017【聖地 その2】

先日、FMラジオ番組のゲストに呼ばれて、ホストを務める高城剛さんと30分ばかりスタジオで言葉を交わした。高城さんとは、仕事を通じてだが、かれこれ10年以上前から顔見知りで、ときどき旅先からお互いが「今、どこにいてね・・・」というようなことをメールで伝え合ったりしている。ただ報告し合うだけ。それでどうこう、ということはないし、そこから仕事へ発展することもないし、ただメールを交換しあうだけ。だから、番組の収録のための短い時間とはいえ、「旅」について、今回たまたまきちんと言葉を交わすことになって、なんだか意外な感じだった。
二人の話の中で、「聖地」という言葉が何度か出てきた。それから「ヒーリング・ジャーニー」とか「スピリチュアル・プレイス」といったキーワードも。
彼と会う前に僕はカナダの西海岸へ、それからハワイへと仕事で旅をしていて、この収録直後、スコットランドへ行った。たぶん、そういう一連の旅先のせいだと思う、最近ずっと、「聖地」とか「スピリチュアル・プレイス」といったことについて、(そういった場所がほんとうにあるのかどうか、僕は知らないが)ぼんやりと思いを巡らせている。
収録中、「聖地というものが安売りされているような気がする」というような発言を僕はしたと思う。高城さんはその意見についてこう分析してくれた。
「結局、1980年代のバブル以降、日本人はとにかくモノを買いまくってきたでしょ。モノ、モノ、モノ。車、家、マンション、服、バッグ、靴、何でもかんでも買って買って買いまくった。まぁ、今もそれは続いているけれどね。でっかいビルを建てることが、そう意識の現れだろうし。ただ、一部の人たちはそろそろモノを買うことに飽きてきたんじゃないかな。目に見えるモノをこれ以上買ってもなんだか満足感が得られない。それで、今度は、心の満足感を探しているわけ・・・」
まぁだいたいこんな感じのことを言ったと思う。
精神分析学の本によれば、「人は心が満たされていないと買い物に走る傾向にある」そうだ。失恋してやけ買い、というのは、その傷ついた心(あるいはムカついた心)=非物質を、モノ=物質を買うことで紛らわせるという効能から起こる行動だとか。
ここ1年ほどだと思うのだけれど、女性誌を中心に「ヒーリングの旅」とか「スピリチュアル・プレイスへの旅」のようなタイトルを見かけることが多い(僕は多いと思うのだけれど、どうだろう?) もちろん、「ダイエット」とか「ハワイ」とかに比べれば全然登場してくる数は少ないとは思うけれど。でも、時々だからこそ逆に、なんだか目立つのだ。
これはもしかしたら、一連のロハス・ブームとか、オーガニックとか、そういったムーブメントの一環なのかもしれない。そういったムーブメントの先、あるいは周縁に、「聖地巡礼」とか「スピリチュアル・ジャーニー」とか、そういう発想があるのかもしれない。
一般的な女性誌で「聖地」なんていう言葉が書かれるくらいだから、じゃあこれまで、パリやミラノで買い物を楽しんだり、ニューヨークでブロードウェイを観劇、ワイキキ・ビーチで日光浴をしていた女性たちが、今は、セドナへ心の旅をしたり、オーストラリアのウルルへ行ったりしているのだろうか。そう、「もうワイキキじゃないっしょ。ハワイ島のヴォルケイノでヨガじゃん」みたいな・・・。

雑誌や広告などでしばしば「聖地」などと書かれるいくつかの場所へ、もちろん僕も行ったことがある。それは、そこが実際に宗教的な聖地である場合もあるし(バラナシやエルサレムがそうだ)、地学的に力を持った場所ということもあるだろう(ハワイ島ヴォルケイノ国立公園や、富士山樹海)、あるいは、人による歴史がそう感じさせる場合もあるかもしれない(人が創造したという意味で、スタンディング・ストーン、ピラミッドなどはそうだろう)。
たとえば、ウルルはどうだろうか?
ウルル、オーストラリアの中央にヘソのように存在する巨大な一枚岩、通称エアーズロック。
この巨大な一枚岩は、自然が造形したものだと言われている。先住民アボリジニたちは、このウルルへ観光で訪れる人々に、「ここは私たちにとっての聖地だから、上ったりしないでほしい。ただ遠きに眺めるだけにして欲しい」と訴え、近年では、良識ある人々はあの岩の上に登るということをしないようになった。
アボリジニたちがここを聖地と呼ぶ理由にはいくつかあって、まず単純に彼らが「そこから巨大なパワーを感じる」から。あるいは「自然万物信仰のひとつとして、そこに神的なものを見いだす」から。あるいは、こう語るアボリジニもいる、「この大陸のまこと真ん中にあるのがこの岩。私たちのドリームタイムは、いつもここから始まり、ここへ戻ってくる」。
アボリジニたちは「ドリームタイム」あるいは「ドリーミング」と呼ばれる独特の時間・空間の中に生きている。彼らの頭の中には、古から現在そして未来までが描かれた「絵」があり、と同時に、広大なオーストラリア全体が隅から隅まで描かれた「絵」があるというのだ。その絵はドリームタイムと呼ばれ、すべてのアボリジニの精神の中に備わっているという。だから彼らは地図を持たずに何処へも旅をできる。「どこ=where」だけではない、「いつ=when」へも旅ができるのだ。自在に。そんなドリームタイムの源=ソースが、ウルルだというのだ。
ドリームタイムはしかし、はるか昔のことであるとはいえ、アボリジニたち=人間によって創造されたアイディアだと言える。それは、小説のように、誰かが創造した一編のストーリーから始まったはずだ。そう考えると、その考え方はあくまで人間が創ったものになる。ピラミッドやストーンヘンジのように。
だが、ウルルという巨大な岩そのものは、人間が削って創った美術作品ではない。それは、自然が歴史の中で創造したものだ。それは、自然物=万物であるが、生まれた「聖地伝説」は、やはり人が創造したということになるだろう。
こう考えてきて素朴な疑問に思うこと。それは、果たして「聖地」というのは、人間独自のものなのか?ということ。たとえば、鯨には鯨の、亀には亀の、象には象の、ハクトウワシにはハクトウワシの、コヨーテにはコヨーテの、あるいは、菩提樹には菩提樹の、木蓮には木蓮の、それぞれの「聖地」があるのだろうか。ハクトウワシは、彼・彼女なりの聖地を持ち、時にそこへ飛んでいくだろうか。もしそうなら、この世界には、僕ら人間がうかがい知ることができない、何か不思議な、奇妙な、大きな力というものが備わっているのかもしれない。あるいはこの世界には、僕ら人間が容易には行けない、「別の次元」のようなものがあり、聖地への力は、その異次元からのバイブレーションであるのかもしれない。

・・・などと、これまで一度も読んだこともない雑誌『ニュートン』のようなことを考えているときりがない。さてさて、聖地について考えるのはまたにして、今宵も、ギネスでフットボール観戦をしよう。
<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『BRIGHT SIZE LIFE』PAT METHENY
『THE ISLE』WECHSELGARLAND & WORLD STANDARD
『GAUCHO』STEELY DAN
『PEACE....BACK MY POPULAR DEMAND』KEB'MO'
『RETURN TO FOREVER』CHICK COREA
by imai-eiichi
| 2006-06-30 23:07



