「あの太ったカメラマン、知ってるだろ? あいつに言っておけ。ひとと握手をするときは手袋ぐらい外すもんだってな」
あるとき、“ジャズ界の帝王”マイルス・デイヴィスからこう言われました。何のことだかさっぱりわかりません。ただし「太ったカメラマン」には心当たりがあります。それで彼にマイルスからの伝言を伝えて、理由を聞いてみました。
実はこんなことがあったのです。前日のことです。マイルスのコンサートで写真を撮るため、このカメラマン氏はオートバイで会場に向かっていました。信号で止まったときにふと隣の車を見ると、それにはマイルスが乗っていたのです。そこでカメラマン氏は、マイルスに向かって手を振ってみました。すると、驚くことにマイルスが窓を開けたそうです。それでこれは握手でもと、慌てて手を出したところ、マイルスが握り返してくれたというのです。もちろん、手袋をはめたまま。
このカメラマン氏、マイルスについてはほかにもエピソードがあります。舞台のかぶりつきで写真を撮っていたときです。彼は恐れ多くも帝王に向かって、「マイル~~~ス」と叫んで手を振ってみました。するとマイルスは舞台の一番前まで歩み寄って、彼の目の前でトランペットを吹いたのです。
「呼べば来るんだよね」
平然とのたまうカメラマン氏。
彼とニューヨークでマイルスを取材したときにもとんでもない発言がありました。それはあるパーティでマイルスと会ったときです。立ち話でしたが、マイルスに話を聞いていると、最初は遠巻きに写真を撮っていた彼が、つかつかと近づいてきてこう言ったのです。
「それ本物?」
「それ」とは、マイルスが闘病中にサンタナから贈られた金の彫像がついたペンダントのことです。一瞬マイルスは怪訝な顔をしましたが、すぐに気を取り直して、例のだみ声で「イエース」と言いました。まったく動じないこともカメラマンには必要ですが、このひとの場合はそれを軽く超越しています。
しかし、マイルスはそんなカメラマン氏のことを、実は内心気に入っていたようです。憎めない性格なんですね。だから冒頭の言葉も、怒っていたわけではなくて、愉快なやつがいるもんだと、楽しそうに話していたのです。
考えてみれば、マイルスは「帝王」と呼ばれるようになってから、ずっと孤独だったようです。このカメラマン氏のように、物怖じせずに接してくるひとは少なかったと思います。だから心憎からずと思っていたのでしょう。
このカメラマン氏、仕事もしっかりしています。何しろ、マイルスのアルバムのジャケットに写真が使われているのですから。それがこれです。
彼にはエピソードが事欠きません。そのうちまた、面白い話をご紹介しましょう。