノルル】_b0071712_16582566.jpg そのカフェのテーブルで僕は今、これを書いているというわけだ。カフェには無線ランが飛んでいて無料だから、このままネット上へのアップ作業も済ませてしまおうと思う(うまくできれば)。それじゃあ、とりあえず、コーヒーをもう一杯。それとも、蜂蜜入りのカモミール・ティーにしようか・・・。



<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『CLUB KAMA AINA』KAMA AINA
『CURIOUS GEORGE SOUNDTRACK』JACK JOHNSON
『DIFFERENT GAME』MAKANA
『SAFE JOURNEY』KENJI JAMMER MEETS KAMA AINA
『PALM WINE A GO GO』ABDUL TEE-JAY
by imai-eiichi | 2006-05-29 16:53

010【ある村への旅 その3】

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 その<村>には、核燃料再処理工場の機能や安全性、必要性を伝えるするための施設がある。「PR館」と地元では呼ばれている。
 その建物のデザインは、手塚治虫のSF漫画を思わせる。子供が絵に描く空飛ぶ円盤のようでもある。
 再処理工場そのものには入ったことがないから、「本物」の内部がどうなっているかは知らないけれど、この「PR館」のテーマは、すぐそばにある「本物」をモデルに、「中はこうなっていますよ、こうやって再処理するんですよ」とわかりやすく教えること。核燃料再処理工場や、<村>にいくつもある核燃料サイクル施設の必要性、重要性、安全性を、万人に理解してもらおうということだ。

 入口から入ると受付があって、若い女性が座っている。右手には土産物屋。土産物屋では、たとえば「放射能廃棄物除去用手袋」とか、そういった類のものが売られているのかと思ったら、そうではなくて、お饅頭とか、干しイカとか、駅で売られているものと大差なかった。
 受付で頼むと、正味30分ほどの「説明ツアー」を無料で受けられる。受付の女性のひとりが館内を一緒に周りながら説明してくれるのだ。
 T氏の勧めで僕はその説明ツアーを受けることにした。
 ちなみに、受付の女性は皆、若く、きれいな人々だ。こういうところにオシャレで若い男性がいるケースは少ないと思うのだけれど、どうしてだろう? お台場の未来館もそうだった。オダギリジョーみたいな受付男性がいたっていいのにと僕は思う。あるいは高倉健のような。

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 さて、手塚治虫のSF漫画を思わせる、と書いたけれど、内部はもっと「SF漫画的」。なんだかハリウッド映画のセットの中を歩いているような感じだ。カラフルな色が使われているが、それは実際にもそうなのか、それともこのPR館独自のものなのか。
 たとえば、鮮やかなグリーンのベルトコンベアに乗せて運ばれている「放射性廃棄物」と書かれたイエローのドラム缶がいくつもある。放射性廃棄物はコンクリートでがちがちに固められた上でそのドラム缶に詰め込まれ、地下十数メートルのところに作られたコンクリートの部屋の中に次々と置かれていく。
「もちろん、あれは本物ではありません」
 と案内係でもある受付嬢が笑顔で言う。そりゃそうだ。本物だったら今ごろ僕らはとっくに被爆している。
 でも、たとえ偽物だとわかっていても決して気持ちがいいものではない。すぐそばにある本物の施設のことを考えてしまうし、それ以上に、目に見えない放射能の存在を想像してしまうのだ。僕はこのPR館を歩きながら何度も広島のことを考えていた。いつか行った原爆ドームや、あの悲しい資料館のことを。広島や長崎の人たちは、このPR館を訪れたくないだろうなぁと、なんとなくだが、思った。
「コンクリートで何重にも固めていますから漏れる心配はありません。地下深くに埋め込まれ、そこもコンクリートで厳重にカバーされているので漏れ出す恐れはありません。一定の時間が経つと、放射性廃棄物の危険性はなくなります」
 心配そうな僕の顔を見たせいか、案内係の女性がそう説明してくれた。
「コンクリートってすごいね!」と僕は言う。嫌味ではなく、冗談のつもりでそう言ったのだが、受付嬢もT氏も黙っていた。ここではそういう冗談はウエルカムされていないようだ。昔、日本版ゴッドファーザーな人たちは、邪魔な人物をコンクリート詰めにして海に落としたというフォークロアを聞いたことがあった。この黄色いドラム缶から僕が連想したのはそれだったが、それについてはあえて口にしなかった。
「本物を見たことある?」と僕(笑顔)。
「実際の再処理工場の中に入ったことはありません」と彼女(微笑)。
「放射性廃棄物の危険性が消えるのに、どれくらいの時間がかかるのかな?」と僕(笑顔。だけど真剣)。
「さぁ・・・、きっと、10年とか、20年じゃないでしょうか・・・」と彼女(笑顔。「知らないこと聞かないでよ!」と怒っているその心の中を察する僕。でも、10年と20年では大きな違いだし、そんな時間で放射能は消えるのだろうか?)
 チェルノブイリの現在のことについて彼女に話そうとしたけれど、それはやめた。彼女は責任者でも何でもないし、きっとローカルの人であり、本人はただここで一生懸命に仕事をしているだけなのだ。
 僕は所々で立ち止まり、写真を撮った。僕が撮っているあいだ、彼女は何も言わずに待っていてくれて、撮り終わると、「では、こちらへ」と次の場所へ誘った。

 そうやって次々と施設内部の様子を学んでいく。途中で本物のウランなんかも出てきてびっくりする。「カナダ産ウラン」。ガラスでカバーされているけれど、そのガラスを手で触れることができる。ウラン入りのガラスを触ったのは、生まれて初めてだ。あとでトイレに入ってよく手を洗おう。

 最後に3階へ案内される。そこは展望施設になっていて、六ヶ所村がぐるりと見渡せる。海や川、森、名所の神社や旧跡などが、地図で示されている。「これはピラミッドではないかと言われている山」の写真がアップになっていて、その方向を見ると、なるほど三角形の山がある。
 新緑の森の向こうに再処理工場が見える。

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 この日は土曜日で、PR館には家族連れが大勢やって来ていた。ここには、幼い子供たちのための遊戯施設もあるし、主に小中高校生のためのコンピューター・ゲームの類もある。
 たとえば「原子力ゲーム」。ゲームをしながら自然に原子力エネルギーの安全性について学べるというスグレモノ。子供たちはそういったゲームがたくさん置かれたフロアで遊んでいる。この施設、どうやら子供たちに人気のようだ。週末だから、ただ単純に「ここで遊ぶために」という感じでやって来ている子供たちの姿もあった。
「ここで子供の頃から遊んでいたら、核燃料や原子力が“危険なものだ”とは思わなくなるのです」とT氏。
「これから、ここを“洗脳の館”と呼びましょう」と僕が言うと、今回は彼も笑った。

 外には広い公園があり、遊戯施設もあるし、ピクニック・ランチを楽しむこともできる。北の春はゆっくりで、丁度この日、サトザクラが満開だった。
 僕とT氏は、お腹が空いたので、PR館(洗脳館)のカフェテリアに入ってランチを食べた。T氏は味噌ラーメンを、僕はナポリタン・スパゲティを。僕は、B級グルメの代表格とも言えるナポリタンが大好きなのだ。
 春の陽射しが燦々と射していて、温かい。やがて我々の食べ物が届けられた。「放射能ナポリタンですね!」と僕が笑顔で言うと、T氏は複雑な笑顔で応えた。
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<今回の旅のヘヴィ・ローテーション>
『AZURE VISTA』THE MANUALS
『FEELS』ANIMAL COLLECTIVE
『TAKING THE LONG WAY』DIXIE CHICKS
『BRICOLAGES』坂本龍一
『AIR'S NOTE』TAKAGI MASAKATSU

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by imai-eiichi | 2006-05-27 10:37

009【ある村への旅 その2】

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 その<村>へは、八戸から車で行く。八戸までは新幹線だ。
 JR東京駅から東北新幹線「はやて」に乗れば、わずか3時間で八戸駅に着く。京都や大阪に行くのと気分的には同じ。東北へ行くのも東北新幹線に乗るのも初めての僕にとって、「青森県ってすごく近いんだな」という印象だった。

「すごく近くてびっくりしました」と僕はT氏に言った。
 八戸に着いた夜、僕は、ホテルのフロントで勧められた市内の鮨屋で晩ご飯を食べていた。というか、ひとりで呑んでいた。翌日僕はT氏の案内で<村>へ行くことになっていたが、彼はその夜、わざわざ仕事帰りに立ち寄ってくれたのだ。僕とT氏は、会うのはこれが初めてである。
「たった3時間で来られるわけだから、新幹線の開通は、地元の方々にとってはやはり良かったんでしょうね」
 質問というよりも、同意を求めるつもりで僕は言ったのだが、T氏の答は意外なものだった。
「東京もそうですが、盛岡や仙台といった近くの大都市にすぐに行けるようになったでしょう。地元の若い人たちが、どんどん出て行くようになってしまいました。若い人たちは都会に憧れますから、さっさと出て行っちゃうんです。一方、東京からたとえば出張で来られる方も、昔は八戸に泊まりがけで来てくれたのに、今では日帰り。ビジネスホテルは相当あおりをくらっています。東北巡りのツアー観光などでも、以前は八戸に泊まってそこから十和田湖へ行ったりしていたものですが、今ではほとんど仙台が拠点ですね。仙台から八戸まで朝一番の新幹線で来れば、充分回って仙台へ日帰りできるから」
 八戸は寂れる一方です、ほんとうにひどいです、ビジネス的にはとても厳しい状況なんです・・・、T氏はそう続けた。
「いや、八戸だけじゃなく、青森全体がね・・・。だから、<村>のように再処理施設だ、原発だと、地元はそういうのを誘致をしたくなるわけです。だって、莫大なお金が国から入ってきますし、そういった施設によって仕事も増えると考えますから」
 なるほど、そうか。

「歴史は常に勝者の側から書かれる一方的なものだ」という考え方に僕は100%同意するけれど、ここでも同じようなことが言えそうだ(たとえば徳川家康を「偉人」と呼ぶ人もいるし、「社長の理想モデル」とするビジネス書も多いけれど、家康なんて僕から見ればただの大量殺戮者であり、独裁者であり、サダム・フセインかブッシュか、という感じ。すべて、「どの事実を見るか」である)。
 新幹線が通ったことを「便利だ」と言う人も多いだろう。それを通した政治家は下品な笑顔で「オレがやった」と豪語して、それを手土産に地元に戻って英雄気取り。70になっても75になっても票がとれる。そこに政治哲学も計画もアイディアも何もない。たとえば「きれいな高速道路を通すか、新幹線を通すか、原発を作るか」ということが、投票の指針なのだ。最悪なのは、政治家とタッグを組んでいる大メディアが、その政治家の側からの視点でほとんどの報道をしてしまうことだ。
 そのようにして「事実」はいつも「片方の視線から」のみ語られ、伝聞されていく。それは確かに事実には違いないけれど、決して事実のすべてを伝えてはいない。あくまで一方的な視点だ。
 僕もやはりその視点しか持っていなかったから、T氏はそれをやんわりと正してくれたというわけだ。

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 真実はいつも遠くの方にあって、霞んでいる(しかもそれは単純な一点ではないかもしれない)。深い霧を抜けてそこへ辿り着くまでに、いくつもの森や無数の川や城壁があるように、「いくつもの事実」があるのだ。事実は無数にあるから、選ぶのは大変で、だからその代役をメディアがやってくれている。「代役」と言えば聞こえはいいけれど、そこに政治的な思惑は絡まっていないのか、大企業の戦略が関わっていないのか。大手メディアとは広告主に予算を頼る宣伝媒体であり、それらは多くの場合、政治家からの様々な恩恵を受けているのだから。
 テレビや新聞といった大手メディアから伝えられることだけを鵜呑みにして、それこそがスタンダードだと決めつけるのは危険だ。それを僕は「9・11」によって遅まきながら学んだ。
 僕よりずっと年上の、父母の世代、それよりもっと上の祖父母の世代、そういった日本人たちは、そういった「政治家やメディアによって作られたスタンダードの危険さ」を、太平洋戦争で生々しく学んだはずではなかったのか。「日本はエライ、日本は強い、日本は勝っている、天皇は正しい」と書き続けた、言い続けた、政治家とメディア。それを鵜呑みにした日本人たち。なんだかそういうことが、今も何も変わっていないように思える。

 その<村>の現状を僕に教えてくれたのは音楽家の坂本龍一さんだったが、<村>へ実際に行ってみようと思ったきっかけは、だから、「自分で自分のスタンダードをきちんと決めたい」と思ったからだ。「9・11」の2日後、当時の『スイッチ』編集長から「ニューヨークへ行かないか」と言われたとき、危険だ何だということはまったく考えず「行く!」と答えたのは、やはり「自分の目で見たい、聞きたい、確かめたい」と思ったからだ。多くのジャーナリストたち、先人たちはきっと、そういう理由から「現場、現地」へ赴いたのだろうと思う。
 その<村>もまた、今、「現地」なのだ。<村>でもうすぐ本格的に稼働を開始しようとしている「核燃料再処理工場」、その現状・現況を見たい、知りたい……、そう思っていたのに伝わってこないことがあまりにも多く、だったらもう自分でとりあえず見に行ってみよう、と、ただそれだけのことで八戸へ行ったのだった。もちろん自分のお金と時間を使って。

 八戸の夜、青森の地酒「八仙(はっせん)」を呑みながら、あるいはその翌日に一緒に<村>で過ごしながら、T氏は僕に何度も、何度もこう言ったのだった。
「どうか、伝えてください。今ではもう遅いとは思うのですが、それでもまだ何かが起きるかもしれない、何かが変わるかもしれない。とにかく伝えてください。人の目に触れさせてください、人の耳に入れてください。<村>のことを、ここで起きていることを」。(つづく)


<今回の旅のヘヴィ・ローテーション>
『AZURE VISTA』THE MANUALS
『FEELS』ANIMAL COLLECTIVE
『TAKING THE LONG WAY』DIXIE CHICKS
『BRICOLAGES』坂本龍一
『AIR'S NOTE』TAKAGI MASAKATSU

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by imai-eiichi | 2006-05-25 13:48

008【ある村への旅 その1】

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 「怒り」は、ときに力の源になる。だが、その力を善い力として使い、持続させるのは決して簡単なことではない。最初の怒りのテンションが高ければ高いほど、急速にそのパワー=勢いはしぼんでいく。
 「恐れ」は、(ヨーダがアナキンに繰り返し諭したように)相手につけいる隙を与える。多くの場合、僕らは恐怖から逃げる方を選ぶ。「とりあえず逃げる」のだ。「無駄な戦いを避ける」と都合良く言うこともできるだろう。「知らないふりをする」と言い換えてもいい。いずれにせよそれが一番簡単な解決法なのだ。

 かつてその<村>で、村人たちが最初に抱いたのは「怒り」だったという。怒りはやがて「恐れ」へと姿を変えていった。

 ウラン濃縮工場や核燃料再処理工場、放射性廃棄物埋没施設など、大規模な、いわゆる「核燃料サイクル施設」がこの<村>に次々と建設されていくことになったとき、そこに暮らしている人々が最初に感じたのはもちろん、国や県、自治体といった相手に対する戸惑いと怒りだった。過疎の村だったが、各地からのヴォランティア団体や市民グループ、あるいは個人らによる後押しを受けて、村人たちはその怒りの心とともに「ノー!」と声を上げた。「そんな施設、ここにはいらない!」と。漁業組合などを中心として、「反対組織」も立ち上がった。

 「怒り」を持続させるのは楽ではない。その力を蓄えながら使い続けることは並大抵ではできない。天候に左右されやすい農業や漁業を生業としてきた人たちーー今、その多くは高齢者たちだーーにとって、そういった類の努力の持続は、これまで経験したことのないものであったし、さらに、相手が大きな企業であり、その企業の後ろには大物政治家の名前が見え隠れしていた。つまり、「ノー!」と自分たちが言う相手は「日本」という自分の国そのものでもあるのだ。
 そうなのだ。自分たちの祖国が、こう語りかけてくるのだ。
 「大丈夫ですよ。これは未来の燃料なんです。これがあれば私たちは未来永劫まで安心して暮らしていけるんです。こんな過疎の村にもたくさんのエネルギーが通るし、ここからみんながもらうんです。これ以上素敵なことはありませんよ」と語りかけているのだ。国が、そう語りかけているのだ。
 国を信頼して年金を払い続けてきて、今やっとそれをありがたく頂戴し、大企業を信頼してメジャーな新聞を毎日読み続けてきて、全国ネットを信頼して毎日メジャーなテレビ番組を見続けてきた人々が暮らす村。国が言っていることが間違っているわけがない。新聞がウソを書くわけがない。テレビが何も言わないのだから問題はないはずだ・・・。「年金までくださる政府が大丈夫だって言っているんだから、大丈夫に決まっているだろ」と思ってしまうだろうか。
 やがて、「ノー!」と言い続けることに疲れたのか、それとも疑問を感じたのか、1人、またひとりと、反対派から村人が離れていった。

 灰色のスーツを着た人々が、いつからか村にたくさん出入りするようになっていた。
 パリッとした灰色のスーツを着た人々は、冷静で我慢強かった。彼らは待った。彼らは、「待てば必ず相手が折れる」ことを経験から知っていた。
 だが、もちろん黙って待っていただけではなかった。使えるものは、いろいろと使ったはずだ。
 想像してみよう。

 「今年は不漁だった」と嘆く漁師たちの家へ行き、小切手を見せる。漁師たちが見たことのない金額がそこに書かれる。疑心でそれを受け取らないと、翌日またやって来た。0がひとつ増えている。それをもらって引っ越してしまえば・・・と思う。「これだけあれば、楽に暮らせるぞ」と考える。その「しばらく」が具体的にどれくらいの時間(期間)なのかは深く考えない。自分の子供、孫たちが生きていく時間までは頭に描けない。50年後、100年後に村がどのような姿になっているのか、想像することはできない。目の前に分厚い札束があるのだ。それは今、唯一具体的であり、手に取れるものである。
 当初の「怒り」はその頃には「恐れ」に姿を変えている。「このまま漁業をやっていったって、ちっとも生活は楽にならないぞ」「でっかい工場ができたら、たくさん仕事ができるって言うじゃないか」・・・、そんな噂が飛び交う中、「このまま反対し続けたら、自分だけ取り残されるんじゃないか」と不安になり、その不安は「恐れ」となる。恐れから逃れたいと誰しもが思う。
 「どうすればいいんかのう・・・」と考えていたある日、反対派の中心にいたはずの漁業組合長が推進派に変わっている。結果、漁師たちは次々と小切手を受け取り、代々受け継いできた自分の漁業権を灰色のスーツの男たちに売ってしまう。気がつくと、漁業権を持つのはもう、たったひとりだけになっていた・・・。

 想像力しすぎ? そうは思えない。実際に「その通りなんだ」と語る人々がいる。口を閉ざす人々もいる。
 灰色のスーツを着た男たちに買収され、「社有地」となった土地がある。広大な土地。その一角に、根強く「ノー!」と言い続け暮らし続けている人たちがいる。小泉金吾死夫婦とその息子の家族。灰色のスーツの男たちは、どうしてもその土地だけが手に入らないから困っている。
 金吾爺は、ずっと畑仕事をしてきた。広い、広い自分の土地で。

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 「最初はみんな反対していましたよ」
 金吾爺はそう言った。77歳。足腰は弱くなったし視力は衰えたが、今も元気に喋る。
 「私らや、私らの親は、日本政府から頼まれてここへやって来たんですよ。北の、この土地を開墾して、豊かな田園の地にしなさいって言われて、それでみんな何も知らずにやって来た。それが、村の始まりです。私ら、私らの祖先が墾田したんです。木を切って、土地を拓いて、種を蒔いていったんです。そうしたら政府は今度は、ここから出て行きなさいと言う。これは、どういうことですか。ここは私らが作った土地なんです。ここは、私の土地なのに」
 金吾爺の家の周りには、木々が生い茂る。それは一見してきれいな風景だ。
 5月半ば。北の半島は春真っ盛りだ。木蓮の花びらが風に揺れている。昨日まで降っていた雨のお陰で、新緑が爆発するように開いている。緑がきらきらと踊っている。
 美しい自然がそこかしこにある。
 だが実は、そこはかつて畑だった。そこにはかつて農家の家々が建ち並んでいたのだ。そんなに昔のことではない。まだ道が残っている。もう誰も住まなくなった土地へ続いていく道だ。そこを歩いていくと、かつて学校があった土地がある。「つい昨日のことみたいだ」と案内してくれた人は僕に言った。フェンスが張り巡らされ、もう誰も「元学校の土地」には入れない。子供たちの声はない。すでに木々が生え、1本の小さな桜の樹がピンクの花びらを満開にしていた。それは、かつてそこにあったものの墓標のようにも見える。
 「90戸、住んでいましたよ。みんな、いなくなっちゃいました。私らだけです、もう」
 金吾爺は、核燃料サイクル施設の「再処理工場」が本格稼働するのを何とか阻止したいと訴えている。これ以上「おかしな施設」が増えないように願っている。だが工場はすでに試験運転中で、来年には本格的に稼働する予定だ。
 「あんたらは、来るのが遅い」と金吾爺は訪ねてきた人々に怒ったこともあったという。「今ごろやって来て、一緒にがんばって反対活動しましょうと言われても、もうみんないなくなってしまったんだよ。あんたらは来るのが遅い・・・」

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 外へ出る。サトザクラが満開だ。陽射しは強いけれど風は爽やかで、とても心地よい。北の春。何もかもが美しい。
 金吾爺の家のすぐ前には小さな神社がある。「○○村開祖の碑」と書かれた碑がある。<○○村>、それは、金吾爺がもっと若いときのこの土地の名だという。今の村名は、この近隣の6つの村が合併したときにつけられた名前だという。土地の名前を捨てたときに、この未来は決まっていたのか。

 かつて多くの人が暮らし、彼らが去り、そこに森が生まれた。その新緑の木立の中で僕は、深く息を吸う。とても気持ちがいい。緑は美しく、花々は芳しい。だが今、もしあの核燃料再処理工場が試験運転していれば、この空気の中に放射能が混ざっているかもしれない。<それ>は目に見えない。それによって広島・長崎を中心に大勢の人々が殺され、今も苦しんでいる、悲しんでいる。
 今日の午後、僕はそんな<村>にいた。(つづく)



<今回の旅のヘヴィ・ローテーション>
『BRICOLAGES』坂本龍一
『AIR'S NOTE』TAKAGI MASAKATSU
『SLOW DOWN SUMMER TIME』DATRI BEAN
『SOLO PIANO』GONZALES
『HOW MANY STORIES DO YOU READ ON MY FACE?』SENTI TOY

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by imai-eiichi | 2006-05-21 18:15

007【旅の始まり】

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 サマータイムの今、成田空港からのエア・カナダ4便は、正午にバンクーバーに到着する。夏、バンクーバー空港のイミグレーションは混雑している。
 冬の時期なら、飛行機は午前11時着で、イミグレーションはだいたい空いていて、だからお昼前にはもう空港から出ていることがほとんど。ところが今はイミグレーションでたっぷり待たされる。バンクーバーは夏の観光地なのだ。先日訪れたとき僕は、イミグレーションのカウンターに到達するまで90分もかかった。

 バンクーバー到着の午後、僕は必ずUBC人類学博物館を訪れる。
 UBC人類学博物館は、ブリティッシュ・コロンビア大学の敷地内に、1949年に設立されたミュージアム。北米の太平洋沿岸地域に暮らしてきた先住民たちの神話や伝説、儀式や祭礼、伝統的ライフスタイルの紹介をテーマにした(豊富な)コレクションで有名だ。数々の仮面や装飾品、トーテムポールのコレクションに、圧倒される。

 『スイッチ』『コヨーテ』の読者の方には今さら説明の必要もないと思うけれど、そもそもトーテムポールは、「必要とされる場所に建てられ、あとはそのままにされる」ことが良き運命とされる存在だ。そう、村の中、浜辺、森の中、どこであろうとトーテムポールは、「朽ちるがままにせよ」、それは先住民たちが永年ルールとしてきたことである。その考え方を尊重するなら、本来の土地から切り捨てられ運搬され、ミュージアムの中に飾られてしまっているトーテムポールは、「良き運命にあるもの」とは言えないのかもしれない。「これはもうトーテムポールでさえない」と言う人もいるかもしれない。
 ところが、UBC人類学博物館では、展示されているトーテムポールに対して、またその博物館そのものに対して、(僕は)ネガティブな印象を感じない。それはきっと、この博物館が「我々の伝統を正しく伝えよう」という先住民たち自身の強い意志とともにあるからだと思う。展示の仕方も素晴らしいと思うし、カナダ人建築家アーサー・エリクソンの「先住民の家をモチーフにした」という建物は、自然光が美しく、やさしい。(星野道夫さんが著書『森と氷河と鯨』で詳しく書かれているが)ハイダ族のアーティスト、ビル・リードによる素晴らしいトーテムポールが屋外にあり、屋内の中心には、リードのたぶん最も有名な作品「ワタリガラスと最初の人間たち」が常設展示されている。
 大きな博物館ではない。けれど、「居心地がとても良い」ため、僕は到着した日の午後のんびり、いつもここで過ごすのだ(もちろんそのときのスケジュール次第)。
 博物館は、岬の先端にひっそりと建っている。外へ出ると潮騒が聞こえ、海の匂いがする。カモメの鳴き声・・・。館内はいつも静かで和めるし、小中学生の課外授業が行われていてにぎやかなときには、それはそれで、そばに立ってガイドの話を聞いたりしているのも面白い。

 館内のスペースを使って、いろんなイベントが行われている。3月に行ったときには、若いファッション・デザイナーたちによるユニークなファッション・ショーが開催されていた。先日訪れたときには、チベット仏教の僧侶3人が、「砂曼荼羅」を描いていた。
 実際に砂曼荼羅を描いているのを見るのは初めてだった。

 3人の若い僧侶たちが床にしゃがみ込んで、銀色をした鋭利な筒状の道具に色のついた砂を入れ、下書きに沿って落としていく。その道具は先端が細くなっていて、だから砂の落ち方を微細に調整することができる(ケーキを作るときに生クリームなどを抽出するやり方にちょっと似ている)。その道具はシルバーか鈴でできているようだ。砂が入ったその道具を、何も入っていないもうひとつの同じ道具で擦り合わせることで(その微妙な振動を利用することで)砂をそーっと、少しずつ落としていく。このときのこすり合わる音が鈴の音のように響き、とても耳に残る。祈りの音のような、そんな感じもした。実際、彼らは何かを唱えながら描いているようでもあった。
 3人の上座にはチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世の写真が飾られている。この写真のダライ・ラマは、両手を合わせているポートレイトなのだが、可愛らしい笑顔で、なんだかすごくいい。厳しさよりも「まず笑顔、スマイル!」と言っているような感じなのだ。
 砂曼荼羅を描いているのを、数人が興味深げに見守っていたり写真を撮ったり。ワークショップも行われていて、実際に「試し描き」をしている白人たちもいる。そのひとりは僕に苦笑いしながら「難しいわ」と目で語った。

 若い僧侶のひとりが、間違いを犯したらしい。赤い色の砂を、本来落とすべきではない場所に落としまったようだ。たまたまその瞬間僕は彼のことをじぃっと見ていた。滑らかだった彼の動きが突然止まったかと思うと、「しまった!」という表情を見せたのを見逃さなかった。舌をぺろっと出したのだ。そう、僕らもやるように。そして次の瞬間、彼が顔を上げ、その目の先に僕の顔があり、僕らは視線を交わした。僕が笑って肩をすくめると、彼は「やべぇ、見られちゃった」というような恥ずかしそうな顔をしながら(漫画のように)後頭部をぽりぽりかく仕草を見せ、それから僕に苦笑いを見せてくれた。「ま、そういうことって、あるよね」と僕は心の中で言い、「うん、でも、あとで先輩に怒られちゃうかなぁ」と彼は心の中で言った・・・ような気がした。
 そんな瞬間。
 幸せな時間。
 このようにして、バンクーバー滞在が始まった。フットボールについて「ゲームへの入り方はとても重要だ」と語られるが、旅もまた、「その始まり方、旅への入り方」が重要だと僕は思う。


<今回の旅のヘヴィ・ローテーション>
『ACOUSTIC』COLDPLAY
『TRAVELING MILES』CASSANDRA WILSON
『THE INTERCONTINENTALS』BILL FRISELL
『BEST OF NATURAL CALAMITY 1991-1994』NATURAL CALAMITY
『HARMONIOUS』坂本美雨
by imai-eiichi | 2006-05-18 19:19

006【旅する音楽】

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 数日前、久しぶりの晴れ間が広がったウィークデイの午後、明治神宮へ行った。お詣りとか、そういうことではなく、単純に明治神宮のあの広大な森の中を歩くのが好きだから。シンプルで広々とした境内は立っているだけで気持ちがいいし(あそこでヨガをしたらすごく良さそう)。特に、境内に植えられている3本の大きな楠は大好きだ。あの楠には・・・なんて言えばいいのか・・・、すごく特別な気配を感じる。
 年に何度か明治神宮へ行く。特に4月から5月末にかけては足繁く通う。4月中頃、ゴールデンウィーク前のあの森の新緑はとてもきれいだ。5月の今ごろなら、すっかり緑濃くなった森があり、雨の翌日に行くと、湿った緑の匂いが広がっていて、まさに森林浴。
 足下で響く玉砂利の音や、森にたくさんいるカラスたちの鳴き声、すぐそばの空から響いてくるヘリコプターの音、森を越えて聞こえてくる車の音・・・、そういう「原宿の音」を聞きながら歩くのももちろんいいのだけれど、今回はiPodでお気に入りの音楽を聴きながら、のんびり散歩した。

 Auroraの新譜『Fjord』と、高木正勝の新譜『Air's Note』を交互に繰り返し聞きながら、ゆっくり、のんびり歩く。バング&オルフセンのヘッドフォンは、外の音を遮断して、流れてくる音楽だけを堪能させてくれる。心地よい音楽世界に入っていく。それは自分だけの世界で、ものすごく気持ちいい。それにしてもこの2枚、傑作。
 音楽って、素晴らしいな!と、心から思う時間。
 ここ数年、音楽の存在、そして音楽とのつきあい方がまたパーソナルなものになってきたように感じる。

 19、20歳の頃、世の中にCDが普及し始めた。だからもっと若いときにはレコードで音楽を聴いていた。今でも覚えているけれど、生まれて最初に自分のお金(親からもらっていたお小遣いを貯めたお金だ)で買ったレコードは、南佐織の「17才」だった。小学生のとき。
 当時、通りを挟んで向かいの家に、武蔵美に通う大学生が住んでいて、子供の僕にとても仲良くしてくれていた。彼の部屋には油絵の具の匂いが漂っていて、いろんなオブジェや彫刻の類が雑然と置かれていた。たぶん彼の作品だったのだろうと思う。昔から絵を描くのが好きだったから、よく彼の部屋に遊びに行った。彼はピカソやマチスの画集を見せてくれたし、油絵の具の使い方もちょっと教えてくれた。小学3年、4年生頃の話。
 1970年代で、学生運動はもう終わっていたと思うけれど、彼は長髪、ベルボトムのジーンズ、いつも煙草をぷかぷか吸っていた。
 彼の部屋で僕はボブ・ディランやマイルス・デイヴィス、ジミ・ヘンドリクス、キンクスなどと出逢った。幼い僕に彼はそういう音楽を聴くことを強くすすめ、大音量で「ライク・ア・ローリングストーン」を流し、子供の僕に向かって「やっぱりこういうのを聴かなくちゃダメだよ」とか言ったりした。
 彼は、小学5年生の僕に「リターン・トゥ・フォーエヴァー」のアルバムを授けると(今もそれは大切にとってある。もらった当時は理解不能)、学生結婚した恋人と九州だか沖縄だかのど田舎へ引っ越し、電気も通っていないような土地に自分で家を作って、畑を耕し自給自足的な生活を始めたのだが(今でいうロハス的ライフスタイルだ)、その後どうなったか残念ながら知らない。

 彼のおかげで中学生になる頃には僕は、どっぷりアメリカやイギリスのロックとジャズにのめり込んでいた。日本の音楽はほとんど聴かず、アルバイトのお金は洋楽のレコード代として消えていった。
 もっと後で、CDの時代になった。そして、音楽がもっと気軽に、身軽に、聴けるようになったのだが、なぜだろう、その頃から少しずつ、大好きだった音楽への愛が冷めていった。音楽とパーソナルな関係を築きにくくなっていった。コレクトするようにして持っていたレコードやCDを大量に処分し、世界の音楽の動向にもあまり注意を払わなくなった。いずれにせよ、その頃僕はバックパッカーもどきになっていて、数ヶ月バイトをしてお金が溜まると1年とか1年半とか、海外を旅していたから、レコードもCDも必要なくなったのだ。20代前半の話。

 そして今。
 音楽への愛と情熱は今、昔以上に僕の中にある。その愛は10年ほど前に突如復活し、ここ数年でものすごく深く濃くなった。そして今、音楽は再びとても個人的なものになった。
 それは、すべてiPodのおかげだと思う。あの白い容器(そしてiTunes)が僕に、音楽への愛を返してくれた。大袈裟? 決してそうは思わない。だって、きっと僕と同じように感じている人々が世の中にはけっこういるはずだから。「携帯型音楽プレイヤー」、それは身軽に、かつ親密に、音楽を楽しめる魔法の道具だ。もうカセットテープを裏返す必要はなく、CDを入れたり出したりする必要もない。そして、この存在によって僕らは誰でも、家にある音楽をすべて携帯できる。
 iPodや最新の携帯型音楽プレイヤーで音楽を聴くことは、新しいグラスに入れられた年代物の素晴らしい赤ワインを飲むような、そんな感じ(あくまで個人的に)。
 旅をするとき、飛行機の中で僕はずっとiPodで音楽を聴いている。8千曲以上入っている60GBタイプには、たくさんのプレイリストが作ってあって、それらを聴く。あるいはその時々で気に入っているアルバムをじっくり聴く。またはiPod Nanoで曲をシャッフルさせて聴く。
 街を歩きながら僕は聴く。車の中でも聴くし、家ではボーズのiPod用スピーカーシステムで聴く。原稿を書くときには、G4にヘッドフォンを繋いで、iTunesから聴きながら書く。旅先では、レンタカーでiPodを使うし、ホテルの部屋ではベッドサイドのラジオに飛ばして聴く。
 どのメイカーのものだっていい。たまたま僕はMacユーザーだったからiPodというだけだ(と言いつつ、デザインが好き)。
 音楽って素晴らしい! そんなわけで、少年みたいにそう思う。ボブ・ディランも唄っているようにーー「I was so much older then, I'm younger than that now! あの頃僕はもっと年老いていた。そして今、あの頃より僕はずっと若い!」(My Back Pages)ーー僕らはいつでも若くなれるのだ。前よりもずっと。音楽はその勇気をくれたりもする。

 5月の晴れた午後、明治神宮の森を、音楽と一緒に僕は歩いた。素晴らしい時間だった。まさにTraveling without moving、何処か遠くへ行くわけでもなく、旅をした。音楽って、すごい。


<今回の旅のヘヴィ・ローテーション>
『FJORD』THE AURORA
『AIR'S NOTE』TAKAGI MASAKATSU
『BACHELOR NO.2』AIMEE MANN
『LE PAS DU CHAT NOIR』ANOUAR BRAHEM
『AFTERLIFE』BLISS
by imai-eiichi | 2006-05-15 07:17

005【ワイキキ、アラワイ運河で死んだ男】

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 4月上旬にオアフ島へ行ったときのこと。
 到着した日、取材が終わり、その夜、ワイキキに住む友人といつもの店で待ち合わせた。ローカルビールとインポートビールの両方がタップで飲めて、フレッシュで美味しいアヒ・ポケ(ハワイ名物のマグロの漬け)があり、茹でたての枝豆(ハワイの枝豆は新潟のだだ茶豆と並ぶ美味しさ!)はいつも山盛りで、絶妙の味付けの焼きそばやチャーハン、名物のカルビー・・・、そこは毎晩ローカルでにぎわうバー&レストランだ。
 ビールで乾杯し、「今日、着いてすぐロングボードで海に入ったよ。1時間しかやってないのに、もう肩が上がらない。運動不足、情けない」と笑って言うと、友人は真剣な顔をしてこう言った。
 「ええっ? ダメだよ、海に入っちゃ。知らないの? 今、ワイキキの海は悪質なバクテリアで汚染されているんだよ!」

 ワイキキにはアラワイ運河という人工の川がある。夕暮れてからこの運河沿いの遊歩道を歩くと、川向こうの山肌にびっしりと並んだ家々に明かりが灯り、とてもきれいだ。
 ワイキキは、19世紀末頃まで、このアラワイ運河のところまで海だったという。
 ワイキキというのはハワイ語で「水が湧き出る場所」というような意味だが、コオラウ山脈から流れ落ち、湧き出る、きれいな水がワイキキにはたっぷりあり、だからかつてワイキキは一面タロイモ水田と椰子の森だったという(その風景の写真は、たとえばモアナ・サーフライダー・ホテルの小さなミュージアムでも見ることができる)。水田だから蚊がたくさんいて、その当時、欧米からやって来た裕福な白人観光客たちはたっぷり蚊に刺され、ヒドイ目にあったとか。
 とにかく、椰子の森は伐採され、水田だった場所は土で固められ、湾は埋め立てられた。カリフォルニアなどからきれいな白い砂が大量に運び入れられ人工のビーチが造成され、その新しい海辺に沿ってビルの森が造られていった。それが20世紀。アラワイ運河はだから、かつては「ここまで海だったんだよ」という名残でもある。100年とちょっと前、そこには浜があり、波が寄せていたのだ。
 とにかく、アラワイ運河の上流に捨てられたゴミがたまり(全体的にゴミは多いのだが)、折からの長雨でバクテリア(大腸菌だろうか)が異常発生した。この1月、2月、3月と、ハワイ諸島ではずっと天気が悪く、ワイキキでは50日間連続で雨を記録という、観測史上の新記録が更新されたという。それらのバクテリアは常日頃から海中や空気中にいて、一定量の太陽光線によって消滅するそうだが、日照時間の激減でこの春、異常に増殖・繁殖してしまったという。
 アラワイの流れはそのまま海へと繋がっているから、それで先の友人の、そして地元の人々の、「海が汚染されている」という話になった。

 ホノルルに滞在中、新聞の一面には、とある若い男の記事が毎日掲載され、ローカルTVのトップニュースも毎晩その男のことを熱心に伝えていた。
 ある深夜、その男は酔っぱらって(ケンカをしていたという目撃談もある)、アラワイ運河に落ちてしまった。もちろん、すぐに上がって、ずぶぬれのまま自宅へ帰った。酔っぱらったまま、寝た。
 彼は、足に深い傷を負っていたという。
 落ちた翌日、彼は高熱を出して倒れた。家族が医者へ連れて行くと、「すぐに足を切断しないと大変なことになる」と言われた。足が切られ、2日後にはもう一方の足も切断された。新聞やTVはこのニュースを追い続けた。家族の談話が紹介され、スポーツマンだったその男の友人たちがコメントを寄せた。米国本土から金目当ての弁護士たちがやって来て「ホノルル市とハワイ州を訴える」とクールに語った。
 アラワイに落ちてからわずか4日後、彼は死んだ。

 「ワイキキの海に入ると手足が溶ける」
 こんなとんでもない風説がホノルル中に飛び交い、実際、アラワイの流れが海へと出るカイルアの海は市によって閉鎖された。と言っても、ビーチへの入口脇に小さなボードが立てられただけで、悲しいかな、多くの日本人旅行者はそれに気づかず、だから毎日新聞には「何も知らずに海に入る日本人たち」というような記事が写真入りで掲載されていた(ボードには日本語の文字も書かれていたのだが、その看板自体が気づきにくいものだった)。
 そのバクテリアがどの程度危険なのか、ほんとうに命に関わるのか。市が調査したところ、アラワイ運河やカイルアの海には、通常の何千倍という数のそのバクテリアが繁殖していることが判明した。
 この間、ワイキキのほとんどのホテルでは、滞在客に対して積極的な説明をしなかったようだ(少なくとも、日本語のメッセージが各部屋に置かれる、といった話を僕は聞かなかったし、僕のホテルでもそういう対応はなかった)。
 それはそうだろう。時は4月上旬、もうすぐ日本ではゴールデンウィークだ。大勢の日本人にやって来てもらわないとハワイは困る。「危険なバクテリアが異常発生してワイキキの海には入れない」という噂が広まったら、それでツアーが続々キャンセルされたら、観光が最大資源であるハワイ州には大打撃だ。

 それにしても、と僕は思う。日本でこのことがまったくと言っていいほど話題にならなかったのはどうしてだろう? もしほんとうに海が危険だったら関係各所はどうするつもりだったのか? もし連休中にワイキキで遊んだ日本人の子供たちがバタバタとバクテリアに倒れていたら・・・。
 アラワイ運河に落ちて死んでしまった男のニュースは気持ち悪い。けれど、もっと気持ち悪いのは、こういったニュースがーー多くの日本人に関係のあるはずの出来事が、ほとんど日本で報道されなかった事実だ(もちろん、その後何も起きなかったのは良かった)。

 日本のメディアはTVもラジオも新聞も、基本的に政府やメジャー企業と一心同体に僕には映る。そもそもこの国は、市民を奴隷化する独裁主義行政&政府によって狡猾にコントロールされているし、それを批判すべきメディアはそんな政府のプロパガンダ組織でしかない(もちろんそうじゃないところもあり、人たちもいるだろう)。いずれにせよ、そういう意味でこの国はすぐそばにある社会主義国家と何ら変わりはないように感じる(あくまで個人的に)。
 だが、こういうことは今に始まったことじゃないのだろう。今、青森県六ヶ所村で起きている恐ろしい出来事がほんの小さくしか報道されないこともそうなのだろう。
 僕らが住む世界にはあらゆる場所に「ビッグ・ブラザー」たちの力が働いていると言ったら、僕は妄想主義者だろうか。いや、妄想じゃない。だからジョージ・クルーニーは『Good Night, Good Luck』を作らざるを得なかったのだろうし、ウォシャスキー兄弟はだから『V for Vendetta』をプロデュースしたのではないのか。
 旅をしていると、外から自分の故郷を見、結果、沸々と感じることがある。もちろん、自分の考え過ぎならそれでいいのだけれど。



<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『DANNY THE DOG』MASSIVE ATTACK
『KOI AU』MAKANA
『SAFETY IN NUMBERS』UMPHREY'S MCGEE
『ELIZABETHTOWN』ORIGINAL SOUNDTRACK
『PUNAHELE』RAY KANE
by imai-eiichi | 2006-05-13 21:29

004【ashes and snow, & The Nomadic Museum】

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 2月に滞在したロサンゼルスで、ずっと見たかったGregory Colbertの個展『ashes and snow』を見ることができた。
 昨年の初夏、やはり仕事でニューヨークに行ったとき、わずかなタイミングで見られなかった。NYに僕が到着したその日が、NY展の最終日。駆け込みたかったのだけれど、どうしてもその日に見に行く時間がとれなかったのだ。
 グレゴリー・コルバートの名前を聞いたことがある人はいるだろうし、彼の作品展示を見たという人もいるはずだ。2〜3年前、彼は来日して個展を開いている。けれど、そのときの個展は美術館でのものであって、現在彼が「The Nomadic Museum」で展開している大規模なエキシビションとは、かなりーーいや、まったく、と言った方が正確だろうーー異なっている。

 日本国内よりも欧米で著名な日本人建築家、シゲル・バンによる、紙パイプとコンテナを使ったユニークな美術館を、バンとコルバートは、「The Nomadic Museum=遊牧民たちの美術館」と名づけた。コルバートによる個展『ashes and snow』は、その美術館と一体化したもので、どちらが欠けても成立しない。
 コストがものすごく安価で、軽いから持ち運びが簡単、誰にでも組み立てることができ、再生可能、さらに燃やすことができるーーバンが考案・発明した「紙パイプを使った住居、建造物」は、すでに世界中で知られているが、最も有名なのは、阪神大震災直後の仮設住宅や、スマトラ沖大地震によって発生した津波で大きな被害を被ったアジア各地の浜辺に自ら作った仮設住宅などだろう。バンは常にマイノリティや弱者の住環境に関心を寄せているようだ。

 「The Nomadic Museum=遊牧民たちの美術館」は、その名前通り、遊牧する=旅する美術館である。前述したとおり昨年初夏にはNYにいた。船に乗って旅をし、この冬のLAにやって来ていたのだ。
 そう、この美術館そのものが「船」。「旅する美術館」なのだ。
 コルバートは、自分の作品展「ashes and snow」を開催するには、何か特別な形、スタイルが必要だと考えたのだろう。考えたというより、それは自然に(必然的に)閃いたのかもしれない。バンが設計した紙パイプを多用した巨大な倉庫は、無数のコンテナで形成されている。コンテナの中にコルバートの作品はしまわれ、コンテナ船ごと旅をするのだ。そして、到着した港に土地を借り、コンテナを今度は外壁として使用する。入っていた作品をその内側に展示する・・・というわけだ。
 一生懸命書いたけれど、やっぱりわかりにくい。興味を感じてもらえたなら、是非とも自分の目で見、身体で感じて欲しい。「The Nomad Museum」は今また海を旅している。LAの次の寄港地、つまり展覧会開催会場は、横浜である。

 僕は幸運なことに、LA滞在時にサンタモニカ・ピアに寄港・開催されていた「ashes and snow」を見ることができた。美術館はもちろん素晴らしいが、やはりコルバートによる作品群に圧倒された。
 彼のHPを見ることでその独特な世界を多少は感じてもらえると思うけれど(美しいHPだ)、大きな和紙にプリントされた写真群、ヴァージンシネマ六本木の一番大きなスクリーンよりも巨大なスクリーンに投影された映像、そして、イマジネーションを喚起する音楽・・・、それらはやはり、実際に見、体感して初めてわかるという類のものだと思う。好き嫌いは人それぞれだと思うけれど、僕には、実に心地よい空間・時間だった。「ああ、僕が言いたかったのはこれなんだ!」という共感、驚き。会ったことのない作者の意志と意図に、僕は100%同調した。美しいシンクロニシティを感じる展覧会だった。たぶん、僕と同じようにそんなシンクロニシティを感じる人が大勢いる「場」だったはずだ。横浜へこの「遊牧民の船」がやって来たとき、是非とも多くの人たちに見に行って欲しいと願う。僕は、現地で買ってきた展覧会用の写真集やDVD映像を知人・友人たちに見せたりして、「絶対行くべき!」と今から熱く語っている(売られている写真集やポストカード、CD、DVDがどれも素晴らしい。内容はもちろん、そのデザイン・装丁が)。

 我々は何処から来て、何処へ行くのか。我々とは何か。
 コルバートは、インドやアフリカの美しい人々を旅人に、そんな問いへの彼自身の思いを想像力豊かに、詩情豊かに、物語性豊かに、表現している。その世界では、無数のゾウやクジラたち、鷲や鳥やヒョウたちが、瞑想している。ヨガの極致のように、見ている者たちもそんな瞑想世界へ誘われるだろう。


<今回の旅のヘヴィ・ローテーション>
『LET ME SEE THE FISH』SIGUR ROS
『FAKE』THE EMIGRANTS
『LIFE IS WATER』SIM REDMOND BAND
『PLEASE SMILE MY NOISE BLEED』MUM
『IN THE REINS』CALEXICO & IRON AND WINE
by imai-eiichi | 2006-05-06 16:31

003【Salt Spring Island その2】

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 ソルトスプリング島へ行くには、大きく分けて2つの方法がある。
 ひとつは、バンクーバーから船で行くこと。BCフェリーという船で、レンタカーごと乗り込んで海を渡る。直行便なら2時間ほど、2つか3つの島々に寄港しながらの便でも3時間ほどで到着する。もうひとつの行き方は、バンクーバーから水上飛行機で飛んでいくという方法。こちらの良さは、早いこと、そして空から多島海の眺めを楽しめる。
 もちろん、値段はフェリーの方がずっと安いのだが、冬のオフシーズンの時期なら、フェリーも飛行機もさほど変わらないことを今回の旅で知った。もし、晴れた冬の日に島へ行くなら、思い切って水上飛行機に乗るのも楽しそうだ。
 成田からニューヨークへ、あるいはパリやロンドンへ、ジャンボに14時間も閉じこめられるのは苦痛でしかないけれど、8人乗りの水上飛行機とか4人乗りの双発機とか、2人しか乗れないプロペラ機とか、そういう小さなエンジンの飛行機に乗るのは楽しい。僕はグライダーが大好きで、なぜならエンジンの音がまったくしないし、風だけを頼りに飛ぶこの究極の飛行機は、鳥の世界を味わえるから。操縦士と前後に座って2人きりで乗るグライダーでは、ほんとうに風を感じる。風が「見える」気さえする。楽しい。「ああ、鳥って、こういうことか」と思う。
 小さな飛行機だと、操縦士とお喋りしながら飛ぶこともあるし、操縦席の隣に座ることもあり、そういうときには眺めはもちろん、計器類を見ているだけでわくわくする。操縦士がどういう人かなんとなくわかるし、そうなるともう、「移動の手段」というより、その時間が「旅の楽しさ」になる。人と人、という関係が出てきて、もちろんそれを「億劫だな」と感じることもあるだろうけれど、「なぜ彼が操縦士になったか、彼はこの小さな飛行機の何が好きなのか、彼が空に感じるものは何か……」など、尽きない興味に貪欲な耳になり、空の上は即席のインタビューの場となる。「人の顔」がきちんと見えるというのは、やはり興味深いのだ。

 今回ソルトスプリング島で滞在していた「Wisteria」というB&Bのオーナーは、ベヴァリーというニューヨークから移住してきた女性で(詳細は前回のブログを参照)、彼女はかつて、ウェスティン・ニューヨークのパティシエだったそうだ。この素晴らしい居心地のB&Bにはいろんな楽しみがあるのだが、そのひとつにベヴァリーが作る朝食がある。
 ベッド&ブレックファーストだから、朝食は宿のテーマだ。日本の旅館のように、冷えた干し魚が海苔や生卵と一緒に食卓に並んでいる、ということはない。温かく調理されたできたてのプレートが並ぶ。たっぷりのコーヒーとフレッシュジュース。だから「どこどこのB&Bは、部屋は小さいけど朝食は素晴らしいんだ」というような情報が飛び交う。もちろん日本の宿にも「ご飯は今イチだけど、あそこの湯は素晴らしいよ」というような会話もあるけれど。
 「もし7日間ここに泊まったら、7回、違った朝食を出すわ」とベヴァリーは胸をはった。ぜひ7回食べてみたい。ベヴァリーの朝食は、ほんとうに美味しく、滋味だった。ソルトスプリング島の土や草の存在が感じられて、太陽がいっぱい詰まっていて、そしてもちろん、ベヴァリーの顔が見えるプレートばかりだった。シンプルだが、「ベヴァリーの味」がそこにあった。滋味、そして滋養。

 今回の滞在中、島のオーガニックファームを取材する機会があった。ソルトスプリング島名物のサタデーマーケットには、たくさんの「オーガニックな野菜、果物」が並ぶが、そこに野菜を出しているファーマーのひとり、チャーリー・イーグルの自宅とファームを訪ねた。
 カリフォルニアのユウリカに生まれ育ったチャーリーはアメリカ人で(今はカナダとの二重国籍)、もろヒッピー世代。1960年代末、サンフランシスコで学生時代を過ごし、バークレイ大学をドロップアウトしている。80年代後半に何度かソルトスプリング島を訪れ、その後、祖父母が残してくれた遺産で彼はソルトスプリング島に土地を購入した。元来農業とは無縁。ファーマーには「本を読んだり、失敗から学んでなったんだ」と笑う。
 1992年から彼はオーガニックを始めた。
 野菜・果物はもちろん、飲み物や肉類まで、今ではとにかく「オーガニック!」で有名なソルトスプリング島だが、その当時、島でオーガニックファームを営んでいるのは5つの農家だけだったという。「今では50を超えるオーガニックファームがあるよ」とチャーリー。
 「もともとオレは、自分の家族にオーガニックのきちんとしたものを食べてほしいと思って始めたんだ。最初はだから、自給自足というか、自分たちの分だけ。そのうち、市場で売ったり、いくつかの店や宿が売って欲しいと言ってきて、それで農場を少しずつ大きくしていった。でも、大変だよ。4人の家族のためにオーガニックをやるのと、年間何百人のためにオーガニックの野菜を作るのとでは、全然違う。単純に労力がかかる。人がたくさん必要になるんだ」
 なぜソルトスプリング島だったのか。
 カリフォルニアでさえ車のダッシュボードに銃を積んでいる人がたくさんいる。チャーリーはそういう「生活の中にある圧倒的なヴァイオレンス」を見、感じるのが嫌で、カナダへ移住してきたという。顔の見えない多くの市民が銃を持ち、また顔を知っている隣人が銃を持っている国、それがアメリカ合州国だ(規制している州もある)。

 パリやヒロの朝市でも、農家の人が自分で屋台を出して土から掘り起こしたばかりの野菜や根菜を売っている。お喋りして買うから、「ああ、この人がやっているんだな」と思うことになる。「誰に何のために自分はお金を払うのか」がはっきりわかるし、そこにはだから信頼関係がなくてはならず、もちろんそれが「億劫」であることもあるけれど、むしろ楽しむべきことなのだと最近僕は考えるようになった。2人乗りのプロペラ機で操縦士の人生に耳を傾けるように。
 小さな世界では顔が見える。こちらも顔を見せる。「あなたはこれをこうやって育てたんですね。じゃあ僕はこれをこのように調理して食べましょう」というキャッチボールがある。まず言葉があり、笑顔があり、あうんの呼吸があり、信頼関係が生まれる。(…そう思いたい)
 ソルトスプリング島には信号がひとつもない。トラベル・コンパニオンはそれを「島民はあうんの呼吸で生きているんだね」と表現した。そういう場所に生きたい。


<今回の旅のヘヴィ・ローテーション>
『A FOREIGN SOUND』CAETANO VELOSO
『HYMNS OF THE 49TH PARALLEL』K.D. LANG
『THE INTERCONTINENTALS』BILL FRISELL
『FJORD』THE AURORA
『THE SEPTEMBER SESSIONS』SOUNDTRACK
by imai-eiichi | 2006-05-01 10:17




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