今日は『愛しのジャズマン 2』に書いたエピソードを紹介することで、先月の29日にこの世を去ったフレディ・ハバードを偲びたいと思います。
ジャズの世界で遅刻の常習者といえばフレディ・ハバードである。ところが時間に遅れてステージがキャンセルになった話は、知る限りで一度も聞いたことがない。だから彼のことをよく知っているひとは、少しぐらい到着が遅れても鷹揚に構えている。
たとえば1985年にニューヨークで開催された「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」コンサート。このときは2日前からミッドタウンのスタジオでリハーサルが行なわれていた。フレディはハービー・ハンコックのクインテットとオールスター・メッセンジャーズに入って演奏する予定で、両日ともスタジオに来るはずだった。
ところが初日は無断欠席である。プロデューサーのマイケル・カスクーナによれば、ホテルにもチェックインしていないとのことだった。
「いつものことだし、フレディならリハーサルをやらなくても大丈夫」
あまり気にしていない様子だ。ほかのメンバーも「フレディだからね」みたいな顔をして、誰も文句をいわない。
それで2日目になった。カスクーナは「まだチェックインしていないが、たぶん来ると思うよ」と落ち着いている。ぼくはひとごとながら、「そんなことで大丈夫なの?」と心配していた。そしてオールスター・メッセンジャーズのリハーサルが始まった。それを見計らうかのように、旅行用のトランクを引きずりながらフレディがスタジオに入ってきた。
「雪で飛行機が飛ばなくてね」
誰も信じていないが、お構いなしでフレディはリハーサルに加わった。その途中である。ロビーがざわめき始めた。覗いてみると、小柄な老人がミュージシャンに取り囲まれている。それがブルーノートを創立したアルフレッド・ライオンであることを教えてくれたのはカスクーナだ。
青春時代のすべてを懸けて集めてきたブルーノートのレコード。その名盤の数々をプロデュースした人物がそこにいる。リハーサルを観るのはやめにして、ぼくもその一群に加わろうとロビーに出た。するとぼくより素早くライオンのそばに駆け寄った人物がいた。
こういうときのフレディは動きが早い。大きな体でライオンに抱きつき、涙を流さんばかりに再会を喜んでいる。実際、フレディの目には涙が浮かんでいるように見えた。それもそうだ。彼にとって、ライオンはジャズ界で最大の恩人である。
フレディは、故郷のインディアナポリスでかなりの悪童として名を轟かせていた。そのままいけば、誤った道に進んだかもしれない。そんな彼に対し、ライオンは最初からリーダー作を作りたいと申し出たのである。ほとんど実績もない彼に向かってそう提案したのだから、よほど才能を買っていたのだろう。
「リーダー作を吹き込むにあたり、アルフレッドはわたしにひとつだけ条件を出してきた。それはクリーンな生活をすることだった」
フレディは、ライオンの心情に触れて一念発起する。誘惑を断ち切り、演奏に精を出し、恵まれた才能を伸ばしていった。それが彼にとってのブルーノート時代だ。久々にライオンと再会して、フレディの胸にはどんな思いがよぎったのだろう?
遅刻の常習犯であることに話を戻そう。ドラマーのエルヴィン・ジョーンズがジョン・コルトレーンにトリビュートするコンサートを開いたときだ。前日に宿泊先のホテルで関係者を招き、ジョーンズ夫人のケイコさんが記者会見+パーティを主催した。
壇上にはフレディの姿だけない。記者会見はそのまま進行し、その後は何曲か演奏されることになっていた。その演奏直前に、トランペットを小脇に抱えてステージに駆けあがったのがフレディである。
あとでケイコさんに大目玉をくらったというが、そんなことでめげる男ではない。翌日の本番はヴィデオ収録のため、サウンド・チェックのほかにカメラ・テストもあった。それで集合時間も早かったが、フレディはやはり姿を現さない。結局本番10分くらい前に、タクシーに乗ってやってきた。
こういう場面には何度も遭遇したが、時間にルーズとは違うように思われる。
「演奏さえよければ文句はないだろう」
フレディの行動からはこんな主張が聞こえてくるようだ。性格もその演奏を生み出す要素になっている。だから、周りのひとにとっては迷惑かもしれないが、彼にはこのままでいてほしい。関係者もミュージシャン仲間もそう思っているからこそ、ゆったりと構えているのではないだろうか。
遅れてくるのがフレディの流儀なら、この世を去るのも遅刻してほしかった。これがぼくの偽らざる心境です。やんちゃ坊主がそのまま大人になったようなフレディ。我もひと一倍強かったけれど、気持ちもひと一倍温かいひとでした。あのキャラクターに接することがもうできないとは、なんと寂しく、悲しいことでしょう。いまごろは、天国の門の前で「オープン・セサミ」と怒鳴っているかもしれませんね。