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NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長が、『アンチエイジングな日々』を
軽快な筆致でつづります。 どうぞお気軽にコメントをお寄せください。 |
結び
今、僕はアンチエイジングメディシンに忙殺され、エステティックの公的な役職からは身を引いているが、あるエステティック学院の顧問だけは努めさせていただいている。おそらく日本で一番伝統のあるエステティックスクールで、そこの卒業生は業界の主要なポジションで活躍をされている。 顧問として入学式、卒業式には出席し、カリキュラム等のお手伝いもさせていただいているが、いつも感心させられるのは生徒さん達しっかりした目的意識と熱心な勉学態度である。医学部の学生もあのくらい高いレベルだといいのだが、といつも羨ましくなるほどだ。 問題は彼女等が卒業しても、その努力が報われるような環境がまだわが国では整っておらず、やりがいのある職場があまりにも少ないことだ。 その意味でも、早く世間に認められるようなエステティッシャンの統一資格が誕生し、サロンも法律を遵守し、医療との協調体制が生まれることを切に望む次第である。 (終わり) 掲載:フレグランスジャーナル社発行の美容専門誌「クレアボー」 ▲
by n_shioya
| 2007-02-27 10:12
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リラクゼーションの効果
今後のエステティックが積極的に取り組み、強調すべきは、リラクゼーションの効果であろう。 今までどちらかというとエステティックは、効果は一時的なものでリラクゼーションに過ぎないという言い方をされることが多かった。僕個人の考えではこれは間違いで、リラクゼーションこそこれからエステティックが医療を補完していくべき分野だと思う。 臓器別の分析的な西洋医学が限界に達し、最近では東洋医学、アーユルヴェーダ等かつての民間療法的なものが見直されてきている。それは結果的にみな、リラクゼーションの効果を目的にしているといえよう。 その意味でこれからはエステティックこそがアンチエイジングや代替医療の中心となって欲しい。 今ひとつ言いたいことは、エステティックを学問として捉えた場合、まやかしは困るが今流行のエビデンスに余りとらわれないことである。 人間の体は不思議なものである。今の医学で説明のつかないことはいくらもある。何がその人にとって効き目があったかは、本人にしか分からないことも多い。それを西洋的な分析的な手法で分解すると、せっかくのエステティックの本質が壊されてしまう恐れがある。 その反面、医学的評価法でエステティックに取り入れられるものもたくさんある。例えば脳の活動や変化など、今リアルタイムでカラー画像を追っかけることも可能だ。この分野こそ、医師とエステティックが協力し、例えばボディトリートメントの最中の脳の変化を追っかけ、ハンドテクニックのリラクゼーション効果が実証できればこれに越したことはない。 (続く…) ▲
by n_shioya
| 2007-02-26 10:04
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メディカルエステ
医療とエステティックの具体的な協力体制の一つがメディカルエステであろう。 ただこれははっきり定義されたものでなく、いろいろな形態が可能だし存在する。 大別すると次の三つになるだろうか。 (1)サロンが顧問医師をおき、指導を受ける。 この場合は、医師の指導の内容や方法にばらつきが多いのが問題である。 しかもこれはあくまで医師が医療に関する相談に応ずるということで、サロンで医師の指導のもとにエステティッシャンが医療行為を行なえるということではない。 また、医師としてもクリニックでないサロンで、医療行為を行うことは出来ない。 (2)サロンとクリニックが連携して、施術と診察に当たる。 具体的には医療的な施術が必要な時はサロンからクリニックに紹介し、クリニックからはエステティックだけで充分な患者、また医療の補助手段としてエステティックが望ましい場合にサロンに紹介する。 この場合はしばしば二つの施設が同一ビルの同一フロアか、上下のフロアの場合が多い。例え経営母体が同一であっても、入り口を含め両者は完全に分離されていなければならない。 この場合でも、サロンのクライエントがクリニックに移って医療を受けることは出来るが、医師がサロンに出向いて医療行為を行うことはできない。エステティッシャンがクリニックに出向いてエステティック施術をするのは可能である。 (3)クリニックでエステティッシャンを採用し、クリニックの中で医療と一緒に施術を行う。 この場合も、いくら医師の指導下でもエステティッシャンはエステティックのみで医療行為は行えない。 これらの形態にはそれぞれのメリットデメリットがあるが、問題点を浮き彫りにするため それぞれのデメリットを列挙すると(1)の場合、医師の関与が形式的だけになり、メディカルと 言ってもイメージだけのものになりがちである。 (2)の場合は経営母体が違うと、両者の責任者の間で患者やクライエントの取り合いになり、 連携がスムーズにいかなくなることがある。 また、経営上の相乗効果を期待すべきでなく、それぞれが自前で成立を考えるべきで、相手方に頼ると両者ともが立ち行かなくなってしまうことが多い。 (3)の場合は施設全体がクリニックとして設備上も保健所の規制を受け、また、サロンとして広告が認められなくなる。 メディカルエステがどのように発展すべきか、まだ試行錯誤の段階だと思うが、クライアント側には二つの正反対の受けとめかたがあるようだ。 まず、メディカルがあることで安心感を持つタイプ。それゆえにメディカルエステという形態が生まれたわけである。 反対に、自分はエステティックだけ受けたいので、医師の関与は望まないし、クリニック的なイメージは御免だというタイプもある。 どちらを重視するかは、オーナーがサロンの顧客や内容をどのようなものにしたいかで決まる問題であろう。 (続く…) ▲
by n_shioya
| 2007-02-25 07:08
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エステティックの抱える問題
こうして僕は十数年エステティックと関わるようになり、最近までは日本エステティック研究財団や日本エステティック機構の理事長までおおせつかり、僕なりにエステティック業界の発展のお手伝いをさせていただき、医療との良好な連携を築くべく努めてきたつもりである。 だがエステティック業界の抱える問題は、門外漢には想像もつかぬくらいややこしい。 いくつもの関連団体が乱立し、その勢力争いや足の引っ張り合いはどこの世界にもありがちなのであえて触れないが、まず、国家資格はおろか業界の統一資格さえ存在しない。 また、料金制度も不透明で一番のトラブルの原因となっている。 これはいわゆる前受け金の問題で、財団の登録店制度である程度対処できるようになった。 今ひとつの問題は医療とエステティックの境界領域の線引きである。 エステティックの目的をあえて二つに分けると、フェーシャルやボディのようにリラクゼーションが主たるものと、電気脱毛のように効果を求めるものがある。 先ほど述べたように医療の側ではメス離れがすすみ、より侵襲の少ない美容皮膚科的なものへとすすみ、さらにはエステティックに近づいている。反対にエステティックはより効果を挙げようと限りなく医療に近づく。 このため永久脱毛の分野で、医師とエステティックサロンの間で法律を楯にとった勢力争いが続き、両者の溝が深まってしまったのはお互いにとって不幸なことであった。 (続く…) ▲
by n_shioya
| 2007-02-24 21:32
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ブログの種切れというわけではないが、クレアボーに依頼された原稿が記事になったので、数回に分けて掲載する。
テーマは「エステと医療の連携」である。 大学病院でのエステティックの導入 医療とエステティックのかかわりを論ずるにあたり、まず僕の北里大学での経験をお話したい。 北里大学で形成外科を開設してまもなく僕は美容外科も併設し、二重まぶた、隆鼻術そして皺伸ばしの手術を大学病院で積極的に取り組むことにした。 そしてある時、僕はふと気がついた。 我々は手術がすべてだが、患者はそうじゃないんじゃないだろうか。誰にしても決して手術はありがたくはない。しかし患者さんが我々のところに来るときは、考え抜いたあげく、自分をきれいにするにはこれしかないと、思いこんでくるわけだ。 しかし、と僕は思った。 その前にまだまだやれることがあるのではないか。たとえばお化粧。もし、メークでごまかせるものなら、それに越したことはない。手術は危険を伴うし、元には戻せない。また、女性なら必ずお化粧はする。手術の切開線一つとっても、メークを前提としてデザインした方がはるかに隠しやすいのではないだろうか。 また、お化粧以外にも、服飾、髪型等手術前に総動員して、検討できることはいくらもあるのではなかろうか。その上で、ここだけはどうしても手術でしか解決できません、と煮詰まったところで我々の出番になれば、どんなに無駄な危険を冒さずに、またこちらも安心して手術に踏み切れるのではないだろうか。その中には当然、心理カウンセラーも含まれる。 こうして、カネボウの協力で、エステティッシャンを派遣していただくこととなった。そのころカネボウの研究所には、吉田さんという研究熱心な所長さんがおられた。面白いですね、ということでリハビリメークという、新しい試みが始まった。 まず、美容外科希望の方に、どこまでエステティックやメークで改善出来るか、専門のエステティッシャンが、丁寧に指導する。その上で、やはり手術が必要となれば、今度は医師と共同で、コンピューターで、シミュレーションを行う。そして、ゴールに関して患者との間で納得がいったところで、手術に踏み切る。 手術後も、エステティッシャンがスキンケアをかねたメークの指導を行う。 エステティックとの共同作業は二つの副産物をもたらした。 まず、術後のスキンケア、特にマッサージは、傷跡の治りによいことがわかった。傷跡はしばしば赤く盛り上がるものだが、これがマッサージで早く平らに柔らかになる。皮膚移植の跡も早くなじんでくれる。 またフェーシャルを受けることが、カウンセリングという効果をもたらすこともわかった。我々は手術が中心で、どうしても十分に患者との話しに時間が割けない。診察室では緊張して、患者も聞きたいことが聞けない。 それが、エステティックの施術室でエステティッシャンに三十分ほど、ゆっくり顔などマッサージしてもらっているうちに、身も心もリラックスして、気楽に悩みをうち明け、施術者の優しい対応で、心が満たされていく場合がしばしばあった。 それだけでなく、痩身、脱毛など、これから医師とエステティックの接点は、広がる一方であり、両者の協力体制がもっともっと、推進されてよいと思うようになった。 (続く…) ▲
by n_shioya
| 2007-02-23 11:09
| エステティック
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米軍病院では、すべてが驚きであった。
まず、聴診器が違う顔をしている。学生時代のは、耳に当てる部分が、耳の穴に唯つっこむようになっているだけの、明治の頃から変わらぬスタイルで、今のイヤフォーンの様にバネの支えを持たず、僕の様に耳の穴が小さいとすぐ外れてしまう。その為実習で聴診に難航して指導教官に訴えると、テメー、誠意がないからだ、と必勝の信念で自滅していった、旧日本軍のメンタリティでどやされる。おかげで僕は心音もろくに聞けないまま、医学部を出されてしまった。 もっと本質的な違いは、ディスカッションである。日本の医学部では、教授がオールマイティで、批評は許されない。まして他科の教授が口を挟むことはあり得ない。すべてのカンファレンスは国会の審議と同じで、時間潰しの茶番である。 それが、アメリカ式のCPC(臨床医と病理学者の合同会議)では、ふだんは縁の下の力持ちの病理の教授が主役である。肝心の病理の確定診断を伏せ、途中経過だけを明かして、当該科以外の教授に診断を試みさせる意地の悪い試みである。結構有名な教授でも間違った診断をくだし、学生も居並ぶ満座の中で、恥をかかされる。なかなかに楽しめる知的ショウである。このような面子を抜きにしたディスカッションは、日本の医学部では不可能であったし、今も成功しない。官僚と同じく日本の教授連は、自分の恥部に関しては、なりふりかまわず守秘義務主張する種族であるから。 だが最大のカルチャーショックは、コーヒーショップにあった。前途の理由で我々は将校に誘われないと入れなかったが、そこで始めてチーズバーガーなるものに遭遇した。その美味なこと。しかも一緒の飲み物が、チョコレートのシェークである。このような取り合わせは、食いしん坊で甘党の僕にとっては、夢のような饗宴であった。 ジープのかっこよさで骨抜きにされた男がチーズバーガーとシェークで、アメリカに魂を売り渡したとしても、当時の日本の食糧事情を思えば、まあ許されることではなかったろうか。 さて一年して、豚鍋屋のインターンたちは、一人を除き、皆アメリカに渡った。 数名はアメリカに永住し、帰国した者もみなそれぞれの専門で花を咲かせたのち、すでに引退した者も多い。 そして時代は移り、進駐軍といってももう通じない世代が、最も軽便な食生活として、当たり前の様にチーズバーガーを自分で買って、気楽に食するようになったのである。 ▲
by n_shioya
| 2007-02-22 13:38
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銀座クリニックを開いて早一年になろうとする。
机の周りがあまりにも乱雑になり、身辺整理をしていたら昔の掲載記事が目に留まったので、ここにご紹介する。 2000年9月の「諸君」の特集「進駐軍がやってきた!80人の証言」の一つである。 その日の昼も我々四人は、築地明石町の一膳飯屋の二階で豚鍋をつっついていた。 川向こうには、黄色い煉瓦の聖路加病院が聳えている。 戦後まもなく聖路加病院は進駐軍に接収されて、海軍病院(今の国立がんセンター)と同愛病院を合わせ、東京陸軍病院として米軍の極東での医療センターとなっていた。我々がそこでインターンをしていたのは昭和三十年のことである。 進駐軍と名前はごまかしても、英語ではJapan Occupation Forcesであり、立派な占領軍である。病院内はオフリミッツ(日本人立入禁止)で、中ではすべて軍票しか通用しない。 我々インターンは、医療チームの一員のドクターであっても、日本人つまり被占領国の国民なので、軍票はもてない、従って軍票が必要な院内食堂も使えない。そこで昼にはこうして、近所のチャブ屋で昼飯をかっこむ仕儀となる。 我々というのは、新潟大学の橋本、大阪大学の三木、日本大学の柳沢そして僕の四人である。この四人の他に、インターンは北は北海道、南は九州と日本全国から集まった十二人で構成されていた。 その日の話題は、そろそろ決まりかけたそれぞれの留学先のことであった。 出身はまちまちだが、皆インターン終了後は、すぐにアメリカに留学しようと、その足がかりに、米軍病院でのインターンを志願した者ばかりである。 皆、あの日を十三歳の少年として、経験したのだった。あの日のことは今でも鮮明に覚えている。東京大空襲の後、僕は父の田舎の宮城県の白石に家族で疎開していた。 米軍の本土上陸も間近いということで、我々は毎日竹槍の練習にかり出されていた。教官は我々を国道沿いの雑木林に連れ込み、あの国道からアメリカ兵が現れたら、飛び出してって突き殺してやるんだ。いいか、わかったな。はい。という毎日だった。 だが幸い、その前に日本は降伏した。お粗末なラジオで、雑音がガーガーと入り、天皇の声もうわずってとぎれとぎれで、かろうじてアナウンサーの、「国体は護持されました。しかし我が国は和をこうたのです」と言う解説で、ああ、日本はまけたんだ、とわかったくらいである。 一寸した虚脱感と言うか、ああ、これで助かったんだという、解放感が体中からわき出てきたのは、それから一寸間をおいてからだった。 その日、空は青空で、日の丸を付けた戦闘機が一機、「デマに惑わされるな、最後まで戦うぞ」と言うアジビラをまいていった。やっぱりそんなうまい話はないかと、一瞬、がっくり来た覚えがある。 その鬼畜米英は、ジープに乗ってさっそうと進駐してきた。後ろにトレーラーをつけて、後から後から仙台方面へと、泥道の国道を疾駆していった。 そして鬼畜米英に、我々が初めて覚えて使った英語は、“give me chocolate”だったのは言うまでもない。米国留学にあこがれるのは、その頃の自然の成り行きであった。 (続く…) ▲
by n_shioya
| 2007-02-21 20:29
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駄目となるとなお欲しくなるのが人の習いである。
このところ、ベーコンエッグの大皿を夢にまで見るのはそのためかもしれない。 今までだって朝飯はカフェオレとトーストですまし、ベーコンエッグはホテルにでも泊まらなければ、家でわざわざ食べることはなかった。 だが、最近はメタボリックシンドロームの影に脅かされ、糖分は制限、ローファットそして減塩という禁欲生活が続いているせいか、ご馳走の妄想に悩まされる。 僕にとってオレンジジュースにはじまって、目玉焼き二つにベーコンストリップ3,4枚という朝食はアメリカ文化の象徴である。 フルブライト留学も終わりに近いある日、ボスのワン教授とモホーク航空のプロペラ機でニューヨークの北を目指して飛んでいた。 ダナムラというニューヨーク州の刑務所に月一回通って、模範囚に形成外科の手術を行っていたのである。 眼下にはレークプラシッドが夕日を受けて金色に輝いている。 “どうする、お前?” “又戻って来たいです、2年たったら。” フルブライト留学生は建前上そのままアメリカには永住できない。いったん故国に帰り最低2年は我慢し、移民として入りなおすことになる。それには又面倒な手続きが必要だ。 ややあってこう言われた。 “アメリカの生活は豊かだ。だがベーコンエッグがすべてではないぞ。” 蒋介石の下で軍医少将だったワンが、どうしてアメリカに移住したか、詳しくは聞いたことはなかった。 温厚で口数は少ないが、その短い言葉には何時も重みがある。 “だがな、いったんアメリカに永住を決めたら、かって日本人だったことは綺麗さっぱり忘れるんだぞ。” ワンの口調は何時になく厳しかった。 このような覚悟、今の若い人には分かるまい。 そのころ日本はまだ発展途上国だった。そして地球はまだ今よりずっと広かった。 帰国したのは東京オリンピックの年である。 日本中が活気に溢れていた。 誕生したての東大の形成外科は、ネコの手も借りたい忙しさで、僕のような若造でも存分に腕が振るうことが出来た。その後横浜市大を経て、新設の北里大学へと、忙しさに生きがいを感じているうちに定年となり、それからもう10年たってしまった。もう75歳である。もはやアメリカに帰るには時機を失したといわざるをえない。 だが今でもベーコンエッグを口にすると、あのプロペラ機の中での会話を思い出す。 そして、もし、あの時アメリカに舞い戻っていたらと考えてしまうのは、味噌汁の生活に戻れなかった男の悲哀かも知れぬ。 ▲
by n_shioya
| 2007-02-20 21:54
| 食生活
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2週間ほど前、キレーション時の血圧がぴょんと170近くになり、安静時でも150前後なので、これはヤバイとここ10日間ばかり減塩に努めてきた。
その目で見直すと日本食は意外に塩味が濃いのに気づく。 家では何とかなるが、外食で減塩は苦労する。 好きな漬物も我慢し、寿司は醤油抜きでパクつき、天丼ならタレを少なめにと頼み、ざる蕎麦の後は蕎麦湯を残ったタレに入れて飲むのが楽しみだがそれもぐっとこらえ、涙ぐましい努力のお陰で、このところ収縮期の血圧は130前後で収まっている。 短期間で意外に早く下がるものである。 これが120台まで下がるかどうか、今しばらく味気ない食生活を続けるつもり。 ▲
by n_shioya
| 2007-02-19 23:31
| 食生活
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![]() やっと受験が終わり兄は中学に、妹は小学校にそれぞれ行く先が決まったので、お祝いを兼ねてランドマークタワーで食事をし、タワー内の有隣堂で新刊書を物色した。 すると又新しいアンチエイジングの啓蒙書が目に留まった。 「Younger You」という題名で、著者はブレイヴァーマンというニュー・ヨークの医師である。 ダイエットを中心にした統合医療を説いているが、脳神経の専門家らしく抗加齢の軸を脳の働きにおいているのが興味をそそり、第一章を読み終えたところ。 アンチエイジングの書物は食傷気味だが、この本は何か新しい視点というか、括りが期待できそうである。 ▲
by n_shioya
| 2007-02-18 22:58
| アンチエイジング
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![]() 塩谷信幸
1931年生まれ
東京大学医学部卒業 北里大学名誉教授 北里研究所病院形成外科・美容外科客員部長 AACクリニック銀座 名誉院長 NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長 見た目のアンチエイジング研究会代表世話人 東京米軍病院でのインターン修了後、1956年フルブライト留学生としてアメリカに渡り、オルバニー大学で外科を学ぶうちに形成外科に魅了される。数年の修業の後、外科および形成外科の専門医の資格を取得。 1964年に帰国後、東京大学形成外科勤務を経て、1968年より横浜市立大学形成外科講師。1973年より北里大学形成外科教授。 1996年に定年退職後も、国際形成外科学会副理事長、日本美容外科学会理事として、形成外科、美容外科の発展に尽力している。 現在は、北里研究所病院美容医学センター、AACクリニック銀座において診療・研究に従事している。 >>アンチエイジングネットワーク >>NPO法人創傷治癒センター >>医療崩壊 >> 過去のブログはこちら(2005年5月26日~2006年5月26日) 以前の記事
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