041【深夜のゴミ清掃車、アザーン、Sound of Silence】

正月三が日の東京にいると、びっくりする。「東京も、こんなに静かになることができるんだ」と。
静かな東京。年末年始の1週間ほどのあいだ、街は本当に静かだ。まさにdead quiet、死んだように静か。
年末年始の数日間をのぞいて、東京と言えば・・・絶え間なく走っている車の音、場所によっては昼夜問わず続けられている工事の音、人々の声、飛行機やヘリコプター(俺たちの上空でオマエたちはいったい何をしているんだ?)、時には戦闘機、サイレン、あらゆる商店が流す音楽やメッセージ・・・、この都市はいろんな音であふれている。
風景や匂い、食べ物などと同じように、「音」もまた、その土地ごとに違いを見せるものだ。パリにはパリの、ニューヨークにはニューヨークの、マウイ島ハナにはハナの、それぞれのサウンド=音がある。
ニューヨークの音、ニューヨークのサウンド。
ニューヨーク、マンハッタンの中心地区に暮らすか滞在していれば、雑多なノイズを絶え間なく耳にすることになる。でも、その雑多なノイズ=音は、東京のそれとは違う。まったく違うと言っていい。同じ都市でもずいぶん違うのだ。街の構造、社会のシステム、暮らす人々の習慣・・・、いろんな状況の蓄積が「その場所ならではの音」になっていく。
食べ物で音が変わることだってあるかもしれない。そして、気候。熱帯地方と寒冷地方では、音が違う。
ニューヨークの音。
あの街の音として僕が何よりも最初に思い出すのは(そして自分の耳の奥底に沈殿しているのは)、夜中にやって来るゴミ清掃車が立てる騒音だ。
日本ではゴミ清掃車はたいてい早朝にやって来る。朝7時から9時の間くらいに街をまわり、道に出されたゴミを収集していく。
ニューヨークの中心地区マンハッタン島では、ゴミ清掃車は深夜に街を駆け巡る。だいたい真夜中から明け方にかけて。このゴミ清掃車が、実に大きなトラックなのだ(日本で言うところのダンプカーよりもさらに巨大)。そんな巨大ゴミ清掃車が深夜に街を駆け回り、ものすごい音を立ててゴミを集めていく。

米国は、その国の大きさと比例してか、車の大きさや、スーパーマーケットの大きさ、ファーストフード店での炭酸飲料の紙コップの大きさなどなど、何から何まで日本の3倍くらいのサイズがある。たとえば、コーヒーのテイクアウト用カップ。日本で言うところの「トール・サイズ」が米国では「スモール・サイズ」だし、日本での最も大きな「グランデ」よりもっと大きな「ヴェンティ」というサイズがあって、「あいつら、なんでこんなにたくさん飲めるんだ?」といつも思う。
そんなわけで、米国ではゴミ清掃車も大きい。ニューヨークも例外ではない。トラックも大きければ、立てる音も巨大で、どちらも日本の比ではない。それが真夜中、深夜1時とか2時とかに路上を巡る。どんな高級ホテルでもゴミは出るわけで、もし自分の泊まった部屋の真下がたまたまゴミ集積所だったりすると、これはもう相当な騒音なのだ。眠りを妨げられることもある(事実、僕はこの騒音を理由に部屋を替えてもらったことがある)。
市民にしてもこれはうるさいと思うのだけれど、聞いた話では市民からの発案で「ゴミ清掃車は深夜に仕事をする」ことになったらしい。マンハッタンの中心地区の交通渋滞は相当なもので、朝の渋滞時間に巨大なゴミ清掃車が現れて車道の一部をブロックするようなことがあると、なるほど、それはそれでストレスが溜まりそうだ。ゴミ清掃車で働く人たちだって、ノロノロ運転で仕事をするより、真夜中に他の車を気にせずさっさとやれれば仕事は多少楽そうだ。
というわけで、深夜のゴミ清掃車の立てる轟音。僕にとって「ニューヨークのサウンド」と言えば、やはりこれが一番に思い浮かぶのだ。好きとか嫌いではなく、耳の奥底に沈殿してしまっている。

旅先の音でときどき懐かしく思い出すものがある。潮騒の音とか、森の鳥たちの囀りとか、そういういわゆる「きれいな」と形容される自然の音ではない。僕がときどきすごく懐かしく思い出すのは、アザーンの音だ。
トルコやモロッコといったイスラムの国を旅していると、街の各所に設置された拡声器から、決められた時刻ごとにアザーンが流される。アザーンとは、イスラム教における礼拝(サラート)への呼びかけ、合図のようなものだ。「皆さん、さぁさぁ、お祈りの時間ですよ〜!」と呼びかけている。アザーンの特徴は何と言っても「人間の肉声」ということだろう。礼拝の合図は、キリスト教なら鐘の音だし、ユダヤ教ならラッパの音。「人の声」というのがとてもいいと僕は思う。
「アッラーフ・アクバル! アッラーフ・アクバル! アッラーフ・アクバル! アッラーフ・アクバル!(神は偉大なり!)」という4度の繰り返しからアザーンは始まる。1日5回、アザーンは流される。つまり、1日5度、祈りの時間があるわけだ。近くにモスクがあれば、そしてその人が敬虔な信者であれば、アザーンの呼びかけに応じてそこへ行くだろう。仕事場から離れられない、近くにモスクがない、といった人たちは、ヨガ・マットのような手持ちの敷物を広げ、額をそこにくっつけるようにして礼拝をする。

20歳の頃、初めて旅したイスラムの国がトルコだった。
トルコはイスラム教の国の中では比較的戒律が緩やかな国として知られている。今では、イスタンブールなら女性でもTシャツ姿で歩いているし、ノースリーブの女性だっている(とは言え、田舎の方へ行けばトルコでもまだまだイスラムの戒律は厳しく残っている)。
僕はギリシアのアテネから飛行機でイスタンブールへ入った。およそ1か月かけてトルコを一周しようと考えていたのだ(そのとき実際は半周しかできなかった)。
春の初め頃で、まだ寒かった。
バックパックを担いで探し当てた宿は、有名なブルーモスクから歩いてすぐの海沿いにあった。部屋からは海が見渡せたし、清潔だったけれど、室内にヒーターがついていなかったから朝夕はとにかく寒かった。シャワーのお湯の温度調整も不安定で、浴びている途中で水になったりしたけれど、これはまぁ、ヨーロッパを旅していると今でもよくあることだ。
夕方、そんな宿にチェックインして、夜はイスタンブールの旧市街地でとにかく美味しくて安い晩ご飯をたらふく食べ、満足して部屋へ戻り、冷え切った部屋で冷たくなったベッドに潜り込んで、ガールフレンドと抱き合って眠った。
翌朝、たぶん6時だと思うのだけれど、ものすごい音で叩き起こされた。それが、僕が生まれて初めて耳にしたアザーンだった。
アザーンは、モスクのミナレット(尖塔)に取り付けられたスピーカーから流されるか、街のあちこちに設置された(だいたい電柱などに付いている)拡声器から流される。僕が泊まった部屋の窓の真ん前に、その拡声器のひとつがたまたまあったのだ。
1日5回、礼儀正しくアザーンが流れる。日中は別にいい。どうせ街をほっつき歩いているのだから。問題は朝だ。ゆっくり朝寝坊を楽しみたいのに、6時きっかりに叩き起こされる。何しろ、ものすごい騒音なのだ。
トルコやモロッコなど、イスラムの国々を旅していると、「泊まった部屋の窓の真ん前」ということは希だとしても、必ずこのアザーンを耳にするだろう。
僕は、トルコを旅しているうちに、このアザーンのサウンドがとても好きになってしまった。これは「礼拝への呼びかけ」にしか過ぎない。そしてこちらはその言葉を知らないし、何を言っているのかわからない。けれど、旅を続けるうちにいつしか、肉声で、まるで歌っているように、朗唱のように、呼びかけてくるその言葉の列が、イスラム教と無縁の旅人の心に染みこんでいったのだ。そう、僕の心に。
街や都市に限らず、その場所には「その場所のサウンド」がある。もちろん、それを、(風景を目に焼き付けるように)耳に沈殿させるかどうかは、人それぞれだけれど。旅をしているとき僕は、風景よりもむしろ、音や匂いに強く反応するし、想い出として残ることが多いみたいだ。風景は、写真を撮っているから安心してきっちり瞳のキャメラに残そうとしていないのかもしれない(それは良くないな)。

「東京の音」と言われて、たとえばそれがソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』のように「渋谷・ハチ公前交差点のサウンド」がそうだとすれば、あのコンフューズドしたノイズが「好きか、嫌いか」というのは、また別の話だ。でも、確かに渋谷ハチ公前交差点、その金曜日午後7時の音はもしかしたら、「東京の象徴するサウンド」かもしれない。僕はそのサウンドを決して「好き」とは言わないけれど、何処か遠くに居たらあの音を「懐かしく思う」かもしれない。
音もまた、想い出なのだ。
正月三が日の東京にいると、「静かな音」を体感する。そう、Sound of Silence。1年でこの時期だけだ。ほかの362日間には体感できない。いつか東京を放れ、何処か異国の地に暮らすようになったとき、その地で1月を迎えたら、きっと僕は東京の正月三が日のサウンド・オブ・サイレンスを懐かしく思うに違いない。

<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『O』DAMIEN RICE
『DREAMING THROUGH THE NOISE』VIENNA TENG
『GOOD NIGHT, AND GOOD LUCK』DIANNE REEVES
『LET ME SEE THE FISH』SIGUR ROS
『INTO THE BLUE AGAIN』THE ALBUM LEAF
by imai-eiichi
| 2007-01-04 18:16



