今井栄一「トラベリング・カヌー」:SWITCH ON Excite(スイッチ・オン・エキサイト)
2007-11-05T09:56:36+09:00
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054【ジョディ・フォスター、THE BRAVE ONE、タクシードライバー】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/7665840/
2007-11-04T22:48:00+09:00
2007-11-05T09:56:36+09:00
2007-11-04T22:48:10+09:00
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ジョディ・フォスターが主演、製作も兼ねた映画『THE BRAVE ONE(ブレイブワン)』を見終わった直後、瞬時に思ったのは、映画『タクシードライバー』のことだった。
『タクシードライバー』と似ているな、共通しているな、僕はそう思ったのだ。
もちろん、2つの映画はまったく違う。すぐに見える共通点を挙げるとするなら、ジョディ・フォスターがどちらにも出ていること、舞台がニューヨークであること、それくらいだろうか。
でも、やっぱり2つはとても似ているのだ。ニューヨークという街を「装置」として使いながらアメリカ社会全体の「今の空気」を描いた点や、特にそのエンディングが、酷似している。何より、この2つの映画はどちらも、「FEAR(恐れ、恐怖)」というものをテーマにしているのだ。
『ブレイブワン』は、僕ら誰しもの心の中に潜んでいるFEARについての映画だ。
この脚本の映画化を一番強く望み、製作まで担当し、「人の書いた脚本の映画は撮らない」と言い切るニール・ジョーダンを説得して監督させてまで完成させた、ジョディ・フォスター。
10月終わりに彼女が来日した際、短い時間だったけれどインタビューする機会があり、僕は「気を悪くしないで応えてくれるといいな」と思いながら、フォスター自身にそのことを問うてみた。
「この映画を見終わったとき、即座に思ったのは『タクシードライバー』のことなんです。あの映画へのオマージュということはできないと思いますが、『ブレイブワン』と『タクシードライバー』は、どこか似ていると思いませんか?」
それは質問というより、僕の個人的な感想を述べたに過ぎないわけだから、フォスターにその気がなければ何も応える必要はなかっただろう。でも彼女はその質問に対しても同じように笑顔を浮かべながら丁寧に、ニューヨーカーを思わせる早口で、こう答えてくれた。
「それはとても面白い意見だと思うわ。そして、ある意味とっても正しい見方と言えるわね。私も、そう思う。2つの映画は似ているってね。でも同時に、2つの映画は全然違うってことも言えるわよね。
どちらも舞台はニューヨークだけれど、『タクシードライバー』は1970年代初め。『ブレイブワン』は21世紀の現在。向こうは主演が男で、こちらは女。デニーロが演じたトラヴィスという男はある種の野蛮人。私が演じたエリカは、知的な、きちんと学業を終えたタイプ。
『タクシードライバー』の時代のニューヨークは、汚くて、ジャンキーがたくさんいて、犯罪都市そのものだった。『ブレイブワン』のニューヨークは、すっかりきれいになって、バブリーな高層マンションが林立するモダンな都市。
デニーロ演じるトラヴィスは、ベトナム戦争帰りの元兵士。彼は、ベトナムで結局何も成し遂げられなかった。アメリカは戦争に負けたばかりか、その戦争がそもそも間違っていたという事実を突きつけられていた。トラヴィスは、ベトナムで何もできなかった自分に対してイライラしていて、だから、ニューヨークという街で、自分は何かをするんだ、この街を正しい街にしてやる、というようなおかしな野望を抱くのね。それが、ああいう狂気の行動につながっていった。
一方『ブレイブワン』のニューヨークは、9・11後の世界。ベトナムとは違うけれど、実はこちらも戦争後の世界なのよ。エリカは銃を手にして街を彷徨い、悪人を撃つ。それは絶対許されるべき行為じゃないけれど、なるほど、こう見ていくと、トラヴィスとエリカと、2人の考え方や行動は似ているのよね。
何よりもこの2つの映画が似ているところは、FEAR=恐れ、恐怖というものを描いているところだと思う。『タクシードライバー』でも『ブレイブワン』でも、ニューヨークという街を舞台にして、人々の心に潜むFEARというものを表現しているわけね。このFEARというのはとってもやっかいなものよ。すごく強くて、大きくて、消えない。時に攻撃的にもなれるし、時に人の心を弱めもする。FEARがやっかいである一番の理由は、それが決して“目に見えないもの”だからよ。FEARはいつでもそこにある。私たちの中に、街の中に、誰でも持っているの。漂っているわ。そこここに。確実に。でも、それは決して目に見えないから、追い払ったり、どこかへ投げ飛ばしたり、壊すことができない。消えないものなのよ、それは。
今のアメリカ社会は、そんなFEARによって覆われていると思うわ。アメリカ人全体が大きな、目に見えない、どろっとしたFEARに包まれてしまっている。そのFEARをやっつける道具として、銃や爆弾が選ばれている。そんなものでFEARが消えるわけがないのに。これは、今のアメリカ社会の大きな、深刻な、問題だと思う」
なんて正直な、そして誠実な女性だろう、僕は心からそう思いながらその言葉を聞いていた。僕自身が思っていたこととまったく同じ意見であることはもちろん嬉しい驚きだったけれど、そんなことより彼女が、アメリカ人であり、現在のアメリカの映画界を代表する女優である彼女が、そのような意見をしっかり持つだけでなく、きっちり公の場で(インタビューという仕事の場所で)発言するその姿勢、態度、意志、そして、勇気。
六本木のホテルの一室に設えられたインタビュー・ルーム。僕の前に座っていたのは、台座に載った宝石のようなグリーンに染まった瞳を持った、ショートカットで明るい栗色の髪の毛をした、美しい、そして実に可愛い女性であった。
ジョディ・フォスターは、アメリカ人として、今のアメリカ社会のことをきちんと理解し、時に客観的に、時に主観的にその世の中を見、そしてこのような映画を作ることで「発言」しているのだ。たとえ見ていても発言しない人は多い。発言するのは勇気がいることだからだ。
『ブレイブワン』は素晴らしい映画だと僕は思う。暗いとか、重いとか、エンディングがどうこう・・・、もちろん批判されるべき箇所はあるのだろうけれど、そんなことは小事を見て大事を見失うことだと思う。
これはいわゆる「グレイゾーン」について描いた、メッセージした映画だとも言えるだろう。
ジョディ・フォスター演じるエリカは、ニューヨークのAMラジオ局のDJ。ある事件をきっかけに、エリカは拳銃を購入し、自分の銃で、街の犯罪者を殺害していく。そう、「処刑人」である。
ジョディ・フォスターは、はっきりとこう言った。
「彼女の行動は決して許されるものではない。明らかに間違っている。でも、たとえば25歳の警察官が拳銃を持っていても犯罪にはならないけれど、25歳の会社員が拳銃を持っていたら犯罪になる。それっておかしいことだと思わない? なぜ警察官はよくて、他の人はだめなのかしら? 拳銃とはパワーよ。パワーを持つと人間は変わるの。拳銃はまた、持っている人を生かし、相手を殺すもの。あなたが拳銃を持てばあなたは生き残る、そしてあなたの前にいる人は死ぬことになる。それが拳銃というものよ」
拳銃で人を撃つことは、たとえその相手が犯罪者であったとしても、「決して正しいことではない」と彼女は言う。けれど一方で、映画の中でエリカという女性がなぜそのような行動に出なければならなかったのか、「それを見ること、考えることが大切なんじゃないかしら」とフォスターは言う。
「私たちの世界は、白か黒かという世界じゃないわ。私たちは実に曖昧な世界に生きている。グレイゾーンの中に私たちはいるの。そんなグレイゾーンにいるとき、大切になるのは私たち自身のモラルだと思う。そういう意味ではこの映画は、人のモラルについて考えた映画だと言えるんじゃないかな」
ジョディ・フォスターはそう言った。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『ENCANTO』MARCOS VINISIUS
『THE BRAVE ONE』DARIO MARIANELLI
『GUERO』BECK
『GO GO SMEAR THE POISON IVY』MUM
『ANGELS OF THE UNIVERSE』HILMAR ORN HILMARSSON
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053【バンクーバー、イラン、移民の街で】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/7571119/
2007-10-13T18:22:48+09:00
2007-10-13T18:19:15+09:00
2007-10-13T18:19:15+09:00
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バンクーバーのダウンタウンから空港へ向かうタクシーの運転手は、イランからの移民だった。
とてもお喋りな男で、だからイタリア人かなと思ったりもしたのだけど、顔つきがちょっと違う。
「どこから来たの?」ときいてみたら、「イラン!(英語では、i-ran=アイランという発音になる)」と元気いっぱいの答が返ってきた。たぶん僕よりも若いだろう。
その答は、そのときの僕にとってちょっぴりシンクロニシティというか、奇妙な感じだった。なぜかと言うと、ちょうど5日ほど前、ソルトスプリング島から水上飛行機でバンクーバーへ戻ってきたときのこと、港からダウンタウンへ向かうタクシーの運転手が、やはりお喋りなイラン人だったからだ。
東京にはイラクやイランからの移民が多いと聞くけれど、残念ながら僕はこれまで会ったことがないし、僕の周囲にはイラン人の知人友人は皆無。
渋谷や新宿の街角で、「中東系だな」と思う人たちを見かけることは多い。でも、パッと見ただけではその人がイラン人なのかイラク人なのかアフガニスタン人なのか、どうもよくわからないものだ。
よく見れば、イラン、イラク、アフガニスタンなど、それぞれの顔や肌の色はずいぶん違う。
イラン人はペルシャ人であり、イラク人はアラブ人、また、同じアラブ人の中でもいくつも民族があって、微妙に顔つきは違うのだ。アフリカ人はひとつでない。ナイジェリア人というのもひとつではない。ナイジェリアという国境は欧米の白人社会が勝手に引いた線であり、勝手に名づけた領土だ。ナイジェリアには、たとえばイボ人、ヨルバ人、フラニ人と、もともとの民族がいて、それぞれの領土が、ほんとうは、あった。
この1週間でたまたま僕は、人生で初めてイラン人と言葉を交わし、さらに人生で二度目にイラン人と言葉を交わした、ということになる。しかも、どちらもタクシーの中で。
「バンクーバーは移民が多いのは知っているけれど、イランからの移民も多いの?」と僕は運転手にきいてみた。
「何人くらいいるかっていうのは、わからないけど、けっこういると思うよ」
実は5日くらい前に乗ったタクシーの運転手もイラン人だったんだ、と僕が言うと、彼は「名前、覚えてる?」ときいてきたけれど、残念ながら覚えていない(名前を僕は確かにきいたのだ、そのときに)。
「イラン人タウンみたいな場所があるの?」と僕はきいた。
「そういうのはないね。でも、みんなで集まるパブなんかはあるよ」
「みんなでフットボールを見たり?」
「そう、チャンピオンズリーグ! 俺はリバプールのファンなんだ」
「僕はアーセナル!」
僕らは笑って、フットボール情報をしばし交換しつつ、ワールドカップやアジアカップではお互いライバルになる日本代表とイラン代表の話で盛り上がった。「日本は一番強い。イランはダメ」と彼は言ったけれど、決してそんなことはない。先のアジアカップでは力を発揮できなかったけれど、今、オーストラリアをのぞけば「イランこそがアジア最強」と評するフットボール評論家が多いのだ。
「あれ? イランって、お酒は禁止なんじゃないの? パブでビールとか飲んで、いいの?」と、ふと気づいて僕はきいた。
「ここはイランじゃないからね」と彼は当然の顔。
確かに。「じゃあ、向こうではぜんぜん飲まないわけ?」
「いや、飲むよ」と、さらり。
「飲んでいいわけ?」
「いや、オフィシャルにはダメ」
僕は笑った。「隠れて飲むんだね?」
「そう。アンダーグラウンドな場所はいっぱいあってさ、暗黙の了解ってやつだよ。あと、自宅で飲めば誰も迷惑しない。警察も、目につかない限りは何も言わないんだ。イランはね、他のイスラムの国ほど戒律に厳しくないんだよ」
「サウジみたいに」
「あそこは大変! 酒なんて絶対無理。捕まっちゃうからね。イランは、自由な国なんだよ」
博識な彼は、そしてこんな話を聞かせてくれた。ワインに関する話だ。
「俺たちの国は、酒の歴史が古いんだ。もともとワインが生まれたのは、俺たちの国なんだからな」と彼は言った。イランという国家は新しいけれど、確かにペルシャは古い、とっても古い国だ。
「シラーズってワイン、知ってるだろ? 有名だよな。あのワインは、イランが起源なんだって、知ってた? イランにシラーズって街があってね、そこで大昔にワインが作られていたんだ。紀元前の話だよ、ずーっと昔々のことさ。イタリアやフランスなんて国がまだぜんぜん存在しない頃だ」
「君たちの国の方が、歴史的にはずっと古いもんね」と僕は少し彼の鼻を高くしてあげた。インタビュアーの心得だ。相手を気持ちよくして、喋らせる(警察官や検事はまったく逆。相手を泣かせたり怒らせたり嫌な気持ちにさせた挙げ句、疲労困憊させて無理やり偽や嘘の供述をとる)。
「その通り。俺たちの国は古い、古い国なんだ。それで、シラーズという街では葡萄が栽培され、ずっとワインを作っていた。昔々からね。それからずーっと後で、フランスのローヌ地方で美味しいワインが作られるわけだけど、そのワインの種が、イランのシラーズから持っていった種だったってわけ。それで、ワイン通で知的なフランス人は、俺たちイランの街とオリジナリティに敬意を表して、そのワインの品種にシラーズって名前をつけたんだよ」
「それ、ほんと?」
「マジさ。すっげぇマジ。俺はこう見えても読書家でね。いろんなことを調べて知っているんだ。自分の国のこと、自分たちのこと、すっげぇ勉強したからね」
「そんなに自分の国が好きなのに、カナダにいるのは、なぜだい?」
「こっちには、なーんでもあるだろ。仕事もあるし」
「可愛い女の子もいっぱいいるし」と僕は言ってみた。
「イランの女性は美人だよ。でも、こっちの女性の方が話しかけやすいね。すぐデートできちゃう」
「君は独身かい?」と僕はきいた。
「もちろん! 俺は自由が好きなんだ。何ものにも縛られたくないもんね」
彼はもっともっといろんな話をしたそうだったし、僕の方もイラン人の彼ともっと知り合いたかったけれど、残念ながらそうこうしているうちに車は空港に到着した。バンクーバー市内から空港までは車でわずか20分ほどなのだ。とても便利である。成田空港とは大違いだ(あれが東京の国際空港なんて、まったく詐欺みたいじゃないか)。
僕はバンクーバー空港のドメスティック・ターミナルに入り、ペンティクトンまでの国内線にチェックインした。
ペンティクトンは、カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州オカナガン・トンプソン地方の街。もちろん、耳にするのも行くのも初めて。
出発まで時間がたっぷりあるので、僕は空港内の書店に入り、一昨日までいたソルトスプリング島の大きな地図をひとつ買った。地図を見るのが僕は大好きだ。東京の自分の車にはもちろんカーナビの類はついていない。それは僕の車がオンボロだし小さいからだけれど、いずれにせよ僕は自分で地図を見て道を探しながら走るのが好きなのだ。
書店で何気なく新刊のベストセラーが並んでいる書棚を眺めていたら、そのトップ1の場所に置かれているちょっと大きめなペーパーバックが目をひいた。赤を基調にしたカラフルな表紙、鳥のイラストがとても可愛い。手に取ってみるとそれは、レナード・コーエンの最新散文集だった。
結局それも購入し、もうやることもないからとゲートへ向かって歩いていった。
ペンティクトン行きのゲートはメインターミナルからかなり離れた、一番片隅に位置するゲートだった。そのゲートのちょっと手前に、「ABSOLUTE SPA」という店があった。出発待ちの時間に気軽に受けられるスパやマッサージ、ネイルケアの店だ。店といっても、空港内なので仕切があるわけではなく、まったくのオープン。
時計を見ると、出発時間までにはまだたっぷり1時間以上ある。僕は、30分ほフット・マッサージを受けることにした。
白衣のような制服を着た女性が2人。ひとりは金髪の白人で、もうひとりも白人だけれど中近東系、黒髪の女性。
「30分ほどフット・マッサージをお願いしたんですが」と僕が申し出ると、金髪の女性が、「あなたはラッキーよ。彼女のフット・マッサージは最高なんだから!」と言って、黒髪の女性が僕の担当であることを告げた。
ゆったりとしたソファには電動マッサージ機能がついていて、背中をぐりぐりされながら僕の足のマッサージははじまった。よく見ると、彼女はとても美しい女性だった。薄いターコイズブルーの瞳が実にセクシーだ。
彼女はお喋りな女性だった。
僕は彼女に、「どこから来たんですか?」ときいてみた。
東京にいると、というか、日本にいると、「どこから来たのか」という質問は都道府県をきいているに過ぎないけれど、バンクーバーにしろパリにしろロンドンにしろ、そういった世界の都市では、「どこから来たのか」という質問は、「あなたの生まれた国はどこか」ということを意味している。
数多の人種と民族が暮らす都市では、「その人が何人で、どんな宗教なのか、どんな歴史の中に生きてきたか、どんな戦争を経験してきたか」ということが、時として重要な意味を持ってくる。
たとえば、ニューヨークで友人の家に招かれたとしよう。もしその人がイスラム教徒であるなら、招待のお礼にとワインを持っていくことはできない(イスラムは酒は禁止。先ほどのイラン人タクシー運転手の話は別)。また、誰かの家でパーティを開くとして、もしやって来るゲストの中にインド系の人がいたら、ホストは牛肉の料理は出さないようにするだろう(インドでは牛は神聖なる動物)。
こういった発想というか、当たり前のこと、考え方、あるいは習慣になっているインターナショナルな暗黙のルールが、東京には欠如していると思う。もちろん、それで悪いとは言わない。ただ、東京がいかに「国際都市ではないか」ということは言えるだろう。どこまでいっても東京は極東の田舎街に過ぎないのだ。外資はたくさん入っているし、世界的なブティックや高層ビルは林立しているけれど、それは容器が立派になっているだけで、中身は空っぽに等しい。見せかけだけ。だから、東京(日本)にはそれなりの文明はあるかもしれないけれど、文化はまったく見えない。と、僕は思っている。
僕が「どこから来たの?」とマッサージを施してくれている女性にきくと、驚いたことに彼女はこう言った。「イランからよ」。
また、イラン人。
なんだか、偶然にしては、できすぎているみたいだ。こういうことがあると、僕はどうしても映画『トゥルーマンショー』を思い出してしまう。被害者意識が強いのだ。
僕は彼女に、ここ5日間で僕がたまたま出会ってきたイラン人の話をした。出会った、というほどのことでもないのだけれど。
・・・「その2人のタクシー・ドライバー、そして、君が3人目。これまでイラン人と接点がまったくなかったのに、なんだか奇妙な偶然だと思うんだ・・・」
「きっと、イランがあなたを呼んでいるのよ」と彼女は僕に言った。そのときの彼女の顔に浮かんでいた不思議な笑顔はどんな意味だったのだろう。魔女のような(と言っても魔女に出会ったことはない)、僕に魔法をかけたみたいなスマイルだった。
「イランは美しい国よ。美しい女性たちがたくさんいるわ」
「きっとそうでしょうね。ところで、あなたの名前は?」
「マジューニア」
「マジューニア・・・。美しい名前だ」
「ありがとう」
マッサージは終わり、僕はお礼を言って立ち上がった。
「次の旅のときも、ぜひ、また寄って」とマジューニアは言った。そして、またあのスマイル。黒髪と薄い青の瞳に吸い込まれそうだ。
イラン、イランか・・・、僕はゲートへ向かって歩きながら考えていた。
知らない国、行ったことがない場所は無数にある。この世界は、僕らが知らないことで充ち満ちている。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『ENCANTO』MARCOS VINISIUS
『AERIAL VIEW OF MODEL』GLIM
『GUERO』BECK
『KHALI』ALEJANDRO FRANOV
『THE ESSENTIAL LEONARD COHEN』LEONARD COHEN
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052【ブリティッシュ・コロンビア、モロカイ島、グレートバリアリーフ、ハワイ島】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/7543296/
2007-10-07T12:50:37+09:00
2007-10-07T12:50:37+09:00
2007-10-07T12:50:37+09:00
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10月。
もうすっかり忘れてしまいそうだけれど、今年の夏は暑かった。いや、「熱かった」と書くべきか。東京の都心に暮らし活動していると、ときどき路上で息苦しいほどの熱気に見舞われたりした。
新聞やテレビに表示されるウエザーリポートの最高気温とは、どこかの芝生の上に置かれた百葉箱での気温だから、それは渋谷ハチ公前交差点での気温とはずいぶん違うだろうと思う。もしテレビで「都心の最高気温が37度」とあれば、ハチ公前交差点の午後2時ちょうどの気温は、きっと、いや間違いなく、45度をゆうに超えていたのではないか。
とにかくそれくらい熱かったはずなのに、10月の今日、もうそんな日々のことが遠くなっている。
10月7日の朝。とても爽やか。秋の陽射しが眩しい。
もう何年も前の話。
当時、ときどきご飯を食べたりバーで飲んだりしていた仲良しの女性がこう言っていた。
「人間って、何事にもすぐ慣れちゃう動物だから」
そのとき彼女が言っていたのは彼女自身のことだったのだけれど、「誰でも同じように」という意味でもあると思う。
彼女はその頃ちょうど離婚した直後で、つまり僕と彼女はひとつの恋と結婚と破局についてその夜、延々話していたわけだ。アイリッシュ・ビールに始まり、イタリアン・ワインへと移行し、真夜中を過ぎてからはモヒートやらマルガリータやら強めのカクテルを飲み・・・。
結論として、彼女は自分の今(その時、という意味)について、ただひと言、そう表現したわけだ。「なんでも慣れちゃうものだから」と。
「恋も最初はエキサイティングだけれど、すぐに慣れる。だから次の興奮を求めて結婚する。その生活にもすぐ慣れる。それで問題をわざと作って離婚する」というのが、彼女の理論。その時の。今は変わっているかもしれない。もうずっと会っていないから確かめられないけれど。
確かに僕らは慣れてしまう。なぜなら嘘つきで下品でどんな殺人者よりも悪人である政治家と官僚しか存在しないこの国の生活にすっかり慣れ親しんでいるし、原爆を落とされた上に地震多発地帯であるにも関わらず無数の原発があるという非常に危険な状況にも、慣れてしまっている。慣れ、というよりも、むしろそれは、無関心、ということかも。無知と傲慢と無関心。
夏の「熱さ」にも、慣れてしまう日は近いのだろう。温暖化にも慣れてしまうし、30年後には僕らは、ポーラーベアの消えた世界にも慣れているだろうか(このまま温暖化が進むとポーラーベアは30年後に消滅しているという。遅くとも30年後、という意味で。事実はもっと早いのかもしれない)。
毎年、毎年、少しずつ熱くなっているように感じる日本の夏。その猛暑にもやがて慣れ、猛暑という言葉すら使わなくなる日がやって来るのだ。気温30度くらいが通常で、35度くらいでやっと「今日は暑いね」と人々が言い合い、40度を超えた日には「いやぁ、今日はけっこう暑い1日だったねぇ」などと言って冷たいビールをごくごくっと飲む。
この夏、北極海では、日本列島を全部合わせた面積の3倍以上の氷が1か月で溶けてしまったそうだ。
そんなこの夏は・・・ブリティッシュ・コロンビア州のオカナガン地方を車で旅し、ハワイのモロカイ島に長く滞在し、その後、熱い熱い東京の日々があり、オーストラリア、グレートバリアリーフの海を船と双発機で旅した。そして数日前、ホノルル経由でハワイ島から帰ってきたところ。
今、日曜日の朝で、東京の自室でMarcos Viniciusのギターを聞いていたらふつふつとまた旅のことを書こうと思い、これをやっと書いている。やれやれ。「書かない」ことにも人間はすぐ慣れてしまうのだ。たとえそれが仕事であっても! 書く筋肉がすっかり落ちてしまった、書く体力が落ちてしまった。直さないといけない。運動しよう、Macに向かって指を動かさなければ。このMacパワーブックG4は誰よりも僕の10本の指のことを熟知している。きっと僕の思考回路や「次に何を書こうとしているのか」ということまで何もかもコイツは知っている。いろんな運動があり、そこからいろんな思考が生まれる。僕の運動は書くことなのだから、やらなければ。
10月、秋の日曜日の朝。なんだか、何もかもが懐かしい。だから、少しずつ、懐かしいことを書こう。懐かしく、温かく、忘れたくないものたちのことを。慣れによって忘れてしまったり、いつの間にか過ぎ去ることのないように。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『ENCANTO』MARCOS VINISIUS
『LOS TRES ENTILERROS DE MELQUIADES ESTRAD』MARCO BELTRAMI
『GUERO』BECK
『天然コケッコー』レイ・ハラカミ
『AIR’S NOTE』TAKAGI MASAKATSU
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051【ソルトスプリング島、雨の日曜日、ベヴァリーとの散歩】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6962335/
2007-06-10T18:27:09+09:00
2007-06-10T18:27:09+09:00
2007-06-10T18:27:09+09:00
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2匹の犬の名前は、サンバとサルサ、という。どちらも女性、つまり雌犬だ。
今朝、 「Wisteria」のダイニング・ルームでいつものように美味なる朝食を食べ終えると、ベヴァリーがやって来て僕にこう訊いた。
「今日の夜はどうするの?」
「特に何も決まってないけど」と僕。
「じゃあ、よかったら犬の散歩につき合わない? そのあと、よかったらうちで晩ご飯を一緒に食べましょう」
それで夕方になり、これからサンバとサルサとベヴァリーと僕、という4人(2人と2匹)で一緒に散歩に行く。
今は夕方5時をまわったところ。5時といっても、北緯50度に近い北の島のサマータイムだから、日没まではまだ4時間以上ある。さっきやっと雨が上がり、空が少し明るくなってきたところだ。
日曜日の今日、朝から雨だった。
木曜日の正午に、僕は水上飛行機でこの島へやって来た。島へ来てからずっと天気が良かったのに、滞在の最後の日は雨。明日、僕はこの島を出る。
けれど、太陽が眩しくとても乾燥した毎日が続いていたから、この雨が気持ちよかった。しっとりした空気はやさしくて、湿気が肌に染みこんでくる感じ。
雨の今日、ほぼ1日中、僕は部屋で本を読んで過ごしていた。いつもは窓もドアも開け放しておくのだけれど、今日はさすがに空気が冷たくて、キッチンの窓以外は閉めていた。
雨降る午後も、猫たちは律儀に散歩をする。窓ガラスの向こうに猫を見ると、気分転換も兼ねて僕は外へ出た。もちろん近づいていって呼んでも猫は寄ってこない。彼らはいつでも自由気ままだ。
朝は小雨、午後には本降りになり、午後3時を過ぎてから雨脚が弱まってきた。
雨が昨日じゃなくてよかったな、と思う。昨日は土曜日。土曜日は、この島恒例のサタデー・マーケットの日だ。雨だったら、ぜんぜん盛り上がらない。
人口わずか1万人のソルトスプリング島に、毎年4月から9月の夏の間だけ、50万人を超える観光客が訪れる。彼らのほとんどは、太陽眩しい北の島でバカンスを過ごそうと思ってやってくる。海も森も美しいこの島でのんびりと過ごす。ハワイもいいけれど、北の島の夏も格別。北の島の夏休みだ。
そんな「夏休みの人々」の休暇の日々には土曜日が欠かせない。この島のサタデー・マーケットは、とても有名なのだ。
毎年4月第1週めの土曜日から10月第1週目の土曜日まで、ソルトスプリング島では毎週土曜日、サタデー・マーケットと呼ばれる市が立つ。
ソルトスプリング島は「アーティスト・アイランド」「オーガニック・アイランド」と呼ばれていて、土曜日のこのマーケットには、島にアトリエを構えるアーティストたちが一斉に店を出し、オーガニック・ファーマーたちもとれたての野菜や果物を並べ、苗木や、彼ら自身が作ったパンやジャムなども売られる。だから、夏のこの島での滞在のハイライトが、このサタデー・マーケットというわけだ。
昨日は、僕もマーケットへ行った。ウィローツリー・バスケットを作っているリオネル、バン職人ヘザー、オーガニック・ファーマーのチャーリーなど、マーケットで再会したい人たちが何人かいた。天気も上々だし、僕はビーチサンダルで宿からのんびり歩いてガンジスのダウンタウンまで行った。
ソルトスプリング島には信号がひとつもない。田舎の、小さな島なのだ。そんな島一番の町の名が、ガンジスという。
もともとヒッピーがたくさんいる島だし、その中心地がガンジスなんて、どうもふざけているとしか僕には思えない。昔からそういう名前だったのだろうか。それとも、1960年代末に、誰かが名づけたのが始まりではないのか・・・。(正確なところを調べたことがない。今度行ったときにはリサーチすることにしよう)
ガンジスには大きなスーパーマーケットが一軒あり、数軒のカフェとレストランがあり、素敵なブックショップがあり、2軒のパブがある(すごく小さな町なのだ)。港に面していて、水上飛行機もここに降り立つ。
ガンジスの海辺にはセンティネル・パークという公園があり、土曜日の日中、ここがマーケット会場になる。ふだんは静かな公園だ。晴れていれば、緑濃い芝生の上で日向ぼっこ、遊戯施設にはヒッピーの親子、という感じ。芝生の片隅で輪になって座ってお喋りをしているスモーキーなヒッピーたちも大勢いる。白黒写真でその風景を撮ったら、「1969年、サンフランシスコ」という感じだろう。この島は、長髪、ドレッドヘア、タイダイシャツの割合がものすごく高いのだ、今もあいかわらず。なんとなく、1970年代からすっぽり抜け落ちてきたような印象さえある。
昨日、晴れた土曜日、マーケットは盛況だった。
リオネルやチャーリーとその娘、手作りアクセサリーを作っているアレックスなど、1年ぶりにみんなと再会できてよかった。彼らの多くは僕を見ると、「また来たのかい?」と驚いていた。確かに、日本人はそんなに多く来ないし、何度も再訪する日本人となると数少ないはず。この島を気に入ってしまって「移住してしまった」という日本人たちは何人かいるけれど(この島には10数人の日本人が暮らしている。多くはファミリーで移住してしまった人たちだ)。
リオネルはこの日、店を出すのをさぼっていて、だからブラブラしていた僕を見つけると嬉しそうだった。「すぐ近くに日本人の友達の家があるんだけど、一緒に遊びに行こう」とリオネルに誘われ、それで僕も、マーケット見物はそこそこに、彼の実に汚く魚臭いおんぼろ車に乗って、その友人宅へ行ったのだった。
森の中にある山の家のようなその家は、古いけれど、広く、とても居心地がよかった。庭が広い。納屋があり、大きな羊が1頭、3羽のアヒル(近づくと猛烈に怒る)、たくさんの鴨、林檎の木々、クルミの木、家庭菜園。眺めのいいトイレは水洗ではなく、自分たちが出したものをすべて畑の肥料にしているという。それで育った野菜や果物を中心に食べて生活しているその家族。まさにオーガニック。
日本が大好きなリオネルは、昨年だったか沖縄へ行ったときに買ったという三線を独学していて、ずっとそれを弾いていた。その腕前、彼のこれまた独学の(かなりあやしい)日本語よりもずっと上手。僕が広い庭を散歩していると、外でブームの「島唄」をリオネルが練習していて、その音が辺りに響き渡り、不思議な心地よさだった。
夜は、リオネルのその友人の日本人宅で、納豆、味噌汁、玄米という晩ご飯だった。囲炉裏で鮭を焼き、エビを焼き、サラダを食べた。
サラダの葉はすべて庭の菜園でとれたもの。納豆も(納豆菌以外は)完全自家製、すべてオーガニック。自家製のフルーツワインも出てきた。リオネルが買ってきたオーガニック・ブレッドをスライスして、チーズを食べた。
結局、夜遅くまで僕らは飲み、唄い、太鼓を叩き(家にはグランドピアノもギターもあるし、なぜかジャンベがたくさんあった)、楽しんだ。なかなかすごい夜だった。
それが昨日の土曜日のこと。
今朝目覚めると雨が振っていて、前日のワインが頭に残っている感じもしたし、静かに部屋で過ごすことにした、というわけだ。ここ、ウィステリアの僕のコテージ部屋は居心地がいいので、ずっと部屋にいても嫌にならない。無線ランが母屋から飛んでいるからラップトップの仕事もはかどるし。
そうして、夕方。
雨がやみ、5時を過ぎて少ししてから、ベヴァリーと僕は2匹の犬を連れて散歩に出発した。犬の散歩と言っていたから僕はリードをつけて近所をぐるっと回るのだろうと思っていたら、そうではなかった。
「南へちょっと走ったところにきれいな森があるの。いつもそこへ行くのよ」とベヴァリー。
サンバとサルサを後部座席にシートベルトで固定して、僕らは出発したのだった。
島にはマウント・マックスウェルという、展望台からの風景が実に素晴らしい山があって、ベヴァリーが2匹の犬を散歩する森はその山の麓にあった。
1日中雨降りだったから地面はすっかりぬかるんでいたけれど、たっぷり水を吸い込んだ森は瑞々しく、実に美しい気配だ。
「近い道で回る? それともゆっくり遠回りする?」
車を降りてからベヴァリーに訊かれて、僕は躊躇せずに、「I’m easy. You decide!(僕はどっちでも。決めて!)」と応えた。
「じゃあ、せっかくだからぐるっと回ろうか」とベヴァリーが言って、僕と彼女とサンバとサルサは森へのトレイルを歩き出した。
森の中はひんやりしていた。僕はアークテリクスのアウターのジッパーを首もとまで上げて歩く。
最初、ベヴァリーは2匹の犬をきちんとリードに繋いだまま歩いていた。2匹はとても大きい。重そうだ。横から見ていて、この大型犬2匹をリードでひくのは大変だと思う。
しばらく歩いて森の中まで入ったところで、ベヴァリーはリードをはずした。2匹は「待ってました!」とばかりに駆けだして、あっという間に姿が見えなくなってしまった。
僕とベヴァリーはお喋りをしながらのんびり森の中を歩く。
ときどき彼女は大声で、「サルサ!」「サンバ!」と2匹を呼ぶ。すると、どこからか2匹が走って戻ってくる。ベヴァリーに「Good Girl!」と頭を撫でられて、おやつをちょこっともらい、するとまた森の中へ消えていく。そんなことを繰り返しながら僕らは森の道を少し上っていった。
湿った森の空気。吸い込むと美味しい味がする。森の匂い。水滴をつけた新緑、濡れて濃い茶色になった木々。素晴らしい、何もかも!
トレイルを外れると、森の中は一面苔むしている。雲が流れてときどき木洩れ日が射し込み、すると苔が光る。なんて美しいのだろう。
「何もかも・・・きれいだね!」
それ以外、僕には言えない。何もかもパーフェクトに美しいのだ。
「ここ、いい場所でしょう?」
ベヴァリーは、僕がこの場所を気に入っているのをわかって喜んでいる。
「毎日、仕事は忙しいし、やることがたくさんありすぎて、知らないうちにどんどん時間が過ぎていくでしょ。だから、毎日必ずここに来るの。ここに来ると、リセットできるから。面倒でも、疲れていても、必ず来る。もちろん、サンバとサルサにとっても必要なことだし。毎日毎日やって来るけど、この森は、一度たりとも同じ顔をしていることはないの。いつも、いつも、必ず表情が違うのよ。だから、私はここへ来るのが好き。ここがあるから、私はまた明日もできるんだと思う」
ニューヨークからこの島へやって来たベヴァリー。
昨年春にこのウィステリアに泊まって彼女と話したとき、彼女は大きな希望とチャレンジ魂に満ちていた。「私は、新しいチャレンジを自分に課したくてここに来たの」とそのとき彼女は笑顔で言っていた。「この宿を自分の宿に変えていくこと。床も壁も塗り替えて、少しずつ自分の色に染めていきたいの。大変だけれど、私は自分を試してみたい・・・」、そんなことをベヴァリーは言っていた。
今もそれは変わっていないと思う。でも、森を歩きながら言葉を交わしていると、「この島に居続けることについて」多少なりとも悩みがある・・・というか、迷いがあるのは事実のようだ。
「ここは、何もかもユルすぎると思うことがあるの」と彼女は言った。「カナダ人と私たちアメリカ人のメンタリティは、だいぶ違うのね・・・」
「でも、そのユルい感じ、メロウなのが、この島のいいところだと思うけれどね」と僕。
「もちろん、旅でやって来た人にはそれがいいんだろうけれど、住むとなると、ちょっと別。ここにずっといると、挑戦する気持ちが萎えていってしまうというかね、そんな感じがするの」
遊びに来る僕らと、暮らしている人たちとでは、やっぱり違うのだろう。住む、というのは、その場所の白と黒を両方見せられることなのかもしれない。その土地の白と黒、その中間のグレイのグラデーションの中に自分の身を置いて、どちらに染まっていくのか、そんな変化を感じることであるかもしれない。
「ここの冬をひとりで過ごして、少し寂しくなった?」と僕はベヴァリーに訊いた。
「そう、ここの冬は冷たいし、暗い。エイイチはLAに行ったことはある?」
「何度もあるよ。住んでいたことも。僕が好きなのは海辺、サンタモニカ、ヴェニス、やっぱりオーシャン・サイドだね」
「そう、あの光! 太陽が今の私には必要なのよ。最近はなんだか、西海岸の太陽に憧れちゃって・・・」
「ハワイはもっと温かいよ」
「ハワイか。まだ一度も行ったことがないわ」
そこで僕は、ハワイのどんなところが素敵なのか説明しようとしたのだけれど、うまく語れないような気がしたので、やめてしまった。それはまたいつか、次の機会にしよう。今はまだ、そのときではない、そんな気がした。
森を歩き、倒木をまたぎ、渓流を渡る。
腰まであるブッシュの丘を歩いたら、ジーンズも靴もびしょ濡れになってしまった。靴はもう、明日は履けないだろうなぁと僕は思ったけれど、途中からもうどうでもよくなって、犬と一緒に駆け回った。
少し上り、少し下る。開けた海岸に出る。どんよりした雲に少しずつ切れ目ができはじめている。西の方の空、その雲の隙間から光が射している。エンジェルズ・ラダー、天使の階段だ。
「ベヴ、ありがとう。ここに連れてきてくれて」と僕は言い、彼女が笑顔で言う、「また来ましょう、一緒に」。
また来たい。また来よう、きっと。会いたい人がそこにいるから。会いたい人がここにいるから。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『DEEP』FLIPSIDE
『IN A SAFE PLACE』THE ALBUM LEAF
『BEYOND THE MOSSOURI SKY(SHORT STORIES)』HADEN & MEHTENY
『COMMENTS OF THE INNER CHORUS』TUNNG
『JEHRO』JEHRO
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050【ソルトスプリング島、水上飛行機、Wisteriaの朝食】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6885862/
2007-05-22T05:02:42+09:00
2007-05-22T05:02:42+09:00
2007-05-22T05:02:42+09:00
imai-eiichi
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先週はホノルルに、一昨日までバンクーバーに、そして今はソルトスプリング島へやって来ている。
今、金曜日の朝。
「Wisteria」というB&Bに泊まっていて、オーナーのベヴァリーが作る滋味なる朝食が9時きっかりにサーブされるため、早起きして準備を整えている。「できたて」にこだわるベヴァリーは、宿泊客の朝食の遅刻を許さないのだ。
ニューヨークのフォーシーズンズ・ホテルでパティシエとして働いていたこともあるベヴァリーの朝ご飯は、この宿のハイライトでもある。僕の部屋はコテージルームでキッチンつきだから、安くすませたければ自分で朝食を作って食べればいい。でも、ベヴァリー手作りの朝ご飯を食べないわけにはいかない。とにかく美味しいし、美しいのだ。そして、滞在中毎日メニューが違うのが嬉しいし、驚いてしまう。
それでなくても、この島の朝の空気と景色は素晴らしいから、早起きして辺りをのんびり散策しないわけにはいかないし、そうやって早起きしていると、ふだんは食べない朝ご飯をしっかり食べたくなってくる。
サマータイム、緯度が高いこの辺りでは日に日にサンセットの時間が遅くなっていて、昨日も10時過ぎまで明るかったし、トワイライト・タイムは10時半過ぎまで続くだろうか。だから、夜の時間を屋外で過ごすのが楽しい。このアフターファイブの楽しさは日本には決してないものだ。日本はどちらかというと赤道に近い国であって、日没はあっという間。太陽はすとんとあっけなく沈んでしまう。北海道ならサマータイムも可能かもしれないけれど東京や大阪でサマータイムは物理的に不可能というか、難しいだろうと思う。
この辺りは北緯49度だから、アフターファイブが何時間もあるという感じ。緯度が高いから太陽がなかなか沈まないのだ。いつまでも、いつまでも、名残惜しそうに太陽は空にいる。午後8時、9時といった時間にカフェやバーの外のテーブルにいるのが心地いい。となると、まるでスペイン人のように夕食が始まるのがさらに遅い時間になり、就寝時間がどんどん後ろにずれ込んでいく。でも、朝は朝でこうして早起きして過ごしたいわけだから、旅行者は寝不足気味になる。
もちろん僕は取材で訪れているわけだから、寝不足になっても文句は言えない。
今朝は、にぎやかな鳥たちの声で目覚めた。
コテージの玄関脇の窓が網戸になったままで(閉めるのをすっかり忘れていた。朝、ひんやりした風が流れ込んできていた)、その窓のすぐ向こうは林だから、早起きの鳥たちの声がにぎやかに入ってくる。目覚ましが鳴る前に、その声で目覚めたのだ。鳥の囀りで目覚めたなんて書くと、なんて優雅なんだろうと自分でも恥ずかしくなってしまう。でも本当にそんな感じだった。たった今、空を、つがいの大きな鴨が飛んでいった。大声で啼きながら。
鳥に継いで早起きなのは猫たちだ。
この宿には6匹の猫と、2匹の犬がいる。これを書いている今も、窓の外の草の上を、次々と猫たちが歩いていく。草を食べ、お気に入りの場所でトイレをすませ、追いかけっこをして・・・。僕の部屋も彼らの通り道の途中で、玄関を開け放しておくとするすると入ってきてベッド・サイドの窓辺に乗って裏の家の庭を眺めていたりする。
空を飛ぶ飛行機の音が聞こえた。そろそろ、タクシー代わりの水上飛行機が飛び始める時間だ。時計を見ると、6時半。
島の朝は早い。
今回僕は水上飛行機でこの島へ来た。
ソルトスプリング島へやって来るのはこれで3度目だけれど、前回、前々回とも、フェリーでやって来たから水上飛行機で来るのは初めて。フェリーの方が安いし、車ごと乗れるから荷物をずっと乗せたままでよく、それはとても便利ではあるけれど、移動の時間は余計にかかる。もちろん、その時間のかかるところがいいのだ。のんびり船旅で島に到着するのは、それはそれで楽しい。運が良ければ船の上からオルカを見ることもある(2年前の秋の旅で僕と友人の写真家は親子のオルカを船上から見た)。
水上飛行機の良いところは何と言っても時間がかからないこと。そして、空からの眺めが楽しいこと。カナダ西海岸はフィヨルドの海岸線が続く、アーキペラーゴ=多島海の海辺だ。小さな島々が散らばる北の海を眺めながらの飛行は、実に楽しかった。
今回僕が利用したのは、ソルトスプリング・エアという小さな会社の水上飛行機。乗客は5人まで。操縦席の隣に座ることもできる。もちろん荷物チェックなんてないし、液体物だって持ち込み自由。その代わり、ラッゲイジのスペースが小さいから(何しろ飛行機そのものが小さいのだ)、大きな荷物を持って乗ることはできない。
僕は島への出発の前日、オフィスへ電話して水上飛行機の乗り場を確認した。初めてだったから慎重になっていたのだ。電話に出た女性は明るい声で、「タクシーで港のウエスティン・ホテルへ来たら、そのままホテルの隣のザ・リフトという名のレストランの方へ回ってもらって。降りたら目の前がハーバーだから、そこが乗り場よ」と言った。その口調は「わざわざ前日にコンファームの電話をしてくるなんて、びっくり!」という感じだった。
翌朝、心配性の僕は少し早めにタクシーをつかまえて、彼女から教えられた通りに「ザ・リフト」というレストラン横までタクシーで行った。荷物を持って車を降りると、そこは確かにハーバーでたくさんの船が横付けされていた。でも、いったいどこから飛行機に乗るというのか。見えるのは船ばかりだし、水上飛行機が機体を寄せるような場所が見あたらない。
僕はやっぱり心配になってまたオフィスへ電話してしまった。
「Don’t worry, you’re at RIGHT place! そこでいいのよ。時間になったら(飛行機が)来るし、来たら操縦士が上がってくるから、その港の上の歩道のところ、ゲイトのところで待っていてくれる」と、(昨日と同じ人だと思う)彼女が言った。
素晴らしい天気の朝。僕は太陽を浴びる港のベンチに腰を下ろして島から飛んでくる飛行機を待った。
11時38分発。
その飛行機が現れたのは11時30分を回ってから。
想像していたよりずっと小さな水上飛行機が港の外の、ハーバーから少し離れた水面にタッチダウンすると、のろのろと水上をすべって近づいてくる。飛行機はヨットや船が係留されている港の隅の方にやって来ると、そこにちょこんと横付けされた。横付けしながらパイロットはさらっと降りてロープで機体を舫い、エンジンが停まる。そこまで何かも彼ひとりでやっている。それが、美しい流れるような動作だった。毎日、毎日やっているからだろう、ヤンキースのデレク・ジーターのボールさばきのような、バルセロナのロナウジーニョの足さばきのような、そんな優雅さがある。
僕は水面からちょっとだけステップを上がったところにある遊歩道に立ってそれを見ていた。3人ほど、どうやら同じ便の乗客らしい人たちが(気がつけば)周りにいる。
やがてパイロットはのんびり上に上がってきて、僕らを眺め渡すようにし、「みんないるみたいだね」という感じで無言で笑顔を見せると、「君がエレンだね? とすると君が・・・」という感じで乗客(僕を含め3人)の名前を確認、でも特に身分証明書も何もチェックせず、僕らを機体の方へうながした。
気がつけば、僕らはみんな小さな機体の中。
あっという間。成田空港から乗る飛行機もこれくらいシンプルで簡単、あっという間ならいいなと思う。バス停でバスに乗るような感じで島便の水上飛行機に乗るわけだ。星野道夫さんの本にも、アラスカの原野を飛ぶ軽飛行機や水上飛行機の話が出てくるけど、アラスカやカナダでは、このタイプの小さな飛行機はタクシーであり、バスであり、自家用車と同じなのだ。気軽、かつ、簡単な乗り物。バンクーバーからソルトスプリング島へ行くこの水上飛行機もまた、気軽な毎日の「空のバス」というわけだ。
それにしても、なんて小さな飛行機なんだろう!
リチャード・バックの小説に出てきそうな感じ。もちろん僕はうきうきした気分になっている。
「後ろに救命道具があるからね」
パイロットはそれだけ言うと、すぐにエンジンをかけて、するすると飛行機は水面を動き出した。操縦席の隣に座った青年は、動き出してからパイロットに促されてもそもそと座席ベルトをつけていた。
のろのろしたモーターボートのように飛行機は港の中を進み、やがて広い場所へ出るとエンジンのうなりを高めて滑り出し、あっという間に上空へ。
ここまで何もかもがあっという間。飛行機がちゃんと来るかな、この場所でいいのかな、とちょっぴり心配していた僕の気持ちを笑い飛ばすみたいに何もかもあっという間だった。
すぐにバンクーバーのダウンタウンは僕らの背景となり、新緑に輝くスタンレーパークを左手下方に見送りながら、機体はバンクーバー・シティとバンクーバー島との間の海峡の上へ移動していった。エンジンの響きも、プロペラの音も、何もかもが心地いいことのひとつひとつだ。僕以外の乗客にとってはこれは「バスに乗っている」程度のふつうのことなのだろうけれど、僕にとってはこれはちょっとした「特別な旅」だ。
ソルトスプリング島までおよそ30分。フェリーだと2時間半。どちらも楽しいけれど、水上飛行機は悪くない。好きな島へ、どうせなら早く着きたいとやはり思うからだ。そして、この美しい空からの眺め。島から島へ飛んでいく魔法使いの姿が目に浮かぶ。アシュラ・K・ル=グィンの『ゲド戦記』の舞台のような、多島海の空の上。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『BABEL』ORIGINAL SOUNDTRACK
『LOVER ALBUM』クラムボン
『THE BENDS』RADIOHEAD
『JAGGED LITTLE PILL ACOUSTIC』ALANIS MORISSETTE
『HYMNS OF THE 49TH PARALLEL』K.D. LANG
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049【ヴォネガットの死、『バベル』、誰かを好きになること】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6740523/
2007-04-16T16:34:00+09:00
2007-04-16T18:58:43+09:00
2007-04-16T16:34:54+09:00
imai-eiichi
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カート・ヴォネガットが死んだ。
ヴォネガットのホームページ を開くと、トップページにドアが開かれたままの鳥かごが大きく描かれている。中には1羽の鳥もいない。ヴォネガットは飛んでいったのだ。
彼の魂は今、何処に在るのだろう?
10代の終わり頃、ジョン・アーヴィングを通じて僕はカート・ヴォネガットの存在を知った。
18か19のときジョン・アーヴィングの『ガープの世界』を読み、すっかりアーヴィングの小説世界のとりこになった僕は、『ウォーターメソッド・マン』、『サイダーハウス・ルール』、『熊を放つ』など、当時日本語訳が出ていたアーヴィング作品を次々と読んでいった。
アーヴィングの物語はいつもとても長く(日本語訳のハードカバーはどれも必ず上下巻あった)、だからたっぷり時間をかけて読むことができた。大人は「時間を過ごす」ためにバーで酒を呑んだりするけれど、少年少女は本を読んだり、新宿の映画館で3本立ての映画を観たり、ただ歩き回ったり、そういったことで時間を過ごすのだ(と、思う。少なくとも僕はそうだった)。
その頃僕はドロップアウトしたフリーターだったから、とにかく「過ごす時間(無為なる時間)」がたっぷりあって、分厚い小説ばかり買って読んでいた。すぐに読み終わる短編小説には興味が向かなかったのだ。いつまでも終わらないような長編小説が当時の好みだった。アーヴィングの長編は自分だけの時間に埋もれるにはうってつけだった。僕はまるで毛布にくるまるようにしてアーヴィングの本を抱えて1日を過ごしていた。
そんなジョン・アーヴィングが「影響を受けた」と語っていた作家が、カート・ヴォネガットだったのだ。アーヴィングを一通り読み終わると僕は、次に、ヴォネガットの本を読み始めた。
作家に限らず、スポーツ選手でも音楽家でも映画監督でも、何でもそうだと思うのだけれど、「誰かを好きになる」と、今度はその好きになった誰かと繋がっている人たちや、その人が関係している世界のことを知りたくなるものだ。
たとえば『スターウォーズ』を好きな人が、ジョージ・ルーカスが「私は黒澤明を尊敬していて、黒澤のいくつかの映画からスターウォーズのキャラクターを練っていった」と言っている記事を目にしたら、きっとその人は「黒澤の映画を俺も観てみようかな」と思うに違いない(何人かはそう考えるはずだ)。そして黒澤明の『七人の侍』を観ると、その次には『荒野の7人』のDVDを借りるだろう。やがてサム・ペキンパーを知り、ウォルター・ヒルやコッポラの作品に手を伸ばすことになるかもしれない。
たったひとりを好きになるだけで、その後ろに居る、その周縁に存在する、様々な人たちや物事、出来事、場所や物語を知ることになる。その広がりのすごさ! 最初はたったひとり、たったひとつの出来事なのに、どんどんつながっていく。だから世界は面白く、驚きに満ちているのだ。
それは別に作家や映画監督に限ったことではない。日常生活においても同じことが言えそうだ。たとえば仕事場で誰かを好きになれば、その「誰か」が好きな「別の誰か」とも知り合いになるだろうし、そうやっていくうちに好きな人がどんどん増える可能性はある。
「好きになる」という気持ちはとても大切なことなのだろう。少なくとも、嫌いになるよりはずっと気持ちがいい。最悪なのは「無関心」だ。無関心でいると、まったく広がりがないし、無関心さは新たな無関心さを誘発していく。無関心さというウイルスは恐ろしい。それはときに「嫌いになる」というウイルスよりも強力で、ネガティヴである。
平和、というのは結局「好きになる」ことから始まるのだなぁと思ったりもする。
「All We Need Is Love=愛こそすべて」とビートルズは唄ったけれども、なるほどその通りだ。もし米国のブッシュ大統領にイラク人の大切な親友がいたら、彼はイラクを攻撃できなかったかもしれない。好きな人の暮らす国を攻撃できるわけがない(ヤツならできるかもしれないが)。ブッシュという人物はきっと、好きな人がほとんどいない人なのだろうなぁと思う。だから彼はみんなに嫌われているのだ。誰かを好きになれない人は、誰からも好かれない。彼は悲しい人間なのだろう。
カート・ヴォネガットは、そんなブッシュ大統領とブッシュ政権に対して、断固とした態度をとり続けた勇気ある作家でもあった。講演会に招かれれば痛烈でウィットのきいたブッシュ批判を繰り広げたし、良心がまだ残っているいくつかの新聞などに政府批判のコラムを書き続けた人だ。
たとえば、ヴォネガットのこんなセリフが僕は大好きだ。
「ブッシュ大統領とヒトラーは、基本的にほとんど変わりません。ほとんど同じと言ってもいい。ただひとつだけ違うのは、ヒトラーは正しく選挙で選ばれた大統領だったということです」カート・ヴォネガット
今年のアカデミー賞で最多ノミネート作品となった映画『バベル』が、やっと日本でも公開になる。
ハリウッドやヨーロッパと日本との映画公開の「時差」には、時々うんざりさせられる。『バベル』がハリウッドで公開されたのは去年の秋のことだ。半年以上遅れての公開にいったい何の意味があるというのか。ときには数年前の映画が突然公開されることもある。『LOVE SONG FOR BOBBY LONG(ママの遺したラブソング)』は、米国ではもう2〜3年前に公開された古い作品なのに、今月日本では新作として公開される。おかしな話だ。
僕は、昨年の12月、仕事で訪れていたホノルルで『バベル』を観た。ハワイ大学のそばにある「Vertical」というシアターで。大好きな映画館だ。
北米ではその頃すでに『バベル』公開から数ヶ月経っていたから、大きな映画館での上映はすでに終わっていた。ホノルルでは唯一その映画館が上映していた。
Verticalは古いミニシアターだ。オンボロの椅子がリノリウムの床に並び、あまり段差がないからもし目の前に背の高い人が座ったらスクリーンを遮られてしまうというタイプ。小さな映画館なのに一応スクリーンは2つあり、同時に2つの映画を上映している。問題は2つの部屋の間にある壁が薄いこと。隣の部屋でドンパチ音がうるさい映画をやっていたら、こちらの部屋まで響いてくるのだ。
その夜、9時からスタートの『バベル』を観に来ていたのは、僕を含めて10人ほどの観客だった。ガラガラ。結果的にこのタイミングでこの映画館でこの映画を観てよかったと思う。
ひとり客は僕と、少し前の方に座った中年の女性。あとは、ニューエイジ風の若いカップル、中年のゲイ・カップル、不思議な男4人組(20代から50代までバラバラの4人。家族には見えない)、初老の夫婦(だろう)。・・・そんな感じの人たちが、細長い室内の真ん中辺りの座席に、少しずつ離れて座っていた。
時々、「実にしっくりくるモーメント」に出逢うことがある。この映画館で観た『バベル』が、まさにそれだった。
12月の初め頃のホノルル。風が涼しい金曜日の夜のミニシアター「Vertical」。10人ほどの観客で観る『バベル』。
結果的にぴったりのシチュエーション、ぴったりのモーメントだった。その場に居合わせた観客=僕らは、映画『バベル』の物語を共有し合った。
「バベル」とは、旧約聖書に出てくるあの「バベルの塔」のことだ。ブリューゲルの有名な絵で知っている人も多いはず。
昔々・・・、世界はひとつだった。人間はみんな仲良く暮らし、平和だった。
だが、人間は自分の力を過信する。人間はいくらでも傲慢になれる。
人間は、高い高い塔を建てようと計画する。天にも届くほど高い塔だ。人間は神の領域に入ろうとした。
塔の建造が始まる。
天からその様子を見ていた神は怒る。人間の分際で神の領域を侵そうとは・・・、人間のくせに神になろうとは・・・!
怒った神はその塔を破壊して粉々にする。
粉々になりながら人間は、バラバラになる。
バラバラの世界、つまり、神は人間に無数の言語や無数の人種、無数の宗教、数多の民族を作ったのだ。
神は人間を隔てたのである。
以来、人間は、無数の異なる言語を持ち、異なる民族や人種のボーダーの中で、コミュニケーション・ギャップを感じながら生きていかなくてはならなくなった。
塔の名前は、「バベル」。
バベルとはつまり、言語によって世界を隔てられた人間の物語である。そこには、神に近づこうとした人間の傲慢さと、その結果として人間が得たコミュニケーションの難しさがある。
映画『バベル』は、「言語とコミュニケーション」を描いた映画だ。
監督のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは、デビュー作『アモーレス・ペロス』、前作『21グラム』らと同じように、3つの物語を同時進行させていくという構成で映画を描く。
『バベル』の舞台は、北アフリカ・モロッコ、メキシコとカリフォルニアの国境地帯、そして、東京。3つの場所と3つの時間。
モロッコを旅行中、とあるトラブルに巻き込まれる米国人夫婦を演じるのは、ブラッド・ピットとケイト・ブランシェット。彼らの言語=英語は、モロッコの小さな村ではまったく役に立たない。初め小さな傷口だったが、その傷口はコミュニケーション・ギャップによってどんどん広がっていく。けれど実は、同じ言語を喋るはずの夫婦が、もともと心のコミュニケーションをとれていなかったのがすべての原因なのだ。
メキシコとアメリカの国境地帯。メキシコ人と米国人のコミュニケーション・ギャップがそこにある。ここでも、事件の発端は言語の違いである。言葉によって自分の思いを正しく相手に伝えることができない。傷口はどんどん広がっていく。けれど実は、言葉以前にそこには根強い人種差別があり、その差別意識こそが、ギャップを創造する源なのだ。
そして東京。役所広司演じる父親と、その娘に菊池凛子。イニャリトゥは、「言語とコミュニケーション」を描く映画の最後のエピソードから意識的に「言語」を放つ。菊池凛子演じる女子高生は「聾唖の少女」である。彼女は耳が聞こえない、言葉を失った人間なのだ。彼女こそは、人間の傲慢さが生んだバベルの塔の最大の犠牲者である。言葉を持たない親と子供。彼らのコミュニケーションが最悪なのはすぐにわかる。言葉があってもどうにもならない我々人間だが、言葉なくしてはもう何処へも行けない、何もできない。無力。
自分以外の人間を知ることとは何か? 我々は真にお互いを知り合うことができるのか? この映画は、そんな問いかけを繰り返す。
終わらないどころかひどくなる一方のイラク戦争。まったく報道さえされなくなったアフガニスタンの現状。アフリカの飢餓、パキスタンとイスラエル、様々な内戦。欧米や日本で広がる格差社会、ワーキング・プアの世界。人種差別、宗教問題、民族紛争・・・。
浮かれるばかりで真実をまったく伝えようとしない、努力をしないジャーナリズム、一部の人間のためのプロパガンダとして使われるマスメディア・・・。
今、僕ら人間の世界はどん底の極みに向かっている。
イニャリトゥ監督はこの映画でこうメッセージしているのだろう。
「真実はとてもシンプルだ。隣人を好きになること、好きになる努力をすること。そのためには隣人を理解する努力をすること、隣人を知ろうとすること。好きになれば、悪くは決してならない。好きになることから、理解は始まり、その先に希望がある」
米国の大統領はアフガニスタンへ旅をしてその土地の魅力を知ろうとはしなかった。彼はイラク人のことを学び、自分の隣人を好きになろうとはしなかった。もし、していれば、と思う。こんなひどい世界にはならなかっただろう。それを政治用語では「外交努力」と言うのだ。
好きになること。隣人を知り、理解しようとすること。人を、誰かを好きになること。まずは日常から始めよう。すぐそばの誰か、毎日顔を合わせる誰かでいい、その人を知り、理解し、好きになりたい。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『BABEL』ORIGINAL SOUNDTRACK
『神童』オリジナル・サウンドトラック
『ONE QUIET NIGHT』PAT METHENY
『LE PAS DU CHAT NOIR』ANOUAR BRAHE
『SAG VOYAGE 2006』VARIOUS ARITSTS
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048【夏の夜に屋外で温かいコーヒーを飲むこと】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6645233/
2007-03-24T22:32:00+09:00
2007-03-25T23:41:08+09:00
2007-03-24T22:32:48+09:00
imai-eiichi
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午後7時半、成田空港を飛びたった飛行機は、強い追い風に追い立てられるようにして、あっという間にホノルルに着いた。フライト時間、わずか5時間半。機内アナウンスが流れ、機長が笑いながら「今日、新記録を樹立しました」と言い、小さな拍手が起きた。
日本・ハワイ間のフライト時間は、年々短くなっているようだ。10年前、成田空港からホノルル空港までは、7時間半ほどかかったと記憶している。その後、早い航路が見つかったのか、それとも風向きが急激に変わったのか、温暖化のせいか、単に飛行機の性能が上がったのか、とにかく所要時間があるときからどんどん短くなっていった。7時間を切り、6時間半を切り、いつしか6時間がふつうになった(もちろん季節によっても所要時間は違う、でも、実際短くなっているのだ)。
ニューヨークまで14時間、ロンドンまで13時間。ブエノスアイレスまで1泊2日、ケープタウンまで27時間。それを考えると6時間弱のフライトは短い。乗って、食事をして(僕はだいたい食事はパスしてすぐ眠ってしまうけれど)、食事のトレイが片づけられて一度トイレに立った頃にはすでに2時間近くが過ぎているから、残りはもう4時間。そこから映画を1本見終れば、消灯されていた機内の灯りがついて朝食のサービスが始まる時間になってしまう。ここまで、あっという間だ。
日本人旅行者にとってハワイが人気の理由のひとつに、この「近さ」があるに違いない。
東京の都心に暮らしていると、成田空港へ行くまでの移動の時間と、飛行機が離陸するまでの空港での待ち時間、それらの時間の方がずっと苦痛だ。飛行機に乗ってしまえば、ホノルルはすぐなのだ。
というわけで、またもや僕はホノルルへ来ている。苦痛の成田空港を乗り越えて。気軽な5時間半を過ごして。
今回はちょっぴり久しぶりで、3か月ぶり。最後に来たのは昨年11月の終わりだった。
到着の朝、ホノルル国際空港は雨雲の下にあった。
小さな窓から外を見ると、ワイキキもダイアモンドヘッドも雨雲の下にあり、その灰色の雲はのっぺりと広がっていた。窓に雨粒があたっていた。「今日は1日雨かな」と思い、しかしここが島である限り天候は変わりやすいから、決してどうなるかはわからない。いずれにしても、ウエルカム・シャワーで迎えられるのはいつも心地いいものだ(実際、この日は午後から素晴らしい天気になった)。
いつも通り空港で車を借り、朝の渋滞の中、FMラジオを聞きながら、可能な限りのんびり運転して(わざとゆっくり走るのだ)、いつもの宿へチェックインした。と言っても、あまりにも早く着いたので部屋の準備はまだできていなかった。そこで僕はゆっくり朝食を食べ(今回はタロイモ・パンケーキとベーコン)、今、部屋の準備ができるのを待ちながらホテルのロビーでこれを書いている。
3月終わり、今、朝の気温はだいたい22度とか、それくらいだろうか。Tシャツ、ジーンズ、ビーサンという格好がちょうどいい。何かを羽織れば暑いし、短パンだと朝の風が涼し過ぎる。でも、あと2時間もすれば太陽がもっと上がって暑くなってくるのだろう。
朝の風の気持ちよさ、夜の風の心地よさ。それがハワイの素晴らしさだ。これはハワイに限ったことではなく、バリ島、タヒチ、フィジー、モルディヴ、タイの島々・・・、つまり熱帯や亜熱帯の島々に共通する素晴らしさでもある。
熱帯の朝夕は涼しい。夜には寒いことだってある。
そう。熱帯の夜は暑くないのだ。
日本には「熱帯夜」という奇妙な言葉がある。こういう間違った、というより根本的に酷いとしか言いようのない言葉をNHKや政治家や学校教師を始めとする「自分が偉い」と思っているどうしようもない連中が堂々と使っていること自体、言葉の濫用を飛び越えて「あほで下品な社会」の何よりの証拠。だって、熱帯の夜は涼しいのだから! 「熱帯夜」なんて呼ばないで欲しい。熱帯で夜が暑いなんて、聞いたことがない。体験したこともない。しかも東京の夏の夜は暑いではなく「熱い」のだ。熱帯で熱い夜なんて、ない。あり得ない。
熱帯の夜が爽やかで涼しいように、ハワイ諸島の夜も爽やかで涼しい。
閑話休題。やれやれ。またいつもの癖が出た。ストレスと怒り。でも、すべて真実なのだからしょうがない。
今回もインタビューや撮影の仕事でホノルルへ来たわけだけれど、たとえ仕事であってもハワイに訪れることは楽しい、嬉しい。
ハワイの何がそんなに好きなのか? そう質問されたら僕は、次の3つの理由でその問いに明確に答えることができる。
第一に、僕はハワイの夜の空気が好きだ。
前述したように、常夏のハワイの夜は熱くない。暑くもない。場所によっては涼しく、あるいは寒いこともある(たとえばハワイ島カムエラの8月の夜は寒い)。ハワイ、オアフ島ホノルルで、夜、短パンにTシャツ、ビーチサンダルという姿でいるとしよう。夕食を食べ終わり僕はきっと、車でマノア・ヴァレーへ行くだろう。コーヒーを飲むためだ。
マノアにあるショッピングセンター「セーフウェイ」に車を入れ、すぐそばにあるコーヒーショップに僕は行く。コーヒーを買い求め、少しだけ牛乳を垂らしたら、屋外の椅子に座るだろう。外は少しばかり涼しくなっている。マノアは山の途中だ。風の気配、温度が、ワイキキよりも1〜2度低い。僕はあらかじめ持ってきていた薄手のロングスリーブを羽織るだろう。
ハワイで、夜、短パンにビーチサンダル、ロングスリーブという格好で、屋外で、温かいコーヒーを飲む。見上げれば星空。これは素晴らしい居心地、時間だ。
東京では、夏の夜に屋外に居たいとは思わない。思えない。東京の夏は不快指数120%をゆうに超える蒸し暑さであり、呼吸さえ難しいくらいだ。ギンギンにエアコンが効いた室内で冷たいビールを飲まなければならない。
ところが、東京より赤道に近いハワイでは、夏の夜に外で、上着を羽織って、温かいコーヒーが美味しいのだ。
これが、ハワイを僕が好きなひとつめの理由。
ふたつめは、サンセットだ。
ハワイでは、ワイキキにいても、ハワイ島パホアにいても、カウアイ島ワイメアにいても、どこにいても僕は、可能な限りサンセットを眺めることにしている。
ハワイ諸島は裕福な島々ではない。もちろん、ハリウッドのセレブと呼ばれる人たちを始め裕福な人々は住んでいる、あるいは別荘を持っている。スーパーがつく金持ちだっている。けれど、多くの人々は、つまり95%の人々は、決して裕福ではないし、たくさんの人々が貧しい暮らしの中でひっしに生きている。ハワイは税金が高く、土地代は高く、輸入品に頼る島暮らしのためあらゆる品物の価格は高い(ガソリン代も高い)。アイランダー=島人たちは困窮した暮らしを強いられているのだ。
それでも彼らは笑顔を絶やさない。彼らは、自分の暮らす土地=故郷を愛している人たちである。それが何よりも素晴らしい。この世界に、「我が故郷を心から真剣に愛してやまない」という人々が暮らす土地がどれくらいあるのだろう? 僕は残念ながらハワイ諸島以外にそういった土地を知らない。もちろん僕が無知なだけだろう。
ハワイの、ハワイを故郷として愛している人々は、毎夕、雨さえ降っていなければ必ず海辺へ出る。各々、思い思い、自分の好きな場所がある。そこへ行き、ただ夕陽を眺めるのだ。海に今日の太陽が沈むのを眺めるのだ。もちろん雲に隠れて沈むところが見えなくたっていい。その「時間を感じる」ことが大切なのだ。その大切さを、必然を、彼らは知っている人たちなのだ。そういう人たちの中に自分もいられる幸せを、喜びを、僕はハワイ諸島で感じることになる。それは何事にも代え難いものだ。
みっつめ。
もうすでに書いてしまったが、この島々は、「この島々を心から愛してやまない」という人々が暮らす場所なのだ。ほんとうに僕は、この島々以外にそういう場所を他には知らない。これほどまでに自分が居る・在る土地を愛せる人たちが暮らしている場所を、僕は他に知らない。
これらの島々は愛にあふれている。土地を愛する心に満ちている。それは、純粋に、素晴らしいことだ。そして僕には羨ましい。嫉妬の心が強く芽生えるほどだ。
愛があふれる平和な人々が暮らすこれらの島々を僕は、同じように愛そうとしているのだ。
だから僕は、仕事だろうが休暇だろうが、トランジットだろうが、エンジン・トラブルだろうが、何でも構わない、この島々へ戻ってくる、何度でも、何度でも。いつでも。たくさんの知人に呆れられてもかまわない、理解されなくてもかまわない。誤解されてもいい。自分が愛せる土地が、心から愛せる場所が、たとえひとつでもこの広い地球の上に見つけられたことに僕は喜びを感じる。他人に自慢する必要なんてない。自分が理解していればそれでいいのだ。それの何が悪いと言うのか。
だから僕はここに還る、何度でも。
ジャック・ジョンソンが唄う「I Shall be Released」を聞きながら、今日、僕は夕陽を見ている。サン・スー・シー・ビーチで。美しい。限りなく。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『BLACK SAND』LE KAAPANA
『KOI AU』MAKANA
『ENDLESS HIGHWAY〜MUSIC OF THE BAND』VARIOUS ARTISTS
『EXISTIR』MADREDEUS
『ELIZABETHTOWN』SOUNDTRACK
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047【WESTEND GIRL、ロンドンは美味しい、サンマの塩焼き】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6574222/
2007-03-07T22:58:00+09:00
2007-03-09T00:36:56+09:00
2007-03-07T22:58:29+09:00
imai-eiichi
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ペットショップボーイズの『ウエストエンドガール』が英国で大ヒットしたのは、1986年のこと。歌われている「ウエストエンド」というのは、ロンドンの「西の端の街角」のことだ。というと、ノッティングヒル、ベイズウォーター、ポートベロウ・ロード、その辺りのことだと思っていたけれど、実は(まぎらわしいのだが)ロンドンのウエストエンドというのはSOHOとかその辺りのことを言うらしい。つまりそれは「セントラル」なのだけれど、なぜかその辺りに「ウエストエンド・シアター」とか、ウエストエンドを冠した場所が数多くあるのだ。ロンドンに暮らす友人がそっと教えてくれた。
昔から僕は、ロンドンのほんとうのウエストエンドが好きだ。つまり、地図上の「西の端の方」のこと。ポートベロウは特にお気に入りで、10年前なら、ロンドンへ行くとわざわざこの辺りの安宿に泊まっていた。当時、ポートベロウ近辺にはまともなホテルはなかったから、僕はB&Bやバックパッカー向けの安宿にいつも泊まっていた。いずれにせよ、あの頃はとにかくお金がなかったからそういう宿にしか泊まれない自分だったのだけれど(今も大して変わらないか)。
1986年、ペットショップボーイズのその歌がヒットしている頃のポートベロウのことは知らない。僕が初めてロンドンに行ったのは、確か1988年、89年頃のことだ。
80年代末、ポートベロウにはまだ「スモークショップ」なんかも健在で、ポートベロウ・ロードなんて歩いているだけでぷーんと「草」の匂いが漂ってきたりした。ひとりで歩いていると、「ハシシあるけど、いる?」と声をかけてくるヤツが必ずいたものだ。
映画『ノッティングヒルの恋人』の舞台になった頃から、その辺りは急激に変化していった。映画の中でヒュー・グラント演じる主人公が経営する「トラベル・ブックショップ」は、このポートベロウ・ロード沿いにあるという設定だった(モデルになった書店は実在するが、場所は別のところだ)。そして、登場人物たちはみんなこの辺りに暮らし、この辺りで遊び、という感じで、ノッティングヒルはすなわち「六本木ヒルズ&表参道ヒルズ状態」となったわけだ。そう、ロンドンの重要な観光コースになったのである。
『ノッティングヒルの恋人』は素敵な映画だと思う。僕は大好きだ。同じスタッフが製作した『ラブ・アクチュアリー』ともども、ときどきWOWOWなんかで放映していて、そういうとき家にいると必ず見てしまう。
この映画には、このポートベロウ・ロードのウィークデイ名物のがらくた市が登場し、週末のアンティーク市が描かれている。だからこの映画のヒット後、観た人たちが観光客となって大勢ここへやって来るようになったというわけだ。結果、かつてのスモークショップは洒落たブティックに変わったし、ジミヘンばかりかけていた怪しげなカフェは世界的なコーヒーチェーン店になった。
「ポートベロウも変わってしまったよね」
そう口にするロンドンっ子は少なくない。そう、「昔の原宿は良かったね」と言うのと同じだ。確かに、僕が知っているだけでもずいぶん変わったのだから、たとえば70年代のポートベロウを知っている人にすれば、「当時の面影もない」ということになるのかもしれない。
それでも、今でも僕はロンドンの西のその辺りの「雰囲気」が好きだ。レイドバック、リラックス。ロンドンの中でもポートベロウには独特の雰囲気があると思うし、今もそれは(わずかながら)残っていると思う。ポートベロウ周辺のあのレイドバックした空気感は、なんというか、やっぱり「なごめる」のだ。週末は確かに観光客でパック状態だけれど、ウィークデイの午後にでも足を伸ばせば、とってもなごめる。
ショーディッチやエンジェルといったロンドンのイーストエンドがニューヨークだとすれば、ポートベロウやノッティングヒル界隈は西海岸という感じかもしれない。年老いたヒッピーは今でもいるし、その辺りは同じロンドンでありながら時間の流れが他の場所に比べ「ゆるい」のだ。
ポートベロウからすぐのところに、Ludbury Roadという通りがあって、ロンドンで今回仲良くなったコーディネイター氏、タケさんによると、「今はここがキテいる」そうだ。
行ってみると、なるほど、洒落たブティックやカフェ、レストランがちょうどいい間合いでぽつぽつ点在している。ショッピング好きな人には楽しそうな通りだ。建物の感じとか道路の幅の感じ、石畳の雰囲気などが、なんとなくニューヨークのSOHOやウエストヴィレッジみたいな感じ。歩きやすくていい。
Ludbury Roadでタケさんに誘われて入ったのは「MELT」というオーガニック・チョコレート屋。ドアを開けて入ると、ぷーんとカカオの香り。いい匂いだ。小さな店。真っ白な壁にブラックやブラウンのチョコレートが映える。奥に段差があってキッチンがあり、そこで手作りしている。アルバイトをしている店員に、日本人とのハーフの「MARIKO」という女の子がいて、とっても可愛い。
「ロンドンは美味しい」と僕は思う。
もちろん、20年前、30年前はどうだったか知らない。でも、僕が通うようになってからはずっと「美味しい」のだ。
要は、「美味しい店に入れば、美味しい」ということ。東京のラーメン屋の8割が「ひどい店」だとするなら、「2割の良質なラーメン屋」に当たるかどうかである。同じ確率でロンドンにも「美味しい店」がちゃんとあるのだ。
ロンドンに滞在する度に必ず行くベイズウォーター駅上の中華料理屋。ここの飲茶ランチは楽しいし、美味しい。餃子、焼売、春巻き、大根餅、空心菜・・・。黒豆を使った内臓料理も美味しい。
そこから少し歩くとお気に入りのアフガニスタン料理店がある。そこでアフガニスタン・ワインを飲みながらガーリックたっぷりのフムスを食べると、「ロンドンに来たなぁ」という気がする。そう、ロンドンではエスニック料理が美味しい。
東インド会社の歴史があるから、ロンドンには実にたくさんのインド人が住んでいる。だからインディアン・レストランがたくさんあって、どこも美味しい。ちょっと郊外へ出ればインド人街もあって、そこのレストランならさらに本格的だ。街を歩くとコリアンダーやクミンの香りが漂ってくる。
ロンドンで最近目立っているのはヴェトナム人。イーストエンドにはヴェトナミーズ・レストランがずらっと並ぶ通りがあって、フォーが美味しい。
ほかには中近東、アラブ、北アフリカからの移民たちも多く、彼らのキュイジーヌもたくさんある。ロンドンで食べるモロッコ料理とトルコ料理はたまらない。
ポルトガル移民も多い。僕はポルトガルが大好きなので、ロンドンでは時間があるとポルトガル料理店にも必ず行く。ニューヨークにもパリにもいろんなエスニック料理店があるけれど、ポルトガル料理を出す店は見たことがない(東京にも1軒しかないし)。ロンドンにはポルトガル料理を出す店がけっこうあって嬉しい。プレミアリーグのロンドン・ホームのチーム、チェルシーの監督はモウリーニョというポルトガル人で、だからチームにはポルトガル人選手が多い。ふだんチェルシーを応援するサポーターであっても、もしロンドンで「イングランド対ポルトガル」という代表戦が行われると、しっかりポルトガル代表サポーターとして盛り上がる。それくらいロンドンにはポルトガル人がいるのだ。
滞在中、時間がとれたら僕は必ずブリクストンへ行く。テムズ川の向こうのブリクストンは、ジャマイカン、カリビアンの街角。高架橋の下に広がるジャマイカン・マーケットを歩き、彼らのソウルフード「ジャーク・フード」を食べる。これが美味しい、すごく。気になるライブがあれば、ブリクストン・アカデミーにも立ち寄るだろう。
パブの美味しさ、素晴らしさ。
ギネス・ビールや様々なペール・エールのビールの美しくクリーミーな泡。ワンパイントをゆっくり飲むあの時間の豊かさは、そのままフランスやイタリアのワイン・カントリーに通じる。パブで食べるチップスやパイの美味しさ・・・。
美しいハムステッド・ヒースのそば、住宅街にある「Wells Tavern」の素晴らしさをどうやって伝えたらいいだろう。1階はジモティが通うリラックスしたパブだ。週末、特に日曜日の午後がいい。近所に住む人々が「ちょっとね」という感じで普段着のままビールを飲みにやって来ている。暖炉のそばにソファがあって、レトリバーを連れてやって来ている常連のおばさん、大学生の4人組、カップルや家族連れ。2階は素晴らしいレストランだ。オーセンティックな英国料理が供されるのだけれど、何もかも美味しい。
今回の滞在中、最も印象的だったレストランは、残念ながら名前を忘れてしまったのだけれど、イーストエンドのエンジェルで入った店だ。
エンジェルは、ここ数年ブティックや雑貨店、レストラン、カフェがいっきに増えて、人気の街角になっている。同じイーストエンドに、やはり「今、一番オシャレ」と言われるショーディッチという街角があるのだけれど、僕の印象としては、「ショーディッチはロンドンの西麻布、エンジェルはロンドンの表参道」という感じ。実際、カフェやレストランで眺める人の感じ、年齢層も、その比較にマッチする。
エンジェルには、通称「カムデン・パッセージ・アンティーク・マーケット」という、アンティーク・ショップが軒を連ねる小径がある。タケさんにそこへ連れて行ってもらった午後、その小さな路地にあるパブ・レストランに入った。外から見るとふつうのパブだったのだけれど、中に入ると、「ふつうを装いながら実はとってもオシャレな」と形容しなくてはならない、なかなか素敵なレストランだった。
ここで僕とタケさん、そして一緒に行った大橋クン(ラジオ・ディレクター)が食べたのが、「サンマの塩焼き」。
いや、ほんとうに本物のサンマの塩焼きが出てきた。ただ、付け合わせがチップスだけれど(イギリスではフライドポテトを「チップス」と呼ぶ)。でも、そのチップスもカリッと揚がっていて、細身で、美味しかった。
実に巨大な、脂ののったサンマがでーんと、質実剛健に皿の上にのって出てきたときには、ちょっと驚いた。となりの「いかにもエンジェル風」というイギリス人のカップルは目をぎょっとさせていた。それはそうだろう。こんなに巨大なサンマの塩焼き、しかも頭付きで・・・。
タケさんは言った。
「これはすごい。イギリスで頭のついたサンマの塩焼きが出てくるなんて、考えられない!」
そう、欧米人の多くは「目のついた魚は食べない」のだ。つまり、ただ塩焼きして食べるにしても、必ず「頭の部分は落として」焼き、供する(ポルトガルは別だ。まるごと出てくる)。でも、この店のサンマは違った。日本の定食屋で出されるように1尾まるごときれいに焼いたまま出てきた。しかも巨大なサンマ・・・。
「白飯、大根おろし、醤油があったら、最高ですね」と僕はタケさんに言い、「いや、でも、このままでもかなり美味しいですよ、これは」とタケさんは興奮して食べていた。いや、確かに、少しばかり興奮してしまうほど見事なサンマで、塩加減もちょうど良く、とてもとても美味しかった。それにしても、骨の多い魚って、個人的にはやっぱり箸が一番食べやすい。ナイフとフォークでは僕は上手に食べられない。箸ってすごいなぁと、日本人として、やはり思う。
一緒に行った大橋クンはナイフとフォークで実に美しくそのサンマを完食。あまりにも美しい食べ方であったので、その「食前・食後」の姿を、ここに掲載。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『JAGGED LITTLE PILL ACOUSITC』ALANIS MORISSETTE
『THE SERMON ON EXPOSITION BOULVEARD』RICKIE LEE JONES
『X & Y』COLDPLAY
『A HUNDRED DAYS OFF』UNDERWORLD
『NORTH MARINE DRIVE』BEN WATT
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046【ロンドンは晴れ、傘とファシズム、ポンド高とフォー】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6540090/
2007-02-28T01:02:00+09:00
2007-02-28T10:46:17+09:00
2007-02-28T01:02:42+09:00
imai-eiichi
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ロンドンにいる。
今日は午後に小雨がぱらついたけれど、着いた日からずっと青空に恵まれている。
ロンドンと言えば雨。でも僕は、これまで何度もロンドンへ行っているのに、ほとんど雨を経験していない。春でも秋でも、いつも晴れか曇りだった。だから個人的には、「ロンドン(英国)は天気が良い」と思っている。もちろん、たまたまそうだったというだけのことなのだけれど。
誰が何と言っても、ロンドンはやはり雨と霧の街だ。ロンドンに暮らす僕の日本人の友人は、こう言って笑う、「ロンドンはとってもいい街よ。どんよりした空模様に我慢できる限りはね」。
「ロンドンでは1日に四季がある」とイギリス人は言う。
この街は、雨が確かに多い。でも、梅雨の日の東京のようにずっと降り続くことは実は希で、ほとんどの場合はスコールのような通り雨だ。
たとえばウィンブルドン・テニスの中継を見ていればそれがよくわかる。ゲームの途中で雨が降り、例の緑の分厚いカバーがテニスコートにさっとかけられると、観客はみんな「やれやれ」という顔をしながらもひとまず雨が上がるのを待つ。テレビ中継のアナウンサーや解説者たちも決して慌てることはない。「これもウィンブルドンの余興のひとつなんだよ」とでも言わんばかりだ。そして実際、20〜30分ほどで雨は上がるのだ。
「だから雨が落ちてきても、街ではみんな傘なんかささないわよ」とロンドンの友人女性は言う、「ちょっとくらいなら濡れたって気にしないし、アウトドアのアウターを羽織って、それですませちゃう」。
確かにその通り。
昨日も短いスコールがあった。僕はそのときちょうどホテルにいて、部屋の窓からストリートを見ていたら、通りを闊歩するロンドンっ子の多くは気にもせず濡れたまますたすた歩き続けていた(もちろん傘をさす人たちもいた。観光客だったかもしれない)。
日本人は天候に対して実に律儀で、雨が降ると一斉に傘をさす。いや、律儀ではなく、1億みな右へならえの軍隊国家だからなのだろう。みんな同じ哲学を強いられるこのファシズムの国では、雨なら傘をさすのが当たり前、なのだ。
雨が降ってきても僕はあまり傘をささないから、ときどき東京で友人に注意される、「雨、降ってるよ、濡れるよ」と友人は僕に言う。僕は彼に嫌味にならない程度にこう言い返す、「うん。でもさ、雨ってただの水だから。石油が降ってくるわけじゃないんだし」。濡れたって、部屋に入ればすぐに乾くじゃないか。友人は根気よく僕に向かってさらに続ける、「でもさ、風邪ひくよ」。僕も根気よく笑顔で切り返す、「ううん、人は雨や寒さで風邪をひくことはないんだよ。風邪は、ウイルスによって感染するんだ。だから、寒い国より熱帯の国の方がひどい風邪は多いんだよ。濡れたって風邪はひかない。ウイルスに感染されない限りはね」。もちろんその友人は僕に向かって嫌な顔をする。
このようにして僕は、これまでにたくさんの友人を失ってきた。でも仕方ない。だって、僕が言っていることの方がずっと真実なのだから。結果、元友人となった彼は政府にこの出来事を密告し、僕はゲシュタポ=秘密警察に逮捕されることになる。「雨の日に傘をさしていなかった」という罪で。「一体感を壊した」という罪状で。「おまえはこの平和な社会の連帯意識を混乱させている」と裁判官は僕に言うのだ。
この国が、ほんとうにそうなる日が近い気がしている今日この頃。僕が狂っている? まさか! この国のファシズムは速やかに、圧倒的に、進行しているというのに。
やれやれ。
ロンドンにいると、良くも悪くも「個人主義の国だな」と感じる。みんな「自分」なのだ。傘をさすかささないか、ということはとても小さなことだけれど、でも、そういう小さな場面で「個人の思想」や「個人の哲学」というものはくっきりと現れてくるのではないだろうか。
ロンドンにしばらくいると、アメリカ合州国と日本がいかに似ているか、そしてその2つの国がいかに全体主義であるか、ということを強く感じる。
それにしても、今のイギリス・ポンドの強さはどうだろう。とにかく滞在費がばかにならない。何もかも高い。
たとえばランチを食べるとしよう。
東京で言えば、いわゆる居酒屋がランチタイムの営業で出している「昼の定食」というものが、ロンドンにもある。いわゆるパブで出される定食だ。主に労働者階級の人々が食べに入る(英国は圧倒的な階級社会だ)。
このような定食屋の場合、日本だったらたとえば、「鯖の塩焼き定食」とか「豚肉ショウガ焼き定食」のようなメニューが、650円から900円ほどの値段で出されているだろう。味噌汁や香の物がついている。
その類の日本の店とまったく同じ位置にいるロンドンのパブでランチを食べると、最低5ポンドはかかる。5ポンドのランチは、今のロンドンにおいて「安いね、それ!」という感じなのだ。ところが、この5ポンドは、旅行者にとっては充分に「高い!」という値段である。なぜなら今、1ポンドは230円から240円だから、5ポンドのランチということは単純計算で1200円前後ということになる。それが「労働者階級向けの安いランチ」として出されているのだ。洒落たレストランでランチを食べたら、軽く2000円以上はする。いや、3000円以上だろう。1週間ロンドンに滞在して、自費で毎日そんなことをしていたら、大変な出費だ。
ロンドンは今、バブル真っ最中で、洒落たスーツを着こんだビジネスマンやOLたちが、かるく3000円を超えるランチを食べている。僕も何度かそういう店で食べたけれど、昼間からグラスワインを飲み、前菜とメインディッシュをとり、人によってはデザートまで食べるイギリス人が周りにずらりといる。1人3000円、4000円コース。まだ昼だというのに!
このポンドの高さは、旅行者にはきつい。パリやミラノに比べると日本人観光客が年々減っていると聞いているけれど、なるほど、このポンドの高さでは仕方ないような気がする。ユーロの倍近く滞在費がかかるのだから。同じ洋服を買っても、ミラノよりロンドンの方が高くついてしまうだろう。
ニューヨークに滞在した後ロンドンへ行くと、「ニューヨークって物価が安いな!」と本気で思うことになる。それってすごいことだ。「あの」ニューヨークさえ安く感じるのだから。
バブリーなロンドンは今、確かに「イケてる」街なのだろう、きっと。でも、旅人には不向きの街だ。お金がかかりすぎる。
けれどもっと問題なのは、僕が、それでもロンドンを大好きだ、ということだ。
「ポンドが高いからロンドンではなくニューヨークへ行く」というわけにはいかない。なぜなら、ニューヨークは決してロンドンにはなれないのだから。ロンドンはロンドンにしかない。他の何物にも代えられない。
だから僕はロンドンへ行く。そして、イーストエンドのヴェトナム人街で安いフォーを食べて、毎日を過ごすのだ。世界中どこでも(東京以外は)安くて美味いフォー。それは僕にとっての旅の味。(続く)
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『JAGGED LITTLE PILL ACOUSITC』ALANIS MORISSETTE
『INTO THE BLUE AGAIN』THE ALBUM LEAF
『X & Y』COLDPLAY
『A HUNDRED DAYS OFF』UNDERWORLD
『BABEL』ORIGINAL SOUNDTRACK
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045【旭川ラーメンの夜、HONDAアコード・ハッチバック、車と環境】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6464907/
2007-02-11T18:24:00+09:00
2007-02-11T18:25:37+09:00
2007-02-11T18:24:09+09:00
imai-eiichi
未分類
旭川へ行った。
北海道へは何度か行っているけれど、いつも女満別や阿寒の方ばかりで、あとは札幌に何度か。昨年秋、仕事で滞在したのも阿寒、オンネトーだった。旭川は、初めて。
旭川と言われてすぐに想い出すのは、次の3つのことくらいだ。ひとつめ、作家の三浦綾子が住んでいた土地だということ、彼女が書いた小説『氷点』の舞台だったということ。2つめ、旭川から車で少し走ると、TVドラマ『北の国から』の舞台、富良野があること。そして3つめは、旭山動物園。
あともうひとつ、思い出すことがあった。実はこれこそが僕にとって一番重要なことだ。それは、「旭川と言えば、旭川ラーメン」ということである。
自分には嫌いな食べ物というのが思い当たらない。だいたい何でも楽しんで食べられる。もちろん美味しければ。でも、大好きな食べ物というと、やはりかなり限られてくる。そう考えていくと・・・、ラーメン、という食べ物は、僕にとってなくてはならないほど大好きな食べ物だと告白せざるを得ない。
たとえば僕が福岡へ1泊で行くとする。その24時間から36時間ほどの滞在時間のあいだに、必ず最低3回は博多ラーメンを食べるだろう。もちろん、通常の食事の他に、だ。いわゆる昼食や夕食があり、それ以外に屋台で食す様々な味があり、それら以外に3回から4回のラーメン体験がある、という具合だ。だから博多(福岡)へ行って東京へ帰ってくると僕はいつも必ずお腹をこわしている。でも、後悔はない。体験せずに後悔するくらいなら、しばらく体調を崩しても体験して(つまり食べきって)帰ってきたい。相手がラーメンであるなら。
だから今回、旭川へ行くにあたって僕は、自分にノルマを課した。「旭川ラーメンの名店、3店へ行く」ことである。
もちろん、ラーメンを食べるために旭川へ行ったわけではなくて、他に仕事があって行った。だから、その仕事をこなして、仕事上の夕食があって、それ以外に3軒のラーメン屋、ということになる。渡された旅の行程表を見ると、かなりハードルは高そうだ。でも、目標も高く持つ。
まず、なぜ旭川へ行ったかというと、車メーカーのHONDAの方から招待を受けたのだ。「雪上試乗会」という広報部のイベントへの招待である。
HONDAをはじめ、日本の車メーカー各社は、世界各地で車を販売している。販売地域には北欧やアラスカなどの雪深い地域ももちろん含まれていて、そのような土地で走る車のテストをしなくてはならない。だから、旭川にテスト・コースが造られたわけだ。もちろん夏には夏のテストがあるから、雪上テストだけが目的ではないけれど、雪道で自社の車のブレーキがどのように反応するか、ステアリングの機能はどうか、エンジンオイルや内部の様子はどうなのか・・・、人間の命を乗せて走る機械だから、そういったことが冬のシーズンには念入りに何度も何度もテストされるわけだ。
ところで僕らは、雪深い地域に暮らしていなければ、雪道を運転する機会はほとんどない(東京に暮らしていたら、雪道を走ることはない)。「一度体験してみると面白いですよ」とHONDAの広報の方に言われて、それで僕も行ってみることにしたのだ。
HONDAで僕が思い出すのは自分の10代の頃のことだ。米国でハイスクールに通っていた頃、カリフォルニアで運転していたのが、HONDAアコードだった。1984年頃。3ドア(つまりハッチバック)。真っ赤に塗られた中古で、とっても素敵な車だった。
西海岸やハワイでは、1982年頃に作られた3ドア・ハッチバックのタイプのアコード人気が今も高い。VWビートルのファンが、「ビートルの1967年モデルっていいよね」と言ったり、ミニ・クーパーのファンが「やっぱりモーリス・ミニだよね」と言ったり、そういうのと似たような文脈が、HONDAアコードのその時代の3ドア車にはある。
なぜ、その時代の3ドア・アコードなのか? それは、西海岸を中心としたヒッピー文化、サーフィン文化と密接に結びついている。彼らのファッションやライフスタイルと、その時代のアコードのデザインが、リンクしていたのだ。
車を持てるくらいに裕福になったヒッピーたち(元ヒッピーたち、と呼ぶべきか)は、1980年代に入ると、自分たちの好みの服装やインテリアに近い空気感のある自家用車を求めるようになった。VWビートル、VWバス、ヴォルヴォなどは当時彼らの好きな車の筆頭だった。そして、3ドアのアコードもまた、彼らの人気車だったのだ。
サーファーたちにとっては、VWビートルにとても雰囲気が近くて、形もなんとなく似ていて、でももっと安定性があり、さらにスタイルが新しかったのが、3ドア・ハッチバックのホンダ・アコードだった。彼らにとって、後ろを開けてサーフボードを詰め込めるのは不可欠な要素だったし、ロングボードならハッチバックを開けたまま走ることもできた。21世紀の今でも西海岸でこの時代のアコードを多く見かけるのは、代々サーファーたちに乗り継がれてきていて、しかも「保ちがいい」からだ。この「保ちがいい」ところも、アコードが人気を高めた理由だったろう。
VWのヴァナゴンやバスを1台、もう1台をアコード・ハッチバック、というサーファーの年上の友達が僕にはいた。ガレージにその2台がちょこん、ちょこんと並んでいる姿は、当時高校生の僕には「憧れの風景」だった。
そんなわけで僕はずっと昔、HONDAの車を運転していたのだ。実はそんな想い出を僕は、HONDA広報の方々と青山で食事をしていたときに話してしまって、たぶん向こうはそれを覚えていてくれて、今回のイベントに呼んでくれたのだと思う。他にやって来ていたのは名の知れた車雑誌の編集者や編集長、モータージャーナリストの人たちだったからだ。唯一僕だけが、クルマという世界の素人客だった。
旭川に着いた午後のあいだずっと、雪の上のコースを、何台ものHONDAの車を次々に乗りかえながら何度も走った。もともと車を運転するのは好きなので、これは単純に楽しかった。
そこには、今月後半に発売になる新車があって、その車が僕はわりと気に入ったのだけれど、まだそれについては書いたりしてはいけないらしく(発表前なので)、だからここでは残念ながら何も書けない。写真も撮らせてもらえなかった。やはりこういうことは厳しいのだろう。ライバル・メーカーにいつ情報が漏れるかわからない。
この試乗会のあいだ、雪の上に作られた待合所のようなテントの中で、HONDAの技術者、設計者、開発者たち話す機会があった。車専門のジャーナリスト、記者、編集者たちは、それぞれ車に乗ってコースを走り(みんなすごく飛ばす!)、戻ってくると、その車の特徴や個性について、開発者にインタビューをするわけだ。エンジンがどうこう・・・、シャーシがどうこう・・・、そういった専門的な話を。たぶん。
僕はそういう専門家ではないから、もっと一般的なことを話した。車のデザインのことや、シートに座ったときの車内の空気感とか、たとえばそういうこと。「ライトのデザインが可愛いですね」とか、「ベンチシートがいいですね」とか、たぶん相当素人くさい意見を僕は彼らに伝えていたのだと思うけれど、HONDAの人たちはみんな気さくでやさしい人たちばかりで、僕のそんな意見にも笑顔で耳を傾けてくれた。彼らはみんな、そろいもそろって「少年」のような大人たちだった。
僕は何人かの人に、こういう質問をした。
「技術革新とともにあった1960年代があり、スピードを追求した70年代があり、ファッションやデザインにこだわった80年代があり、そしてファミリーといったものにフォーカスした90年代があったと思います。では、21世紀の今、車を開発する皆さんが向かっている場所は、どこでしょう?」
みんな同じ答だった。
「やっぱり、環境じゃないでしょうか」
環境問題はもちろんグローバルなイシューであり、あらゆる分野で今の時代メイン・イシューになっている。
正直に言えば、「環境のことを本気で考えるなら車なんか乗らない、走らせないのが、一番いい」ということになるだろう。車開発者、車メーカーにとって「環境問題への取り組み」とは即ち、常に根本的な矛盾を抱えての努力になる。難しい課題だろう。
僕も環境問題に関心がある。でも、僕は車に乗って移動すること、運転して旅をすることも好きだ。車を造る人たちだって、車を愛しているから造るのだし、それは生きていくための大切な仕事でもある。
夜はホテルのバンケットルームでの懇親会を兼ねた夕食だった。
その夕食の前に、1時間ほどの「待機時間」ができたので、僕はチェックインして荷物を部屋に放り投げるとすぐに外へ出て、札幌の友人からあらかじめ教えてもらっていた数軒の旭川ラーメン屋のひとつへ向かった。僕の計画、それは、夕食前に1軒、そして夕食後に1軒、夜中にもう1軒、しめて3度の旭川ラーメン体験である。
札幌の友人が推薦してくれたのは、次の4店。「蜂屋」、「梅光軒」、「天金」、そして「寅次郎」。「チリチリ細麺」とメモが書かれていた「梅光軒」にひかれていたけれど、ホテルから一番近い「蜂屋」という店へまずは行った。友人のメモにはこう書かれている。「ザ・旭川ラーメン。観光客も多し。細麺、醤油、一度は食べたい魚介ダシ!」。
旭川ラーメンは魚介ダシがポイントだという。そして、もちもちっとした独特の噛み応えの麺。
「蜂屋」は、歩いてすぐの場所にあった。
午後6時ちょっと過ぎ。広い店内には、「これぞラーメン屋!」という感じのテーブルと椅子が並んでいる。もっと遅い時間に混んでくるのだろう、そのとき客は僕を入れて3組だけだった。壁には、なるほど、訪れたタレントの色紙がずらーっと貼ってある。掲載紹介された雑誌が置かれている。有名店らしさが伝わってくる。でも、雰囲気としては基本的に質実剛健なラーメン屋だ。注文を取りに来たぽっちゃりした女性はさわやかで笑顔も良かったし、カウンターの中で麺を茹でているお兄ちゃん2人も愛想が良く、威勢が良く、かつ、言葉遣いも丁寧。メニューには味噌ラーメンもあったし、餃子、ラーメン・セットもあったけれど、もちろんここは「醤油ラーメン」だけにする。夜は長いのだ。
待つこと5分弱。
運ばれてきたラーメンのスープをまずひと口。確かに魚の香りがぷーんと漂う独特の風味だ。美味しい。
観光客の多い店でこのレベルということは、ジモティが通い詰める個性派店のレベルがどれほどのものか期待が高まってしまう。
なるほど、麺は聞いていたとおりモチモチしている。不思議な感触。個人的には麺はもっとコシのあるタイプが好きだけれど、なんといってもメインはスープの風味だと思った。それが旭川ラーメンの特徴であり、個性なのだ。
汁を全部飲みきった。軽めの量がいい。
夜は始まったばかり。
この小さな北国の街に、この独特な風味を出す名ラーメン店がいくつもあるなんて・・・なんて素敵なんだろう! 温暖化の影響で積雪も少なく温かな空気の中、僕は幸せな気持ちで夜の始まりを感じていた。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『BLACK SAND』LED KAAPANA
『BLADE RUNNER』VANGELIS
『BLEECKER STREET』VARIOUS ARTISTS
『BREAKING & ENTERING』UNDERWORLD & GABRIEL YARED
『ORBITAL 2』ORBITAL
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044【ashes and snow、瞑想する象、シンクロニシティ】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6434503/
2007-02-04T23:43:00+09:00
2007-02-04T23:58:40+09:00
2007-02-04T23:43:14+09:00
imai-eiichi
未分類
昨年の2月にサンタモニカで見たGregory Colbert(グレゴリー・コルベール)の個展『ashes and snow』が、やっと日本へやってくる。来月から東京・お台場で始まるのだ。
この壮大なエキシビション、一昨年はニューヨークで開催されていた。僕はその年も何度かニューヨークへ行ったのにタイミングが合わず、ついに見られずじまいだった。そのもっと前はヴェネツィアだった。ずっと「見たい、見たい」と思っていて、それで昨年やっとサンタモニカで見ることができたのだった。
とにかく素晴らしいエキシビションだった。
独特の体験をさせてくれる空間がそこにはあった。それをここで言葉だけで説明するのはとても難しい。
あえてひとつだけ言うならば、コルベールがやろうとしているのは、「時間体験」なのだろう。ある「時間」を、訪れた人々に体験させる、共有させる、考えさせる、ということ。その独自の「時間体験」を見事に増幅させているのが、彼の写真や映像であり、音楽であり、後述するがその独特の美術館の形態なのだ。
この「時間」はそのまま「歴史」と言い換えてもいいかもしれない。歴史と言っても、歴史的建造物とか戦争とか人類史とか、そういうことではない。コルベールが表現している時間とは、「あらゆる生き物の、細胞の時間、思想の時間」である(もちろんこれは僕の個人的見解だけれど)。
とにかく、サンタモニカでコルベールの素晴らしいエキシビションを体験して以来、再び見られるのを楽しみにしていた。必ずもう一度ゆっくり見たいと思っていた。サンタモニカの次に東京で開催されることはずいぶん前に発表されていたから、僕は文字通り首を長くしてやって来るのを待っていたのだ。
グレゴリー・コルベールの名前を聞いたことがある人はいるだろうし、彼の作品を見たという人もいるはずだ。
数年前、彼は来日して個展を開いているし、現在、東京・六本木ヒルズにあるミュージアムで、小さな写真展が開催されいる。けれど、これらは純粋な写真展であって、僕がサンタモニカ・ピアに特設された「The Nomadic Museum」で体験した壮大なエキシビションとは、かなりーーいや、まったく、と言った方が正確だろうーー異なっている。彼の世界はやはり、この『ashes and snow』で体験しなければならない。
このエキシビションを語るときに、そのユニークな美術館の形態について説明する必要があるだろう。
日本国内よりも欧米で著名な建築家、シゲル・バンによる、紙パイプとコンテナを使ったユニークな建造物を、バンとコルベールは、「The Nomadic Museum=遊牧民たちの美術館」と名づけた。コルベールによる個展『ashes and snow』は、その美術館と一体化したもので、どちらが欠けても成立しないのだ。
コストがものすごく安価で、軽いから持ち運びが簡単、誰にでも組み立てることができ、再生可能、さらに燃やすことができるーーバンが考案・発明した「紙パイプを使った住居、建造物」は、すでに世界中で知られているが、最も有名なのは、阪神淡路大震災直後の仮設住宅や、スマトラ沖大地震によって発生した津波で大きな被害を被ったアジア各地の浜辺に自ら作った仮設住宅などだろう。バンは常にマイノリティや弱者の住環境に関心を寄せているようだ。
「The Nomadic Museum=遊牧民たちの美術館」は、その名前通り、遊牧する=旅する美術館である。前述したとおり一昨年の初夏にはNYにいた。船に乗って旅をし、昨年冬、LAにやって来ていたのだ。
いや、正確に言うなら、この美術館そのものが「船」なのだ。その船が、3月、お台場に現れる。
コルベールは、自分の作品展『ashes and snow』を開催するには、何か特別な形、スタイルが必要だと考えたのだろう。バンが設計した紙パイプを多用した巨大な倉庫は、無数のコンテナで形成されている。コンテナの中にコルベールの作品はしまわれ、コンテナ船ごと旅をするのだ。そして、到着した港に土地を借り、コンテナを今度は外壁として使用する。入っていた作品をその内側に展示する・・・というわけだ。作品も美術館もともに旅をする。なんて素敵なんだろう!
とは言え、一生懸命書いたけれど、やっぱりわかりにくい。興味を感じてもらえたなら、是非とも自分の目で見、身体で感じて欲しい。「The Nomad Museum」は、お台場で現在組み立てられている最中だ。
僕は幸運なことに、昨年、LA滞在時にサンタモニカ・ピアに寄港・開催されていた『ashes and snow』を見ることができたわけだ。バンによる建造物=美術館はもちろん素晴らしいが、やはりコルベールによる作品群には圧倒された。
彼のHPを見ることでその独特な世界は感じてもらえると思うけれど、大きな和紙にプリントされた写真群、ヴァージンシネマ六本木の一番大きなスクリーンよりも巨大なスクリーンに投影された映像、そして、イマジネーションを喚起する音楽……。
好き嫌いは人それぞれだと思うけれど、僕には、実に心地よい空間・時間だった。
「ああ、僕が言いたかったのはこれだった!」という奇跡的なシンクロニシティを感じたのも、僕が感激した理由のひとつだった。きっと訪れる多くの人たちが、同じようなシンクロニシティを体感するに違いない。会ったことのない作者の意志と意図に、100%同調することだろう。美しいシンクロニシティを感じる展覧会なのだ。
我々は何処から来て、何処へ行くのか。我々とは何か。
コルベールは、インドやアフリカの美しい人々を旅人として、そんな問いへの彼自身の思いを想像力豊かに、詩情豊かに、物語性豊かに、表現している。その世界では、無数のゾウやクジラたち、鷲や鳥やヒョウたちが、瞑想している。彼らが僕ら人間に、何かを教えてくれようとしている。そして見る我々も、瞑想するだろう。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『ASHES AND SNOW』from ASHES AND SNOW
『TAKK』SIGUR ROS
『9』DAMIEN RICE
『ELEMENTS』FINALDROP
『CENDRE』FENNESZ + SAKAMOTO
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043【桜、地球温暖化、多様性】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6372193/
2007-01-22T13:32:00+09:00
2007-01-22T13:34:39+09:00
2007-01-22T13:32:22+09:00
imai-eiichi
未分類
パリとニューヨークで、桜が開花したという。
ニューヨークにはたくさんの桜の樹があるし、パリにもけっこうある。もちろん、それらすべての桜の樹の花が開いたわけではないと思うけれど、話題になるくらいだから目立ってはいるのだろう。
先週、ニューヨークに住む知人がメールしてくれた写真には、浜辺で水着になって日光浴している人々が写っていた。1月初旬のコニーアイランドの風景。
「昨日は25度まで気温が上がったよ。街中、Tシャツと短パンだらけ。春なんかひとっ飛びで、もう夏だね」
と彼はそのメールに書いていた。
数日前はロンドンに暮らす親友の女性から久々にメールが届いて、「ロンドンも温かいよ」との連絡。ちなみに、彼女(日本人)、旦那の名前がニール・ヤングで、その旦那の弟の名がポール・ヤング。冗談みたいだけれど、ほんとう。
ところがそのロンドン、この週末にかけては「冬の台風」がやって来たそうで、死者も出たとか。ロンドンで台風というのは聞いたことがないし、死者が出るなんて・・・。
ロンドンは北緯51度30分に位置している「北の都市」だけれど、たとえばニューヨークのように冷えこむことはない。雪はほとんど降らないし、零度以下に冷えこむことは多くない。東京の冬と同じか、むしろ東京よりも温かいというのが僕の印象だ。大西洋からのガルフ・ストリームの影響もあって、この辺りは温暖多湿なのだ。
各地で早々と桜が開花し始めている。さすがに東京ではそんなことはないようで、近所の桜の木々を見ても、芽はまだまだ縮んだままだ。でも、沈丁花や梅は蕾が膨らみ始めているから、確かに「春遠からじ」だ。
各地の冬が温かい、というニュース。地球温暖化なのか異常気象なのか、それは僕にはわからないけれど、とりあえず車をパークしたらすぐエンジンを切るとか、ペットボトルなどのリサイクル品は(もちろんキャップやファイルは剥がして)分別するとか、最低限の常識は守っている。
科学者の中には、「今は長い氷河期の終わりであって、だから気温が上昇しているのだ」と語る人たちもいる。
どうなんだろう?
確かに、気の遠くなるような地球の時間からすれば、今は「長い氷河期の終わりで気温が少しずつ上昇している」頃なのかもしれない。ただ、その上昇に人間の活動の影響がどれほど関わっているのか、ということが問題なのだろう。
もちろん、あらゆる生物が相互に影響し合っているわけで、人類が与えない影響などないはずだ。
でも一方で、「地球の歴史のほんの最近しか生きていない人間なんかに壊されるほど、地球はヤワじゃないよ」と考えたい自分も確かにいる。人類なんかに影響されるほど地球はきっと弱くない、というか、そう信じたいというか。この惑星は繊細でデリケートには違いないのだけれど、人間なんて「地球全体から見ればちっぽけな存在だ」という思い(そんなちっぽけなヤツらが最近はのさばって好き勝手やっているわけだ)。
この「人間活動」というものは、草や樹や魚たちの側からすれば、「まったくお前ら人間、いい加減にしろな!」と言いたいところだろう。実際、彼らが僕らと同じ言語を話せたら、集団で大ブーイングしているはずだ。魚も樹も草も花も象も鯨も熊も、彼らはみんな「考えて」生きているのに、地球上で唯一人間だけが「何も考えず=つまり自分たちの都合だけを考えて」生きていることは明白なのだから。
様々な環境運動やエコ活動に「地球のために」「地球の未来のために」というキャッチコピーが使われるけれど、それは結局のところ都合のいいコピーであって、本来ならこう言うべきなのだろう。
「人間のために」「人間の未来のために」。
地球からすれば、「あんたら人間が全員いなくなったら、一番幸福なんですけれど」という意見だろうから、結局こういうのは僕ら人間のためでしかない。僕ら人間が絶滅したくないから一生懸命にエコ活動をしたりしている、と言うべきだろう。そういう意味では「エコ運動」とか「環境活動」というものは存在せず、本来なら「人間運動」とか「人間活動」とだけ呼べばいいのだろうと思う。
こういう「人間がやっている、当の地球を参加させない議論」にこの地球がなんと答えるか是非とも聞いてみたい。もし、この惑星が僕ら人間に向かって言葉を使って主張できるなら、彼(ら)は何と言うだろう?
そう、エコとか環境についての「議論」や「研究」や「決定」というのは、常に、米国主導で決まっていくイラクの内政ルールのようなものに見えてしまう。主体はイラクでありイラク人なのに、すべて米国の都合の良いように(当の本人たちが不在のまま)何事も決まっていく。アフリカの無関係な国へ勝手に爆撃するのも同じ。つまり、人間が、人間以外のあらゆる生き物を無視して人間主導で決めていく「エコのルール」や「ロハスの活動」というのがあるわけで、そう思うと、なんだかやりきれない。だからといって、何か代替案があるのか? と問われれば、じゃあ、人間が絶滅すれば地球のためにはいい、というのでは、辛いし、やりきれない。
初めてアリゾナのナヴァホ・インディアン居留地へ行ったとき、知り合ったナヴァホの男が僕ら4人に向かってこう訊いた。4人とは、僕、旅を共にした写真家、編集者、そしてユタ州からやって来たコーディネイターの米国人、という4人。
ナヴァホの男がこう言った。
「自然、と言われて思い浮かぶものを言ってごらん」
「自然」。自然とは何だろう?
たとえば、そこに転がっている石。足の下にある土。たとえば遠くに連なる山脈。たとえば、森の木々。森に流れる川。地の果てにある海。海の中の生き物たち・・・。
4人はそれぞれ、そのようにパッと思いつく自然、つまり一般的に答えるような対象を、それぞれ言ったのだと思う。僕は「樹」と言ったかもしれない。覚えていない。
ナヴァホの男はにっこり笑ってこう言った。
「何か、大切なものを忘れているね」
そして彼は、僕ら4人を指さして、こう言った。
「君自身のこと。君も大切な自然の一部。人間も、自然なんだよ」
とても西洋的、あるいはクリスチャン的と言うか、資本主義的と言うべきか、わからないけれど、僕らは確かに「自然、人間」と別々に考える。ある意味、河岸・彼岸のように、対比して考えたり、別々の場所に存在しているかのように語るのだ。
だから、標語にはこう書いてある、「自然を大切に」。あるいは、こんなふうにも言う、「私たちの大切な自然」。
自然は僕たちの「もの」なんかじゃないし、僕らもその一部に過ぎないのに。
僕ら人間もまた自然なのだ。石や樹や草と同じように。
だから、そう考えれば、家族を大切に、というのはつまり、「自然を大切に」と同義語なのだ。本来的には。木々を大切にすることはつまり、家族や友人を大切にすることと同じ。
僕ら「人間がいて」、その向こうに「自然がある」、というような考え方を、僕らは子供の頃から教わってくる。なぜだろう? 僕ら人間(西洋社会の人間だ)の生きる世界では自然と人間との間に境界線があるのだ。いつ、その境界線が生まれたのだろう?
旅の最初にナヴァホの男は、僕らが当然として抱えていた西洋クリスチャン的な考えとは異なる、オルタナティブなアイディアを示したわけだ。
石と人間の間に差はない。熊と人間は同じである。「人間の傲慢さが生んだ境界線をとりなさい」と彼は言いたかったのかもしれない。
「自然って、いいよね」と僕らは言う。森や海辺へ行ったときなどにふと口にする。でも、僕ら自身も自然であり、そして僕ら自身の内部に無数の自然がある。僕らの中に森や海があり、僕らは彼らの一部として、時には全体として、共存しているのだから。
ナヴァホ居留地を旅しながら、特に議論することもなく、特に強いメッセージを発することもなく、ナヴァホの男は僕に、彼が持つそういった自然観をいろいろ話して聞かせてくれた。僕らは友人になり、今では僕は彼のことをガイドとして尊敬している。
異国へ旅をすると、様々なオルタナティブな考え方、見識、常識に出会う。まさに千差万別というか、人それぞれ違う青の色を持っているように、考え方が異なる。
米国の大統領はアフガニスタンやイラクを攻撃する際、「我々につくか、さもなくば敵だ」と言った。映画『スターウォーズ・エピソード3』の最後、ダークサイドに落ちてダースヴェイダーになってしまったアナキンはその米国大統領とまったく同じセリフを吐いて話題になった。もちろん、米国大統領がダークサイドにいることを示すブラックジョークでもあるのだけれど、とにかくこの似たもの同士の2人が(そして彼の部下たちが)「こっちか、向こうか」という二元的な物差ししか持っていないことに「やれやれ」と思わざるを得ない。人が3人いれば、3つの考え方があり、3つの宗教があり、3つの常識がある。「こっちか、あっちか」なんて、子供のドッジボール・ゲームじゃないのだから、そんなふうに決められるわけがない。あらゆる米国のスポーツは引き分けを認めない。たとえばメジャーリーグ・ベースボールは深夜1時を過ぎても決着が着くまでやるし、再試合も辞さない。ヨーロッパや南米の主流スポーツであるフットボールには引き分けという決着がある。勝負は勝ち負けだけではない、そんなに単純なものではないのだ。米国一般の二元的な発想は、そんな身近なスポーツの世界にもよく現れている。
そう考えていくと、「人間、自然」というのも、ある意味で単純な二元論の物差しだ。僕らはもっと多元的な、というか、多種多様な(diversity)眼を持っているはずだ。熊や鯨や、樹や草たちのように。そしてそのダイヴァーシティは、さらなる深淵へと至るはずだ。魂とか、心とか、そういう決して目に見えないものに宿る「何かの答」とでも言うのだろうか・・・。
ナヴァホの友人は僕にこう言った。
「Remenber that the air shares its spirits with all the life it supports. 忘れてはいけないよ。我々が吸いこむ空気(大気)には、それが育むあらゆる生命と魂があることを。あらゆる生命が分かち合って生きているんだ」
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『PEACETIME』EDDI READER
『SAG VOYAGE 2006』VARIOUS ARTISTS
『AFTER THE GOLDRUSH』NEIL YOUNG
『THE END OF VIOLENCE Original Score』RY COODER
『ASHES AND SNOW』from ASHES AND SNOW
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042【HOWL、星子、デニーさんのこと】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6314968/
2007-01-09T23:35:00+09:00
2007-01-09T23:59:41+09:00
2007-01-09T23:35:42+09:00
imai-eiichi
未分類
「HOWL」が今年でオープン10年になると聞いて、驚いている。
そうか、10年前に、僕は、ぶらりと、あの「HOWL」に入ったのか・・・。
なぜ、あの店を僕は見つけたのか。
もちろん、「店の方がオマエを見つけたんだ」と、まるでヘミングウェイかチャンドラーのような気障なセリフで納得することもできるだろう。でも、そうじゃない。
なぜ僕はあのときにあそこを通りかかり、そして、「HOWL」の前をただ通り過ぎるのではなく、わざわざ中へ入ったのか。そして、僕は、なぜ、入れたのか。
「HOWL」は、東京・青山、外苑西通り沿いにあるバーだ。デニーさん、という伝説のバーテンダーがいる店。
こんなことがあった。
いつしか僕も「HOWL」の常連客のようになり、いつものようにある夜飲んでいるときのこと。デニーさんが、ドアを開けて入ってこようとする客にこう言ったのだ。
「悪い。うち、会員制なんだ」
言われた客は(3人連れだった)、腑に落ちない顔をして、すごすごと外へ戻っていった。
僕は、なぜ、そのようにして断られなかったのだろう?
10年前と言えば、(今でもそうなのだけれど)僕は生意気盛りの若造で、「あれ」と「これ」の区別さえつかないくらいの、自意識過剰な青二才だったはずだ。
デニーさんは、あの夜、そんな僕を招いてくれた、と言うべきだろう。
とは言え、それが10年前の「どの夜」だったのか、残念ながら覚えていない。こういうとき、日記を付けていたらよかったのになぁと思う。初めて「HOWL」へ入った夜が、夏だったのか、秋だったのか、冬だったのか、春の宵だったか・・・。それは何曜日で、何時頃だったのか。そのとき店は混んでいたのか。僕はそこで何を飲んだのだろう? そして、しばらく飲んだ後にどうしたのか。僕はそのとき幸せだったろうか。孤独なヤツだったろうか。
もちろん、あらゆるバーに(あらゆる正しいバーに、と言うべきか)、孤独な者は集う。ニューヨークでもパリでもリスボンでも、孤独、というカードを持っていれば、バーは歓迎してくれる、はずだ。
「BAR HOWL」。
奥行きが広く、手触りの良い、美しいカウンターにスツールが並ぶ、とてもオーセンティックなデザインのバー、とも言える。けれど、どことも違う、とも言える。似たようなデザインのバーはニューヨークにもロンドンにもあるだろう。けれど、「HOWL」は結局、「HOWL」でしかない。デニーさんがそうさせているのだろうし、彼の作る酒は、そこでしか飲めないのだ。
店内は明るくない。むしろ、暗い。古いガス灯を思わせるぼんやりした光が灯る店だ。小さな空間。広くはない。狭い、と言うべきだろう。10人も座れるだろうか。スツールはいくつあっただろう? 数えたことがないからわからないけれど、たぶん、7つとか、8つくらい。そんなバー。
もちろん、パリやロンドンのように立って飲んでも構わない。常連がけっこう来るから、にぎわっている夜にはかなりの混雑となる。
あれはいつだったか。東京の熱い夏の夜だった。
店内があまりにぎゅうぎゅうなので、僕はギネス・スタウトの泡がきれいに収まるのを待ってから、そのワンパイント・グラスを片手に外へ出て、入口横に置かれている小さなベンチに座って飲んだ。目の前に、外苑西通りがあり、行き交う車、ときどきだけ通り過ぎる人々、気持ちのいい夜の時間だった。冬の今は、さすがに路面では飲めない。
細長い4階建てのビルの1階が「HOWL」だ。少し前までは階上にもうひとつ専用の部屋があり、プライベート・サロンのような感じで飲むこともできた。だいたい1人で行くのが心地いい店だけれど、何度か、3人、4人、連れだって行ったとき、上の部屋で飲ませてもらった。下で飲み物をもらい、金を払って、自分で持って上へ行くのだ。階段は外にあって、パリの古いアパルトマンについているような螺旋階段だ。酔っぱらって降りるのが怖かったから、上で飲むときはあまり飲まなかった。とは言え、「HOWL」は酔っぱらうために入る店ではない。酒をきちんと飲む人間のための店だ。礼儀正しい酔っぱらいたちの店。酒を飲めば酔っぱらう、それは当然だけれど、誰もが礼儀正しい紳士淑女であることが、暗黙のルールとして、あるいは正しい文法として、そこでは求められるのだ。少なくとも、僕はそういうことを、つまりそのような「正しいバーの文法」を、デニーさんの店で学んだと思う。
気障ったらしく言うなら、僕はあの店で、少しだけ大人になった、ということだろう。
たぶん。
そういうバーが東京にもあるのだ。今も。
「HOWL」の名前は、もちろん、アレン・ギンズバーグの詩からとられている。そこは、永遠のビートニクスたちが集う空間でもある。
デニーさんは伝説のバーテンダーだ。僕よりずっと年上の常連客の中には、「HOWL」以前からのつきあいがあるという人々がいる。たとえば「STAR BANK」という店。確か六本木か西麻布にあったバーで、その店とデニーさんの作る酒の美味さについて語った記事を、何かの雑誌で僕は読んだことがある。
デニーさんはまた、オートバイ乗りでもある。『イージーライダー』のような大型バイクに乗って旅をする。彼が、アメリカのどこかのハーレイ乗りたちが集結する祭典に日本人として参加している様子を、古い雑誌で見たことがある。とは言え、デニーさんは彫りの深い顔をしているから、アメリカへ行くと、きっと「アメリカン・インディアン」と思われるだろう。
10年前、僕が「HOWL」に通い始めた頃、デニーさんは長髪だった。かなり長いストレートの髪の毛をポニーテイルにしていた。そして、ヘヴィ・スモーカーだった。
彼は、カウンターの中でひとり、静かに酒を作る。そして、煙草を吸う。自分は店では酒を飲まない。お湯を沸かして茶を飲んでいる。客には茶は出さない。「HOWL」には、酒以外の飲み物はないのだ。酒が飲めない客は、入れない。
僕は、カウンターの向こうにいる彼を、「かっこいい大人」と思った。実際、クールで、シャイで、けれど笑顔がとってもピースフルな、素敵な大人。僕は彼に憧れて、髪の毛を伸ばしたのかもしれない。今、デニーさんは髪の毛を短く刈り、僕は、長髪をポニーテイルにしている。デニーさんは今、もう煙草を吸わない。「愛のためさ」と彼は笑う。なるほど、ボブ・ディランも唄っていたけれど、時代は変わる、のだ。
バーテンダー、という仕事を僕はしていたことがある。
ニューヨークと、キーウエストで、僕はちょっとだけその仕事をしていた。理由はいろいろあって、また、そこに至るまでの物語もあって、それはここでは書ききれない。僕が言いたいのは、「バー・カウンターの向こう側から見る風景というものが、ある」ということ。その風景は、バーテンダーをした者にしかわからない。僕は、その風景を見たことがある。
HOWLは、もしかしたら、その「風景」が最高にクールなバーなのかもしれない。しばらく僕はそこへ行っていなくて、つい最近、実に久しぶりに行ったのだけれど、かつてよく通っていた頃、HOWLへ訪れる常連客たちは、クールで、かっこいい大人たちだった。僕にはそう見えた。あんなふうに酒が飲みたいな、夜の始まりを過ごしたいな、そんなことを考えながら僕は、デニーさんの作る酒を飲んだ。
ギネス・ビール、ウィスキー、ワイン、何でも飲めるけれど、デニーさんが作るカクテルは、世界中でここでしか飲めない美味しさだ。笑われるかもしれないけれど、僕はデニーさんの作る、つまりHOWLで飲む、ピニャコラーダとフローズン・マルガリータが、大好きだ。デニーさんが作るフローズン・マルガリータを「世界一だ」という常連客は多い。
デニーさんはずっと、考えていた。
「ニューヨークやパリ、ロンドン・・・、世界の都市にはそれぞれ、独自のリキュールがあって、それは世界中で飲まれている。なのに、東京には独自のリキュールがない。世界に誇れる、素晴らしいリキュールが。オレは、それを作ってみたいね」
東京のリキュール。
デニーさんは、何年か前から、梅を使って独自のリキュールを作り始めた。最初は趣味、つまり、店で気に入った客に飲ませる酒として作っていた。しかし、いつしかそれは本格的なものになり、ついに、アルコール製造のライセンスを取得し、「自分のリキュールを製造、販売」するようになった。
それが、『星子 HOSHIKO』という酒=リキュールだ。梅酒ではない。梅を使ったリキュール。東京の酒。
クラッシュアイスで冷やして飲んでも美味いし、熱燗のように温めて飲んでも美味い。温めると、香りが強く感じられる。それが楽しい。氷で飲めば、さわやかだ。デニーさんの酒らしく、アルコール度はやけに強い。すぐに酔っぱらう。けれど、ハイになったりはしない。メロウな、ゆったりと酔える不思議な酒だ。
僕らは、この『星子』をデニーさんの店で飲むことができるし、ネットでボトルを買って自宅で自由に飲むこともできる。僕は、デニーさんの店へ行って飲むし、注文して自宅でも飲む。毎日。メロウな気分が心地いい。
デニーさんが作った東京の酒、「星子 HOSHIKO」は、実に美味い酒だ。
今宵も、HOWLで。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『NIGHT RIDE TO HOME』VARIOUS ARTISTS
『SAG VOYAGE 2006』VARIOUS ARTISTS
『BRUSHFIRE FAIRYTALES』JACK JOHNSON
『NO GOOD FOR NO ONE NOW』OWEN
『THE BEAUTIFUL LIE』ED HARCOURT
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041【深夜のゴミ清掃車、アザーン、Sound of Silence】
http://blog.excite.co.jp/switch-imai/6289031/
2007-01-04T18:16:42+09:00
2007-01-04T18:16:42+09:00
2007-01-04T18:16:42+09:00
imai-eiichi
未分類
正月三が日の東京にいると、びっくりする。「東京も、こんなに静かになることができるんだ」と。
静かな東京。年末年始の1週間ほどのあいだ、街は本当に静かだ。まさにdead quiet、死んだように静か。
年末年始の数日間をのぞいて、東京と言えば・・・絶え間なく走っている車の音、場所によっては昼夜問わず続けられている工事の音、人々の声、飛行機やヘリコプター(俺たちの上空でオマエたちはいったい何をしているんだ?)、時には戦闘機、サイレン、あらゆる商店が流す音楽やメッセージ・・・、この都市はいろんな音であふれている。
風景や匂い、食べ物などと同じように、「音」もまた、その土地ごとに違いを見せるものだ。パリにはパリの、ニューヨークにはニューヨークの、マウイ島ハナにはハナの、それぞれのサウンド=音がある。
ニューヨークの音、ニューヨークのサウンド。
ニューヨーク、マンハッタンの中心地区に暮らすか滞在していれば、雑多なノイズを絶え間なく耳にすることになる。でも、その雑多なノイズ=音は、東京のそれとは違う。まったく違うと言っていい。同じ都市でもずいぶん違うのだ。街の構造、社会のシステム、暮らす人々の習慣・・・、いろんな状況の蓄積が「その場所ならではの音」になっていく。
食べ物で音が変わることだってあるかもしれない。そして、気候。熱帯地方と寒冷地方では、音が違う。
ニューヨークの音。
あの街の音として僕が何よりも最初に思い出すのは(そして自分の耳の奥底に沈殿しているのは)、夜中にやって来るゴミ清掃車が立てる騒音だ。
日本ではゴミ清掃車はたいてい早朝にやって来る。朝7時から9時の間くらいに街をまわり、道に出されたゴミを収集していく。
ニューヨークの中心地区マンハッタン島では、ゴミ清掃車は深夜に街を駆け巡る。だいたい真夜中から明け方にかけて。このゴミ清掃車が、実に大きなトラックなのだ(日本で言うところのダンプカーよりもさらに巨大)。そんな巨大ゴミ清掃車が深夜に街を駆け回り、ものすごい音を立ててゴミを集めていく。
米国は、その国の大きさと比例してか、車の大きさや、スーパーマーケットの大きさ、ファーストフード店での炭酸飲料の紙コップの大きさなどなど、何から何まで日本の3倍くらいのサイズがある。たとえば、コーヒーのテイクアウト用カップ。日本で言うところの「トール・サイズ」が米国では「スモール・サイズ」だし、日本での最も大きな「グランデ」よりもっと大きな「ヴェンティ」というサイズがあって、「あいつら、なんでこんなにたくさん飲めるんだ?」といつも思う。
そんなわけで、米国ではゴミ清掃車も大きい。ニューヨークも例外ではない。トラックも大きければ、立てる音も巨大で、どちらも日本の比ではない。それが真夜中、深夜1時とか2時とかに路上を巡る。どんな高級ホテルでもゴミは出るわけで、もし自分の泊まった部屋の真下がたまたまゴミ集積所だったりすると、これはもう相当な騒音なのだ。眠りを妨げられることもある(事実、僕はこの騒音を理由に部屋を替えてもらったことがある)。
市民にしてもこれはうるさいと思うのだけれど、聞いた話では市民からの発案で「ゴミ清掃車は深夜に仕事をする」ことになったらしい。マンハッタンの中心地区の交通渋滞は相当なもので、朝の渋滞時間に巨大なゴミ清掃車が現れて車道の一部をブロックするようなことがあると、なるほど、それはそれでストレスが溜まりそうだ。ゴミ清掃車で働く人たちだって、ノロノロ運転で仕事をするより、真夜中に他の車を気にせずさっさとやれれば仕事は多少楽そうだ。
というわけで、深夜のゴミ清掃車の立てる轟音。僕にとって「ニューヨークのサウンド」と言えば、やはりこれが一番に思い浮かぶのだ。好きとか嫌いではなく、耳の奥底に沈殿してしまっている。
旅先の音でときどき懐かしく思い出すものがある。潮騒の音とか、森の鳥たちの囀りとか、そういういわゆる「きれいな」と形容される自然の音ではない。僕がときどきすごく懐かしく思い出すのは、アザーンの音だ。
トルコやモロッコといったイスラムの国を旅していると、街の各所に設置された拡声器から、決められた時刻ごとにアザーンが流される。アザーンとは、イスラム教における礼拝(サラート)への呼びかけ、合図のようなものだ。「皆さん、さぁさぁ、お祈りの時間ですよ〜!」と呼びかけている。アザーンの特徴は何と言っても「人間の肉声」ということだろう。礼拝の合図は、キリスト教なら鐘の音だし、ユダヤ教ならラッパの音。「人の声」というのがとてもいいと僕は思う。
「アッラーフ・アクバル! アッラーフ・アクバル! アッラーフ・アクバル! アッラーフ・アクバル!(神は偉大なり!)」という4度の繰り返しからアザーンは始まる。1日5回、アザーンは流される。つまり、1日5度、祈りの時間があるわけだ。近くにモスクがあれば、そしてその人が敬虔な信者であれば、アザーンの呼びかけに応じてそこへ行くだろう。仕事場から離れられない、近くにモスクがない、といった人たちは、ヨガ・マットのような手持ちの敷物を広げ、額をそこにくっつけるようにして礼拝をする。
20歳の頃、初めて旅したイスラムの国がトルコだった。
トルコはイスラム教の国の中では比較的戒律が緩やかな国として知られている。今では、イスタンブールなら女性でもTシャツ姿で歩いているし、ノースリーブの女性だっている(とは言え、田舎の方へ行けばトルコでもまだまだイスラムの戒律は厳しく残っている)。
僕はギリシアのアテネから飛行機でイスタンブールへ入った。およそ1か月かけてトルコを一周しようと考えていたのだ(そのとき実際は半周しかできなかった)。
春の初め頃で、まだ寒かった。
バックパックを担いで探し当てた宿は、有名なブルーモスクから歩いてすぐの海沿いにあった。部屋からは海が見渡せたし、清潔だったけれど、室内にヒーターがついていなかったから朝夕はとにかく寒かった。シャワーのお湯の温度調整も不安定で、浴びている途中で水になったりしたけれど、これはまぁ、ヨーロッパを旅していると今でもよくあることだ。
夕方、そんな宿にチェックインして、夜はイスタンブールの旧市街地でとにかく美味しくて安い晩ご飯をたらふく食べ、満足して部屋へ戻り、冷え切った部屋で冷たくなったベッドに潜り込んで、ガールフレンドと抱き合って眠った。
翌朝、たぶん6時だと思うのだけれど、ものすごい音で叩き起こされた。それが、僕が生まれて初めて耳にしたアザーンだった。
アザーンは、モスクのミナレット(尖塔)に取り付けられたスピーカーから流されるか、街のあちこちに設置された(だいたい電柱などに付いている)拡声器から流される。僕が泊まった部屋の窓の真ん前に、その拡声器のひとつがたまたまあったのだ。
1日5回、礼儀正しくアザーンが流れる。日中は別にいい。どうせ街をほっつき歩いているのだから。問題は朝だ。ゆっくり朝寝坊を楽しみたいのに、6時きっかりに叩き起こされる。何しろ、ものすごい騒音なのだ。
トルコやモロッコなど、イスラムの国々を旅していると、「泊まった部屋の窓の真ん前」ということは希だとしても、必ずこのアザーンを耳にするだろう。
僕は、トルコを旅しているうちに、このアザーンのサウンドがとても好きになってしまった。これは「礼拝への呼びかけ」にしか過ぎない。そしてこちらはその言葉を知らないし、何を言っているのかわからない。けれど、旅を続けるうちにいつしか、肉声で、まるで歌っているように、朗唱のように、呼びかけてくるその言葉の列が、イスラム教と無縁の旅人の心に染みこんでいったのだ。そう、僕の心に。
街や都市に限らず、その場所には「その場所のサウンド」がある。もちろん、それを、(風景を目に焼き付けるように)耳に沈殿させるかどうかは、人それぞれだけれど。旅をしているとき僕は、風景よりもむしろ、音や匂いに強く反応するし、想い出として残ることが多いみたいだ。風景は、写真を撮っているから安心してきっちり瞳のキャメラに残そうとしていないのかもしれない(それは良くないな)。
「東京の音」と言われて、たとえばそれがソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』のように「渋谷・ハチ公前交差点のサウンド」がそうだとすれば、あのコンフューズドしたノイズが「好きか、嫌いか」というのは、また別の話だ。でも、確かに渋谷ハチ公前交差点、その金曜日午後7時の音はもしかしたら、「東京の象徴するサウンド」かもしれない。僕はそのサウンドを決して「好き」とは言わないけれど、何処か遠くに居たらあの音を「懐かしく思う」かもしれない。
音もまた、想い出なのだ。
正月三が日の東京にいると、「静かな音」を体感する。そう、Sound of Silence。1年でこの時期だけだ。ほかの362日間には体感できない。いつか東京を放れ、何処か異国の地に暮らすようになったとき、その地で1月を迎えたら、きっと僕は東京の正月三が日のサウンド・オブ・サイレンスを懐かしく思うに違いない。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『O』DAMIEN RICE
『DREAMING THROUGH THE NOISE』VIENNA TENG
『GOOD NIGHT, AND GOOD LUCK』DIANNE REEVES
『LET ME SEE THE FISH』SIGUR ROS
『INTO THE BLUE AGAIN』THE ALBUM LEAF
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040【チェ・ゲバラ、ドロシー、スナフキン】
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2006-12-30T15:53:00+09:00
2006-12-30T16:57:48+09:00
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旅に出られる日は、いつもあるとは限らない。
それは「人生の特別な祝日だ」なんて書くと、ちょっと大袈裟だけれど。でも、旅立つ日の朝はどことなくうきうきしているような気もする。いつになっても。
そう思って今年の旅を頭の中で振り返ってみたら、ほとんどの旅で僕は、その出発の朝までずっとラップトップに向かっていたことに気づいた(だいたい出発の日は徹夜明けだ)。
なるほど、そうか。旅立つ朝だからと言って決してうきうきばかりしているとは限らないみたいだ。むしろ苦痛を感じていたということもある。「ああ、出発がなければ、もっとゆっくり原稿が書けるのに!」と。でも、それは「夏休みの宿題を最後の日にやる」自分が悪いのだけれど。
泣いても笑っても飛行機に乗ってしまえばもう後戻りできない。座席に座ってしばらくして、飛行機がとうとう滑走路へと移動し始める頃には、結局、うきうきした気分が心を支配している。たとえそれが仕事の旅であっても。
とは言え、憂鬱な仕事旅も確かにある。
そんなとき、行く前の晩はとにかく気が重いし、「何か天変地異が起きてこの仕事がなくならないものか・・・」などと本気で考えている自分がいる。まるで雨乞いのような気分だ。
でも、いつもそうなのだけれど、結局何も起きない。
朝が来て、「やっぱりこの旅を中止させるほどのことは何も起こらなかったか・・・」と思いながらバタバタと荷物を鞄に詰め込んで、パスポートと国際免許証とチケットをポケットに入れて、空港へ向かう。そういう旅のときには、成田空港にいる時間がいつも以上に面倒だし、飛行機の中に座っているのが辛い。
不思議なのは、たとえそんな気分で始まった仕事旅でも、いざ飛行機が彼の地へ到着すると、自分の気分ががらっと変わっていることだ。飛行機の機体から出て入国審査の列に並ぶ頃には、僕の気分はすっかりその「旅の中」にある。辛いとか、嫌だとか、そういう気分はいつしかフェイドアウトしている。それがどんなにタイトなスケジュールの旅であろうとも、ぜんぜん来たいと思っていなかった場所であろうとも、一向に構わないという自分がむずむずと頭を上げるのだ。
来たからにはもう、可能な限り楽しんでやろう。
たとえ自分が疲れていたって、大人数の旅だって、頼まれ仕事だって、何だって構わないじゃないか。毎日、毎日、虎ノ門(たとえばです)の会社のデスクに向かって1年を過ごす人だっているわけで、自分はその人じゃない、それだけで充分ハッピーだろう、何が不満なんだ?・・・などと思って、開き直って、結局、うきうきしてくる。
要はこういうことなのだ。
見知らぬ街を走るタクシーに乗って、空港から宿へと向かっているとしよう。そのとき、窓の向こうの街並みを眺めながら、風景を見ながら、僕の「目」はとにかく楽しんでいるのだ。それがわかる。目が、うきうきしている。貪欲な僕の目が、いろんなものを見ていることを脳が感知して、脳もまた、めまぐるしいスピードでハードディスクを回転させている(大した容量じゃないけれど)。そうなるともう、血液がぐるんぐるんと流れ、身体中にエネルギーが満ちてくるのを感じる。それが、僕にとっての旅の始まり。いつもそう。それを何度だってやりたいから、旅に出るのを厭わない。
よそへ出かけたからって、常に新しいことがあるわけでもない。ニューヨークは東京とは違う、パリは東京とは違う。それは確かだ。でも、それは「こっちとは違う」というだけで、特に「新しいか?」と問われたら、「うーん・・・」と思うはずだ。
変化はしていても、新しいとは限らない。
結局、旅先だから新鮮に感じるだけなのだ。マンハッタンで食べるホットドッグだから美味しいのだ。同じホットドッグを東京の自宅で食べたって、決して美味しくない(むしろマズイかもしれない)。
旅先だから新鮮で、何もかもが得難い冒険になる。新しさと冒険を、自らが創りだしているからだ。
旅とは「する」ものではない。「創る」ものなのだ。
「ねぇ、そろそろ、行く?」
と、友達が言う。僕らは美しい砂浜の木陰に寝ころんでいる。耳にはiPodのプレイリストが流れていて、いい気分。太陽は真上。青い海。
「行くって、どこに?」と僕はきき返す。
「別に・・・」と友人。「でもさ、いつまでこうしているの?」
「もう飽きちゃった?」と僕は彼にきく。
「いや、そういうわけでもないんだけれどね」と彼。「でも、こんなことしてていいのかなってさ、ちょっと思ってね」
「仕事は全部終わったんだし、あとは好きなように今日1日を使ったって、神様も怒らないと思うよ」と僕は笑う。
「何もしないって、けっこう難しいね」と友人は苦笑する。
そうなのだ。のんびりするには、けっこう勇気と知恵がいる。かといって、めまぐるしいスケジュールに沿っていろいろ見たり体験すれば「その方が楽しい」とも限らない。短い時間にたくさん見たって、実は見ていないからだ。人間の吸収する能力には限界がある。どんなにたくさん見ても、結局僕ら人間とは、「自分の興味のあることしか、きちんと見ていない」ものだ。
前にこんなことがあった。マウイ島のハナ。ホテル・ハナ・マウイでのこと。
ある日の午後、仕事も終わり、たぶん午後3時過ぎ頃だったと思うけれど、僕は素晴らしい海抜けプールでリラックスしていた。しばらく泳いで、デッキチェアに寝ころんでiPod。また泳いで、今度はビールを飲みながら文庫本を開く。うとうとする・・・。
米国人の夫婦がすぐそばのデッキチェアに寝そべっていた。旦那は分厚いハードカバーを開き、熱心に読書。奥さんは身体を灼いている。昨日は彼らを見なかったから、きっと今朝か、この午後にチェックインしたのだろう。そこに、彼らの息子と娘がやって来た。たぶん、中学生くらい。息子が言う。
「パパ、部屋にテレビがないじゃないか!」
ホテル・ハナ・マウイには、いくつかの厳格なルールがある。「テレビを一切置かない」は、そのひとつだ。3年前までは電話もなかった。テレビを見るような客には来て欲しくない、という姿勢。
米国人と日本人のテレビ好きは異常だ。いつでも、どこでも、テレビがついている。日本なら、銀行、役所、郵便局、どこでも「当たり前」のように大型テレビが置かれ、常に(だいたいの場合NHKが)オンになっている。だいたいこの国には、車を運転しながらテレビを見ている人たちがいる。そこまでして見たいと思わせる番組があるとは僕には思えない。
それにしても、携帯電話を使いながら運転したら罰金なのに、なぜ運転席のダッシュボードにテレビがついていて警察は何も言わないのか? テレビを見ながら運転する方がよっぽど危険じゃないか。なぜ取り締まらない? なぜそれが「ダメ」だと言わない? なぜメディアはキャンペーンをはらない? 「運転しながらテレビを見るのは危険です」と。もちろんメディアは黙って知らないふりをする。だって、そこには裏に大きな力が働いているから。大手家電メーカーと大手車メーカーによる政治家への圧力と献金、そこに新聞やテレビなどメディアとの談合。だいたいテレビ局がニュースでそれを言うわけがない。だってテレビを見てもらいたいのだから。広告代理店はCMを作っているのだから車にテレビがあるのは願ったり。だいたい彼らがカーナビTVの宣伝もしているのだし。結局この国では、「テレビを見ながら車を運転して人をひき殺しても、決して誰も何も言われない」。大手企業と政治家と官僚がトライアングルを作る国。暗黙の了解と、従順な国民によって、それが未来永劫まで守られる。
米国では、さすがに銀行にテレビは置かれていないけれど、でも、みんながみんな、テレビ・ジャンキーだ。だから100チャンネルもあるのだ。そんなにたくさんチャンネルがあって、どうするつもりだろう? 理由は簡単だ。要は洗脳なのだ。フォックスTVでもNBCでもCBSでも、みんな「フセインが悪」「北朝鮮が悪」と言うわけだ。テレビの中でみんな「アフガニスタンに攻撃しなくちゃいけない」と叫ぶわけだ。すべてのニュースで同時に「アルカイダが攻撃した張本人です!」と言うわけだ。見ている人たちは、チャンネルを次々と換えるけれど、どのチャンネルでも同じ原稿を別々のキャスターが喋っているから、気づかずインプットされていく。次の日、会社や学校へ行くと、自分も知らぬうちに「アフガニスタンに爆弾を落とそう!」と思っているわけだ。テレビを使った洗脳システム。その最先端にいるのが、米国。ついで、日本。
だから僕はフランスが好きだ。パリでは、人々はテレビを(ほとんど)見ない。家にテレビがないという人も多い。パリジャン、パリジェンヌたちは、テレビなど見ないでカフェへ行く。そして、議論する。フランス人たちの議論好きは有名。彼らは語り合い、主張し合い、民主主義を構築しようとする。テレビから民主主義は生まれない。テレビとは、見せかけの民主主義を官僚や政治家と組んで魅力的に見せようとする巧妙なる悪魔の仕掛けだ。
旅の話だった。
とにかく、部屋にテレビを置かないホテル・ハナ・マウイで、その米国人一家の息子と娘は、「こんなスゲェ田舎にいて、いったい何が楽しいんだよ!」的な怒りを両親にぶつけている。父親は言う、「ここはテレビのないリゾートなんだよ。オマエもいろいろ楽しみなさい」。息子は言う、「だって、見たいテレビがあるんだよ。どうしてくれるんだよ。だいたい、何をして遊ぶんだよ。テレビがなけりゃ、テレビゲームだってできないじゃないか!」
テレビもないような田舎でくつろぐには勇気がいる。知恵がいる。我慢がいるのだ。
今の社会の構造というものが、常に人々を急かし、あちこちへ引きずり回して、イベントに参加させ、お金をたくさん使わせるようにできている。村上春樹はそれをかつてこう書いた。「高度資本主義社会のシステム」。
自分の好きなように旅をするためには、そんな高度資本主義社会のシステムと「知恵くらべ」をするようにして、自ら旅を創っていかなくてはいけない。なかなか大変だ。中田英寿は今ごろそれをやっているのかもしれない。
若きチェ・ゲバラの旅を描いた映画『モーターサイクルズ・ダイアリーズ』は、まさに、そんな「旅の醍醐味」を伝える作品だった。
医師を志していた23歳のゲバラことエルネストは、親友アルベルトと2人で、中古のオートバイに乗って南米大陸縦断の旅に出る。あてのない2人旅。喘ぐオートバイを押したり修理したりしながらアンデスの山を越え、船倉に隠れて密航し国境をまたぎ、イカダに乗ってアマゾン河を下る。たくさんの出会いと別れがあるのだけれど、その旅で若きエルネストが見たのは、南米大陸に暮らす多くの貧しい民の姿だった。スラム街の子供たち、蔑まれるインディオたち、あらゆる荒廃と、あらゆる差別がはびこる南米大陸の真実。
「今まで、大学まで行かせてもらったおぼっちゃんの自分が見ていたのは、ほんのわずかな世界だったんだ・・・」とエルネストは気づく。
後にエルネストを「チェ・ゲバラ」へと変え、革命家へと変えていったのは、すべてこの旅が理由だった。
エルネストは、あらゆる局面で知恵くらべをしながら旅を全うする。彼は自ら旅を創り上げ、旅の目的を見いだす。まさに、「旅の極意」をメッセージするかのような映画だ(原作の著書も素晴らしい)。
大竹昭子は、「旅ではなぜかよく眠り」と書いた。確かにその通りだ。旅先ではいつもぐっすり、よく眠れる。中田英寿は「人生とは旅である。旅とは人生である」と書いた。旅が人生というと、それは寅さんになってしまうけれど、確かに旅をしていると様々な知らなかったことを学ぶ。エルネストだって旅をしなかったらチェ・ゲバラにはなれなかったのだ。旅とはものすごい学校だ。
けれど、そんなに難しく考えなくてもいいのだ。だって、旅では、ただ単純に楽しいことがたくさんあるのだから。
たとえば旅では、いろんな想い出がフラッシュバックしてきて過去の自分が語りかけてきたりすることがある。想い出にばかり浸かるのは良くないけれど、でも旅の夜にはなぜかふだん思い出さないようなことを思い出すことがある。最初の恋人が現れたり、ずっと前に死んでしまった知人が「やぁ」と言って顔を見せたりする。彼らと言葉を交わす夜は、日常生活にはないスリルだ。
見知らぬ街であてずっぽうに歩いていて、旅をしていなかったら絶対に会えないような人と出会うことがある。旅では、ちょっとしたハプニング、乗り遅れや勘違いが、冒険になり、そこで何かが待っている。そういったものに、あれこれ知恵を絞って対処しようとする自分と出会える。ふだん使わないエネルギーを使い、使わない肉体の細胞が動き出す。
なぜこんなにも旅が好きなのだろう? 僕は旅人なんかじゃないけれど、1日一度は何処かへ旅をしたいと思っているのも事実。
ここでへない何処か、ここではない何処か、ここではない何処か・・・。いったい何処へ行きたいのか?
『オズの魔法使い』のドロシーは、「There is no place like home.お家ほど良い場所はない」と3回唱えてカンザスの実家へ戻ることができた。永遠とも思える旅の果てに。子供の頃その映画を観て、ドロシーのような旅がしたいと思った。ムーミン谷のスナフキンは、ときどき旅に出て、戻ってきて、ムーミンに話を聞かせたりしていた。小学生の頃、そんなスナフキンに憧れていた。もう少し歳を重ねてから憧れたのは、『風の谷のナウシカ』のユパだ。あらゆる土地を旅し、ときどき風の谷へ帰ってきてナウシカや谷の人々に冒険談を語って聞かせるユパ。夜、ろうそくの炎の前で。そういう仕事があればいいのに。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『FEAST OF WIRE』CALEXICO
『DREAMING THROUGH THE NOISE』VIENNA TENG
『THE NIGHTFLY』DONALD FAGEN
『ELEMENTS』FINALDROP
『空中』FISHMANS
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