日本では報道されなかったかもしれませんが、11日に高名なジャッズ・フォトグラファーのウィリアム・クラクストンがロスの病院で亡くなりました。ジャズ・フォトグラファーといえばブルーノートのフランシス・ウルフが有名ですが、彼を東海岸の横綱だとすれば、西海岸の横綱がクラクストンです。
パシフィック・ジャズの創立時からジャケット写真の多くを担当し、1960年代にはファッション写真にも進出し、こちらはポップな感覚で独特の作品を多数生み出しました。中でも奥さんをモデルにした(モデルを奥さんにしたのかもしれませんが)写真が有名です。
奥さんが手にしているジャケットは、自身がモデルになったルー・ドナルドソンの『ミスター・シンガリング』(ブルーノート)ですが、有名な『アリゲイター・ブーガルー』も彼の手によるものです。
このジャケットですね。
パシフック・ジャズのジャケットにはこんなものがあります。
クラクストンをテーマにしたドキュメンタリー映画『JAZZ SEEN カメラが聴いたジャズ』(監督:ジュリアン・ベネディクト)の公開に合わせて日本で彼の写真展が開催されたのは2001年のことでした。そのときのインタヴューを以下に紹介して、彼の冥福を祈りたいと思います。
この世界に踏み込んだきっかけから話そうか。「ヘイグ」にジェリー・マリガンが出演したときのことだ。1951年だった。東海岸からロスに彼は移ってきて、カルテットを結成したんだよ。チェット・ベイカーが加わったピアノレスのカルテットだ。ジャズ・ファンだったわたしはまだUCLAの学生で、写真で生計を立てようと考えていた。
それで彼らの写真を撮ろうと思ったんだね。父親の車を借りて、機材一式と助手を乗せて「ヘイグ」に行ったんだ。事前に交渉なんかしていないから、店に乗りつけて初対面のマリガンに写真を撮らせて欲しいと頼んだのさ。彼は気難しいところもあるんだけれど、このときは気さくにOKしてくれた。
それで演奏中の写真やバック・ステージの写真を撮っていたら、ひとりの青年が自己紹介してきた。それがリチャード・ボックだった。パシフィック・ジャズのオーナーになるひとだ。もうすぐレコード会社を作ってマリガン・グループのレコーディングをする予定だっていうじゃないか。それで、その日の写真をジャケットに使わせて欲しいという依頼だった。こちらとしては願ってもないことなんで、その場でOKしたよ。結果として、これが最初の仕事になった。ギャラはたいしたことがなかったけれど、当時の学生には悪くなかった。“ヤッタネ”という気持ちだったよ。それからパシフィック・ジャズで仕事をするようになったんだ。
このときにチェットとも知り合って、彼とは公私共によく付き合った。チェットは上の歯が一本欠けていたんだ。笑うと漫画のグーフィーみたいだった。だからわたしたちの間ではグーフィーって呼ばれていた。歯が欠けていたのは本人も気にしていたんだろうね。当時の写真で笑っているのはほとんどないんだよ。ウエスト・コースト周辺で演奏すときは、よくわたしの車で店まで行ったっけ。
わたしはガーシュインやコール・ポーターなんかが書いたいわゆるショウ・チューンが大好きで、車の中ではいつもラジオでそういう曲を聴いていた。チェットはあんまりそういう曲を知らなかったけれど、車の中でそれらのスタンダードを沢山覚えたんだよ。彼は耳が良かったから、大抵の曲は一度か二度で覚えてしまった。彼がヴォーカル・アルバムを初めて吹き込んだときは、だからわたしの車の中で覚えた曲ばかりがレパートリーになっていた。
それにしてもチェットは女性にもてたね。2時間か3時間毎にガール・フレンドが変わっていたっていうのはオーバーにしても、本当にいつも違う女性とつき合っていた。だからマリガンのグループから独立したときは、ピアニストのラス・フリーマンがマネージャーも兼ねて彼のグループに参加したんだ。チェットは自分じゃビジネスのことは何もできなかったからね。女性のことで忙しかったし(笑)。
ジャケット写真で面白かったのはソニー・ロリンズの『ウェイ・アウト・ウエスト』だ。ソニーがカウボーイの恰好をしているヤツだよ。あれは彼のアイディアだった。ソニーは無類のウエスタン映画ファンでね。一度ああいう恰好がしたかったらしい。それで貸衣装屋に行ってカウボーイの服を一式借りてあの写真を写したのさ。黒人のカウボーイなんて実際はほとんどいなかったから、ひょっとしたら物議をかもすかな? とも思ったけれど、そんなことはなかった。あれは「タイム」や「ニューズウィーク」でも紹介されて概して好評だったね。
クラクストンは気さくで、いかにも「西海岸のひと」といった印象を覚えました。だから多くのミュージシャンと気が合い、信頼されていたんでしょう。そんな彼の冥福を心からお祈りします。