ウーマンエキサイト ガルボ Exciteホーム | Woman.excite | Garboトップ | Womanサイトマップ
ガルボウーマンエキサイト
NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長が、『アンチエイジングな日々』を
軽快な筆致でつづります。 どうぞお気軽にコメントをお寄せください。
カテゴリ:医療全般( 290 )
たそがれのパンケーキ
マカンバーワンそしてエリオットの三人は、それぞれオルバニー総合病院、セントピータースそして退役軍人病院を根城にしていた。

レジデントは常時三人いて、一人ずつ三つの病院に配属され、三カ月毎に交代した。
全員毎朝、7時にセントピータースに集合する。前日の報告と、当日の役割分担を確認すると、オルバニー組と退役軍人組はわかれて、それぞれのでの八時の手術スタートに間に合うよう、病院に向かう。セントピータース組は残ってやはり八時から手術を開始する。

土曜日は総回診の日である。
七時にセントピータースに全員集合し、そこでの回診を終えると、オルバーニー総合病院そして在郷軍人病院へと、ニュースコットランドアベニューを練り歩く。
マカンバーの黒のキャデラックを先頭に、ワンの銀のビュウイック、続いてエリオットの赤いクライスラー、その後をレジデントの三台のポンコツが、排気ガスを吐き散らして追っていく。
この六台の大名行列は、毎土曜市民の目を楽しませるページェントだった。

レジデントは三人なので、当直は三日に1回である。当直の晩は三つの病院をカバーするので、病院には泊まらず、自宅で待機するのが許された。
しかし、ほとんど毎晩、どちらかの病院に呼び出され、当直の晩は自宅でゆっくりできることなど、まずなかった。

オルバニーは冬が長い。零下10度、20度の凍てつく寒さもしばしばである。しかも十二月から四月まで、雪と縁が切れることは余りない。
夜半過ぎ、電話で起されて救急室に向かうとき、凍り付いた路面を走る怖さは、東京住まいの方々にはわかるまい。
何時自分自身が救急室のお世話になるかといった、雪国ではいちいちチェーンを巻くことはしない。冬中スノータイヤを穿きっぱなしにする。僕はレジデントのなかでもとりわけ貧乏だったので、そのスノータイやも穿いてなかった。

何時頃からか、夕方仕事が一段落したところで、レジデント三人で近くのパンケーキ屋に集まるのが、習慣になった。
当直の奴に患者の引き継ぎをする、というのが表向きの理由だったが、実際はマカンバー達、いわゆるアテンディングに対する不平不満をぶっつけあい、何時間もおだを上げることが多かった。
要するに、日本のサラリーマンの赤ちょうちんのアメリカ版である。
俺達の気持ちを理解してくれない、とか待遇が悪すぎるとか、約束が違うとか、俺ならこうするのにとか、ようするに焼酎パンケーキになっただけで、使われるものの心理は、不満はけ口は洋の東西を問わないものだ
by n_shioya | 2008-04-12 00:45 | 医療全般 | Comments(4)
オルバニーの街
ここで一寸、オルバニーの町を散策してみよう。

オルバニーはニューヨークの州庁の所在地である。
町の中心には、古めかしい灰色の建物のニューヨーク州庁が、ダウンタウンを見下ろすように立っている。その向こうにはハドソン河で、昔は港町として栄えていたそうだ。

反対方向にセントラルアヴェニューを、西に進むと、ワシントン・パークにぶつかる。そこを左に折れるとニュースコットランド・アヴェニューに入り、しばらく行った右側に高くそびえる赤茶のビルがオルバニー総合病院だ。
オルバニー医科大学の基幹病院である。
向かいに立つ、十階ほどのの四角な白い建物が、退役軍人病院、ヴェテランズ アドミニストレーションホスピタル(通称VAホスピタル)である。
ニュースコットランドアヴェニューはその先で緩やかな上り坂となり、ゆっくり右にカーブして、十字路に出ると、その角に明るい茶色のセントピータース病院がある。

その先を車でドライブを続けると、十五分ほどで、緑の濃い丘陵地帯が現れる。サッチャーパークである。
キャンプサイトやピクニックグラウンドがあり、真冬以外はバーベキュー、乗馬など、市民のリクリエーションの場になっていた。

そして、オルバニー総合病院、セントピータース病院、そして在郷軍人病院の三病院が、マカンバー教授の形成外科の研修病院となっていた。
マカンバーには、ワンエリオットという二人のパートナーがいた。パートナーシップを組んでいた。

同じ形成外科医でも、この三人はそれぞれ持ち味が違っていた。
マカンバーは職人的というか、手際も仕上がりも、三人のうちで最も優れていた。しかし新しいことには極端に憶病で、すべてにじつに細かい。なかなか満足させるのには、骨が折れた。
ワンは中国系である、というか、かっての将介石軍の軍医高官だったという。
元来外科出身だったこともあり、大陸的というか、細事に拘泥せず、三人のうちで僕は一番付き合いやすかった。年はマカンバーより上だったと思う。
エリオットは最年少で、二年前にレジデントを終えたばかりだった。そして、一年ずつ手の外科と、頭頚部の外科を、国内留学で学んで、マカンバーのパートナーとして加わったばかりである。
マカンバーが保守的な分、エリオットが新機軸を出して、プログラムに活気を与えていた。
by n_shioya | 2008-04-11 15:54 | 医療全般 | Comments(4)
フルブライト留学・・・その3
ここで最近わが国でもよく耳にするレジデント制度とは、一体なんなのか説明を試みることにする。

一言で言えば、専門医になるための修業中の身分である。つまり、いわゆる医局員の下っ端と思えばよい

わが国でもレジデントという呼称だけはつかわれても、中身は雲泥の差がある。その理由は彼我の医療制度の違いにある。
まず、アメリカでは、ほとんどの病院がいわゆるオープンシステムである。
患者は入院料を病院に払い、治療費は医師に直接払う仕組みになっている。又、日本流の大学付属病院はほとんど無く、ほとんどが市中の一般病院で、大学と提携しているだけである。しかも大学教授はほとんどが開業医である。自分でオフィスを構え、月給を大学からもらわず、直接患者から受け取る治療費が収入である。そして大学から称号をもらい、その見返りに学生を教える。

大学は傘下に多数の連携教育病院を持ち、教授、スタッフは、その病院に患者を送る権利をもらう
スタッフはそれぞれの患者の希望、病状に応じて傘下の病院から選んで、入院先を決めて送り込む。
自分の患者は常時数個所の病院形成外に分散してはいっているわけで、毎日、それぞれの病院を回診し、パートナーがいれば手分けして手術を行う。。
つまり教授は一つの病院に何時もいるわけではない。それぞれの病院に常駐して、日夜患者の世話をするのが、インターンであり、レジデントである。

教授、助教授というのは、称号であって命令系統を意味しない。それぞれが独立して行動する医師である。その間にパートナーシップが結ばれて初めて、上下関係が生ずる。

レジデントを終えて、スタッフ、これをアテンディングというが、になれば平等である。
そして収入も、一桁も二ケタも違ってくる。
つまり、レジデントとアテンディングの間には、このようなはっきりした差があり、厳とした一線が引かれている。

わが国のように、教授が人事権を持ち、オールマイティであれば、助教授以下すべて、レジデントと余り変わることがない。

今一つレジデント制度の特徴は、専門医制度を前提にしていることである。一定期間に、規定の症例をこなし、専門医試験受験の資格を得て、専門医試験を通って、初めて専門医の資格が与えられる。

外科の場合、4年から5年のレジデントが必要とされている。外科と言っても、広い意味の一般外科であり、腹部の外科のほか、整形外科、脳外科、婦人科、泌尿器、心臓外科すべて幅広いロテーションが要求される。

僕も最初の二年で、骨折の手術も遣れば、子宮摘出、前立腺、そして開頭術まで経験した。その中には勿論、形成外科の三カ月もあった。
どのかも回れば、面白くなる。始めは心臓外科を志していた僕も、新しくロテートするたびに、迷いが生じた。

なかでも魅力を感じたのが形成外科だった。
外科の魅力の一つは自分で診断を確かめられることにあるが、今一つは手で細工をする楽しみにある。
しかも形成外科では、造形を楽しみ、その仕上がりを確認する喜びがある。
皮膚を採取し、引っ張ったりつまんだりして、癌や外傷で失われた、耳や鼻を造る。
ま、お針子じゃないか、といわれればそれまでだが。
すべてが機械化し、ロボットが手術もしようという時代、しこしこと手作りにいそしむ、アナクロニズムの極致といえる。

だが、男一匹、一生の仕事とするには、というためらいがあった。
そんなある日,図書室でふと目にとまった本があった.
緑の背表紙で,濃い,グレーの変形?版の二冊組みで,タイトルは「Art and Principle of Plastic Surgery」 とあった.
著者はギリエスミラード. 豊富な写真と洒落たカートゥーンに引きずりこまれて, ぱらぱらぺージをめくるとこれが実に面白い.教科書風ではなく, 二人の著者の形成外科との関わりが、時代の流れとともに、真にユウモラスな筆致で描かれている.

後で判ったのだが, ギリエスはニュージーランド生まれのイギリス人で, 近代形成外科の始祖であり, 一世代後のミラードはアメリカ育ちだが, ギリエスに傾倒しと言うか, 肝胆合い照らした 二人の合作がこの名著であった.

夢中に読みふけって二週間. 大部の二巻を読み終えた時, 僕の気持ちはも決まっていた。
形成外科の教授、マカンバーに弟子入りをお願いしたのはその翌日である。
by n_shioya | 2008-04-10 23:59 | 医療全般 | Comments(3)
フルブライト留学・・・その2
こうして僕は、ニューヨーク州のオルバニー医科大学で、今度は外科だけのストレートインターンを始めることとなった。

アメリカに現在残された唯一の奴隷制度がインターン制度である,と日本を発つ前に誰かに聞かされていた.だが,僕は,僕に言わせれば,奴隷制度より苛酷なものがあれば,それがアメリカのインターン制度だと,今僕は言いたい.
労働条件だけではない,勿論それも奴隷並みだが,そのあしらわれかたである,非人間的なのは.

最近では少しよくなった,いやインターン制度そのものが廃止されたとも聞くが,僕達の頃は先ず当直が一晩置きだった.
その合間も勤務は普通に行われる.普通というのは一日十六時間以上の労働である.つまり寝るのは一晩置きにまあ,せいぜい四,五時間といった處.その貴重な睡眠時間にアメリカ人のインターンは徹夜でパーティなどして遊ぶのだから,ひ弱な日本人の付き合える限りではない.
しかし慣れというのは恐ろしいもので,そんな僕でも全体の流れに乗ると,なんとか体もついてきて,やがては面白可笑しく,アメリカ人に伍してやってくようになるのだった.

インターン制度の目的は卒後の臨床教育のスタートとして,全科をロテートすることにある.
普通の人は,卒後教育は専門家に成るためのもので,医学部を出た時点で一応は医者が出来ると思っているが,実はそうではない.医者の実地習練を始める基礎が出来ただけと考えたほうがよい.
そこで専門の修行を始める前に先ず医学一般の全般の腕を磨く為にインターンという期間が設けられていたのだ.これは一年間である.一と月づつ別の科を,都合十二の専門の科を一年で回るのがインターンだ.

たったの一月でそれぞれの科を習得させるのだから,仕事の量が滅多やたらに多い,過労ぎみなのは止むを得ない.というのが病院側の言い分である.
むしろ十分な経験が積めるように、患者数とベッド数に見合うだけしか,インターンは採用できないよう,外部機関に監査されている.だが結果的には搾取である事も間違いない.

しかし外科をやる者でも,心筋こうそくの内科患者を扱い,又精神科を志したものでも手術前後の外科患者に接するのは,長い目でみれば甚だ有意義な制度である.

インターンのロテーションにも幾つか種類があって,完全に外科,内科全科を回るロテーティングインターンと,外科サイド中心か、内科サイド中心に回る、ストレート・インターンとに別れていた.
自分の志望が外科か内科がはっきりしている場合,ストレート・インターンをとっておいた方が有利であった.

僕はすでに曲がりなりも陸軍病院でロテーティング・インターンを終えていたので,外科のストレート・インターンをとったのである.
此のころ、僕の興味は心臓外科にあったので、形成外科も回ったはずだが、余り記憶にない。

心臓外科のレジデントになるためには、まず一般外科を修めなければならない。そのまま、オルバニー大学で外科のレジデントをとることとした。
by n_shioya | 2008-04-09 23:59 | 医療全般 | Comments(4)
僕が形成外科医になったいきさつ・・・その1
僕が医学部に入ったのは昭和26年、敗戦から六年たって戦後の混乱がやっとアメリカ的秩序で整理されてきたころだった。

当時未だ日本には形成外科は存在していなかった。が、既に美容外科は美容整形という名で、行なわれていた。
そのころの記憶をたどってみると、さだかでないが、「丸ビル整形」と「十仁病院」という名前が、定期的に新聞広告に乗っていた覚えがある。あまり茶の間の話題としては不適当で、猟奇的な目で見られ、ひそひそと話されていた。

今述べたように形成外科は未だ存在しなかったが、美容整形は医学部では講義のなかでふれられることもなかった。これは今でもほとんど同じだが。変わりないが。
美容整形といえば、ありゃ医学ではない、あんなのに関るのは医師の面汚しだ、という暗黙のきめつけがあった。

ほとんどの授業は最初の一二回で、あとはしょることにしていたがその中で唯一、一年間皆出席した課目がある。芸大の中尾教授の美術解剖学であった。
解剖学は医学部の一年でまず洗礼を受ける医学の基礎である。そして最終学年で臨床に進む前に、今一度、臨床の立場からおさらいをすることになっていた。その中に、当時解剖の助手であった中尾先生の生体観察がふくまれていた。
古今の名画を使っての、美の基準の解剖学的な裏づけ、そして生身のモデルを使っての、人体各部のデモンストレーション。
医学にまだ違和感と感じていた僕みたいなを魅了するものがあった。

昭和三十年に医学部を卒業した僕は、アメリカに留学したい一心で、米軍病院でインターンをとることにした。

当時は聖路加病院、同愛病院、そしてかっての日本の海軍病院、この三施設を統合し、東京陸軍病院として、極東における米軍の医療のセンターになっていた。

戦後も未だ間もないころで、わが国の医学の遅れは覆うべくもなかった。
のみならず日本の大学病院では、インターンは盲腸のように邪魔者扱いされていた。
占領軍の押し付けである、というのが表向きの理由であったが、要は、卒後教育におどろくほど無関心な日本の医学教育のしわ寄せに過ぎない。そのつけが十年後、東大紛争の導火線となるのだが。

その後で経験したアメリカのインターン生活に比べれば、ほんのお遊び程度のものだったが、四年間、日本の医学部で惰眠をむさぼっていた僕には、すべてが驚きで、新鮮だった。

一例を挙げれば輸血の方法である。未だ日本では、血液型が同型ならよいとされていたが、米軍ではクロスマッチといって、輸血すべき血液と患者の血液との適合性を現場でチェックする。そして輸血方法も点滴といって、タラタラとたらし、注射器で一気に注入などはしない。
オメーな、輸血ってのは、一気にやっちゃいかんぞ。ドント心臓に一時に血が行くと、心臓が止まっちまうんだ。俺、昨日それで一人殺しちゃった。
と平気な顔で教えてくれた、大学の医局にいる一年先輩のことを思いだした。

陸軍病院だから、骨折、火傷そして腹部外傷等々、圧倒的に外傷患者が多かった。
極めて特種な、難しい症例は本国に空輸されたが、それ以外ほとんどすべて、対処できるだけの設備と専門家がそろっていた。

当然ながら、形成外科医も配属されていたが、インターンのロテーションには入っていないので、余り接触はなかったし、叉積極的に近づこうとはしなかった。デヴィッドソンという名の、がっしりした赤ら顔の男だった。

あいつは好色漢だといううわさが、インターンの間で広まっていた。なにも証拠があるわけでない。ただ、赤毛だったのと、形成外科医だからという偏見である。
形成外科とは美容整形、つまりいかがわしい奴、という固定観念の虜に過ぎなかった。
後年、形成外科を志し、形成外科しか生きる道はないとまで思い込むようになった男にしても、当時はその程度の認識だったのだ。

さて、一年でインターンは終わり、無事フルブライトの試験も通り、アメリカでの苛酷な生活八年が始まる。(この項続く)
by n_shioya | 2008-04-08 20:14 | 医療全般 | Comments(3)
春の移ろい
我が家に春の訪れを告げた雪柳は散り、父親も去った。
そして開いた桜も今は散り始めた。
親を失うというのは悲しいものである。
春の移ろい_b0084241_9425345.jpg

by n_shioya | 2008-04-04 22:07 | 医療全般 | Comments(3)
ねんきん特別便
ねんきん特別便_b0084241_10585753.jpg悪名高い「ねんきん特別便」が送られてきた。
再送付、重要、親展と封筒にはくどく印刷されているが、最初の通知も受け取った覚えはない。

中身を改めて拝見すると、なるほどわかりづらい。
これで年に何万円か年金が増えるならよく読んでもいいが、その先の手続きやらを考えると、読むのもばかばかしくなる。だいたいこんなことは被害者にやらせないで、加害者がやるべきことだ。
こんなおざなりのものに、また莫大な税金を無駄遣いされるのではやりきれない。
そしてこの印刷業者もどうせ、天下りか随意契約で、社保庁にキックバックしているのだろう。

そもそもは社保庁ちょんぼというか、振り込めさぎではないか。
まず、当時の責任者を刑務所に送り、かかわったもの全員を罷免して、給与を没収して年金補填に当て、道路公団で強制労働させれば、道路特定財源もカットできて一石二鳥にも三鳥にもなるではないか。

大体福田総理なぞ、やる気のない人間を無理に首相に仕立てなければならなかったとは、自民党末期症状ですな。
さっさと解散か総辞職をしていれば、今頃日銀総裁問題で醜態をさらさずにすんだのに。
だが、それに対する民主党といったら・・・もう何もいうまい。
by n_shioya | 2008-03-31 23:22 | 医療全般 | Comments(4)
アンカレッジに緊急着陸せよ!
定時にデトロイト空港を飛び立ったノースウェストのジャンボ機がクルージング・アルティチュードに達したとき、突然医者を呼び出す「機内放送」が流れた。
しょうがない、と覚悟を決めてスチューワデスに案内されファーストクラスに行くと、青ざめた顔の若い女の子が毛布に包まって寝かされていた。
脈も血圧もかろうじて正常範囲である。
離陸後まもなく突然に性器出血が起こり、タンポンを詰めて止血を試みたところだという。
今はやっと落ち着いているようだ。

“すぐ戻ろう”、僕はスチューワデスに言った。
スチューワデスは答えた。
“離陸直後に引き返すのは、燃料タンクが満タンのためいささか危険ですが。”
しかもその子は別の問題を抱えていた。

日本に留学中のアメリカの女の子だが、夏休みでデトロイトの実家に戻っている間に、家族に内緒で妊娠中絶の手術を受けた。
術後日も浅く、まだ出血の恐れがあるのでフライトを延期するよう医師に言われたが、新学期を明日に控え、学校に戻らないと家族にばれので無理して予定の便に乗った以上、絶対デトロイトには戻れないと泣きながら懇願する。

スチューワデスの案内で僕はコックピットに入った。
パイロットチャートを広げ、航路を説明してくれた。
アンカレッジまではカナダの海岸沿いに飛ぶので、いざとなればいつでも緊急着陸はできる。だが、できれば設備の点でアンカレジまでは飛びたい、という。
だがその先は、太平洋の上だ。再出血したら、お手上げである。
僕たちはともかくアンカレッジを目指すことで合意した。
女の子の説得はスチューワデスに任せた。

アンカレッジの上空に来ると,機長はこれからダンピングを始めますとアナウンスした。
安全のため、着陸前に燃料を捨てる必要があるという。実はその為に主翼の両端に燃料の吐き出し口が設けられているのをその時初めて知った。
ジャンボ機は緩やかに旋回しながら、霧のように空中に燃料を散布して行く。
やがて無事着陸して、患者を救急車に搬送し、再給油して2時間後にジャンボは離陸した。

ノースウェストの成田便は、東南アジア各地への乗り継ぎ便が成田で待っている。その大部分に間に合わず、乗客は成田で一泊を余儀なくされ、そのホテル代は航行会社の負担となる。
これほどの大事(おおごと)と知っていたら、アレほど気軽に機長に緊急着陸を命ずることができたろうか、改めて背筋がぞっとなった。

ところでこの苦悩の決断に対する医師への謝礼は、ノースウェストからの赤ワイン一本だった。
by n_shioya | 2008-03-18 22:47 | 医療全般 | Comments(5)
グッド・サマリタン法
国際線に乗っていると、“お医者さん居られませんか!”という突然の機内放送で夢を破られることがある。

こういうときにアメリカの医師は絶対に立とうとはしない。後難を恐れるからだ。
機内には医療設備は無いに等しい。もし好意的に治療して結果が悪かった場合、訴えられれば敗訴するからだ。
かつてスチューワデス看護師の資格が必要とされた頃は、救急箱は整っていたという。
今は、血圧計があるだけで、薬は一切用意されてない。

このような場合思うように治療ができなくても、医師は免訴してもらえるという法律がニューヨークの議会に上程されたことがある。
世にいうグッド・サマリタン(良きサマリヤ人)法である。これが否決されたとき、医師側はそれなら路上で怪我人や、急病人を見かけても見殺しにするのもやむをえないということになったのを覚えている。

だから機内での救急コールに答えて立ち上がるのは、大概日本の医師である。
およそ聴診器と縁の薄い形成外科医の僕でも、誰も応じなければ、こちらの心臓をどきつかせながら、恐る恐る席を立つことにしている。
外科医の僕は、どんな大出血でもびくともしないが、ちょっとでも脈の乱れた患者を前にすると、こちらの心臓が止まりそうになるからだ。

そんなあるとき、呼び出しに応じてわざとゆっくり駆けつけてみると、幸いにもう金髪の若い医師がその場に到着していた。
、足を挙上して寝かされた患者は、血色も戻り血圧も落ち着いてきた。
聴診器をぶら下げた若い医師に、“君がいてくれて助かったよ、俺は形成外科医だから”というと、
“俺だって、精神科なんだ”とニヤリと小声で答えた。彼はやはりアメリカ人ではなく、フィンランドの医師だった。

その後の経験で分かったが、ほとんどの場合は、忙しいビジネスマンが寝不足のまま搭乗し、睡眠剤をアルコールで煽って寝込んで起こる、一過性の貧血である。今のように寝かせて足を挙げればほとんど回復する。

もっと遥かに深刻な事態で、ジャンボ機をアラスカに緊急着陸させた経験や、そもそも「グッド・サマリタン法」とは何であるか、別の機会に譲ることとしよう。
by n_shioya | 2008-03-17 22:22 | 医療全般 | Comments(3)
インフォームドコンセント
ある時、母親に付き添われて、やけどの跡を気にした女子高校生が外来を訪れた。
“私の不注意でこんなにしてしまって”と母親は嘆く。
四歳の時、台所でお湯をかぶって火傷を負い、上腕に手のひらほどの浅い傷跡を残している。
赤くもないし、つれがあるわけでもない。
人が見てもそれほど気にならない薄さだが、本人はそのため夏でも袖無しが着れないでいたそうな。
“大きくなったらきっと何とかしてあげるから”と、今まで我慢させてきたという。

じつのところ、僕達形成外科医がいちばん判断に迷うのが、この程度の余り目立たない傷跡なのである。
この場合、治療法としては植皮術しか考えられないが、それで跡かたなくなるわけではない。叉、本人の皮膚が必要であり、新たに傷を増やすことになる。つまりやって得か損か、僕たちも判断に苦しむ。

こちらには手術すればこうなるという予測はつく、しかしそれをあらかじめ見せることは出来ない。
患者の頭にはこうなりたいというゴールがしっかとある。しかし外からそのイメージはつかめない。
何とかそのギャップを埋めるために我々は問診を繰り返す。時には似た症例の写真をお見せすることもある。そしてそのギャップがほぼ埋まったと思われたとき、初めて手術に踏み切ることが出来る。
このようなプロセスが、最近のはやり言葉で言えば、「インフォームドコンセント」ということになる。

その主旨は、診療に当たって医師は、患者によく自分の考えなり方針を説明し、患者の同意を得たうえで治療に当たれということであり、平たく言えば納得ずくの医療ということに過ぎない。
そもそも「インフォームドコンセント」は元来欧米で発生じた考えであり、個人主義の契約社会では、説明義務という法律面が強く押し出されているのに反し、わが国では医師と患者の意思疎通というニュアンスで、道義的にとらえられている気味がある。
いずれにしても現在では、医療に携わるものの常識になりつつある、形成外科医にとっては今に始まったことではない。
先程の例でもおわかりのように形成外科はその性質上、患者による自発的な意思決定が必須とされる科だからである。

この高校生の場合は、話し合いの結果、本人のの考えがはっきり固まってきたので、手術に踏み切ることにした。
“やけどの跡のため自分は子供のころずいぶんと苦しんだ、その傷跡が無くなればたとえ手術の傷が残っても我慢できる、それは自分の意志で生ずるものだから”という事だった。

このように十分な情報を与えられて患者が意志決定を行うのが、「インフォームドコンセント」であるが、形成外科、美容外科の場では、手術を引き受けるか否か,医師にも裁量権がある。
ここで医師の測の意志決定のプロセスを追ってみよう。

患者の訴えを聞いた医師は、まずその訴えが妥当かどうか見極める。
傷跡にしても、醜形にしても、気にするのももっともとこちらが思えるかどうかである。医師個人の好みより、いわゆる社会通念に照らしてのことだが。
次に、患者の希望する事が、現在の技術で可能で且つ安全であるかどうか。
この際、患者の持つイメージと、こちらが考えている手術結果との間にギャップがないかどうか、いろいろとシミュレーションが必要になる。
医師は、手術による効果とデメリットを十分に説明する義務があり、これが先に述べた「インフォームドコンセント」の前提である。

こうして十分に意志疎通が確認されたところで、医師の立場から手術をしたら得か損かを、患者に告げる。
その上で、手術を受けるか否かの最終判断は、患者本人にゆだねるように僕はしてしてきたつもりである。
by n_shioya | 2008-03-01 19:23 | 医療全般 | Comments(4)




woman.excite TOPへ Copyright © Excite Japan Co., Ltd. All Rights Reserved.
免責事項 - 会社概要 - ヘルプ | BB.excite | Woman.excite | エキサイト ホーム