ビーチサンダル・クロニクルズ TEXT+PHOTO by 今井栄一

033【トラウトのソテー、モティスフォント・アビーの庭園】

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 秋の今の時期、イングランド南部や南西部を旅していて何が楽しいかと言えば、秋色に染まった田園風景の美しさはもちろん、やはり食べ物だ。秋鮭=サーモンはもちろん、トラウトなどの川魚がとても美味。海に近ければオイスターも最高だ。
 たとえばケント州など、イングランド南西部を車で巡っていると、田舎の村にある小さなパブで、実に美味しい昼食と出会うことがある。

 そこは、16世紀、17世紀に建てられた石造りの家々が村を作っているような土地。そういった村には川が流れ、美しい雑木林がある。どれも小さな村だ。村名には「○○ヴィラ」とか「○○ステッド」、「○○シャー」という語尾がついていることが多い。
 そういう村に車で入っていき、休憩する。古い教会があれば、ちょっと中をのぞいてみるかもしれない。パブがあれば、間違いなく入るべきだろう。ギネス・ビール、あるいはエール系のビールを、しっかりドラフトで飲ませてくれるような店だ。そのような店では、ただビールを飲むことがすでに儀式である。ある種のワインが奥深いように、イングランドやアイルランドのビールは、時にとても奥深い。このような店では、カウンターでビールを頼むと、バーテンダーはたっぷり3分、長いときには5分ほども時間をかけてビールを注ぎ、泡が落ち着くのをじっくり待ってから、その泡の頂に自分だけの「サイン」を入れて(泡で文字や絵を描くのだ!)、「ついに」という感じで客に差し出す。急がない、決して。イングランドの田舎では、ビールはぐいぐいスピードにのって飲むものではないのだ。そこではビールは、時間を楽しむ友である。

 田舎のパブでは、ひとつの部屋にカウンターがあり、多少のイスやテーブルがあって、というタイプの店が多いけれど、時には伝統的なパブ・スタイルを守っている店もある。つまり、カウンターを中心とした「労働者階級の客のスペース」と、仕切りやドアがあって、ソファや小さなテーブル、暖炉からなる「貴族階級の客のスペース」という、2つの空間を持つパブがそれだ。つまりそれは、ある種の「差別」なわけだけれど、イングランドはある意味で、今も公然とそういった差別が重んじられているというか、認められているというか、強く濃く生きている国だ。そうでなかったら、名前の前に「サー」なんてつけない。

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 さて、今回僕が入ったのは、誰も彼もがざっくばらんに立ったり座ったりできる、カジュアルなパブ。天気が良かったので外のテーブルについた。そこはバックヤード・ガーデン(裏庭)で、すぐそばに小川が流れている。素朴で美しいガーデンだ。庭の片隅に5つほどのテーブルが雑然と置かれている。お昼時だから混んでいて、僕は地元の家族連れらしい4人組に相席をさせてもらった。
 まずはペールエールをワンパイント。こんな秋の木洩れ陽が美しい午後には、ギネスの黒よりもエールの明るいブラウン色が似合いそうだ。実際、届けられたワンパイント・グラスの中で、そのエールはきらきらと輝いていた。いつも通り、まずは旅に乾杯。
 メニューは黒板に書かれていて、定番のフィッシュ&チップス、イングランドのママの味シェパーズ・パイ、サーモンのキッシュなどなどが並んでいる。もちろん頼んだのは「トラウトのソテー、ポテトとガーデンサラダ添え」。隣の家族4人のうち、お父さんとお母さんはそろってそれを食べていた。僕がウエイターに同じものをオーダーすると、お父さんは右手の親指を立てて僕にウィンクし、「正解!」という仕草を見せてくれた。
 もちろん大正解で、トラウトは実に美味しかった。
 シンプルな料理だ。塩をまぶしてからバターでソテーするだけ。客は、好みでそこにヴィネガーかオリーブオイルをふりかけて食べる。僕は両方ともたっぷりかけて食べた。美味しい、実に。ポテトはフリットではなく茹でてもらった。サラダは、後で気がついたのだが、裏庭の片隅に小さな畑とコンテナ・ガーデンがあって、そこからいろいろ摘んでいるのだった。もちろんハーブ類も。新鮮。生き生きとした味、何もかも。滋養と滋味が、ここには感じられる。

 イングランドは美味しい。
 僕は、ロンドンはもちろん、他の地方にも何度か旅をしたことがあるけれど、イングランドではいつも食べ物が美味しいと感じてきた。もちろん、まずいものだってたくさんある。でもそれは、東京の蕎麦屋やラーメン屋の8割が「まずい」か「ひどい」か「特にまた行きたいと思わない」店であることとを考えれば、何処の国だって状況は同じなのだ。
 美味しいところには美味しいものがある。ただ、美味しいところを見つけるのには、やはり運・不運がある。
 美味しいトラウトとエール・ビールに出会った幸運に感謝。
 旅とは、偶然がもたらす幸運が多ければ多いほど、思い出深く、楽しくなるのかもしれない(もちろん、ひどい出来事が後々感慨深い想い出になっていくこともある。でもそれは実は、人間特有の「記憶の自分勝手な整理」がさせるテクニックであって、決して真実ではない)。

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 ここは、ラムジーという郡の中にある、モティスフォントという村だ。ここには、「モティスフォント・アビー」という名の実に美しいイングリッシュ・ガーデンがある。イングランドのナショナル・トラストが管理している正統的な英国式庭園である。
 もう何年も前、僕はこの庭園を訪れたことがあった。目的は取材で、この庭園のヘッド・ガーデナーであるデイヴィッド・ストーン氏へインタビューするためだった。
 アビーというのは、英語で大修道院のこと。ここはかつて大修道院だったのだ。今はナショナル・トラストの管理下に置かれ、そのガーデンが一般に公開されている。昔のアビーの一部も公開されていて、重厚な石造りの建物の中の2つの部屋は、それぞれレストランとカフェになっている。ここのレストランのランチも、実に美味しい。
 ヘッド・ガーデナー、デイヴィッド・ストーン氏が語ってくれた話の中で、とても心に残っているものがある。それは僕が彼に、「どうしてこのアビーのガーデナーになったのか」と質問したときのことだ。

 「私はロンドン生まれだから、実は都会育ちなんだ。ガーデニングも農業も、学校で勉強したことはない。でも私は、幼い頃から野外にいるのが大好きだった。庭いじりが好きな兄がいて、彼が私にガーデニングの基礎を教えてくれたんだ。まだ10代だった私はそのときすでに、これこそ自分にぴったりの仕事だって思っていたんだよ。
 20年以上前の1月のある日、私は初めてモティスフォント・アビー・ガーデンを訪れた。この庭に入った瞬間、私は、この庭が私に語りかける声を聞いたんだ。
 それはある種の啓示だった」

 ストーン氏は、「庭と話ができる」と自分を語った。それは、どんな庭でもそうで、だから彼は「病気になっている庭」もわかるし、「もっと光を必要としている庭」ならそのアドバイスをすることができるという。とにかく彼は、このアビーの庭から素敵な声を聞き、その瞬間、「ここが自分の居るべき場所」と確信した、というわけだ。
 「たとえば、もし君が猫や犬を飼っているなら」とストーン氏は僕に語った。
 「その猫や犬に接するように、自分の庭と接しなければいけないよ。ただ私の場合、人間以上に庭を愛してしまう傾向があるので、そこが家族からすると問題らしいのだが」
 そして彼は小さな声で笑った。
 彼は今日もきっと、犬や猫に語りかけるように自分の庭の植物に語りかけているのだろう。

 10月末のイングランド。秋は急速に深まりつつある。


<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『TIME OUT』DAVE BRUBECK
『FINEST HOLUR』NINA SIMONE
『O』DAMIEN RICE
『EACH NEW DAY』SIM REDMOND BAND
『FROM THE SOIL TO THE SOUL』TOMMY GUERRERO

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by imai-eiichi | 2006-10-23 13:20




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