おとといですが、EMIミュージックジャパンのオフィスで、同社の行方均さんと、6月に出る『ジャズ批評』のための対談をしてきました。テーマは「アルフレッド・ライオンとブルーノート」みたいなものです。
ご存じのかたもいると思いますが、行方さんは日本でブルーノートのブームを仕掛けた張本人です。ぼくも、彼と出会ったことで音楽業界に足を突っ込むことになりました。
東芝EMI(当時)のブルーノート担当ディレクターとして、あるひとの紹介で行方さんがニューヨークに留学していたぼくを訪ねてきたのが付き合いの始まりです。あれから25年が経ちました。
それとはまったく関係ありませんが、今年はアルフレッド・ライオン生誕100周年です。それで『ジャズ批評』がライオンとブルーノートの特集号を作ることになって、おとといの対談は企画されました。
この写真からいろいろなことが始まりました。1985年にニューヨークで開催された「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」コンサートの前日に写したものです。場所はリハーサルが行なわれていたSIRスタジオ。
ここにライオン夫妻がふらりと現れたのです。彼らがニューヨークのジャズ関係者の前に登場したのは1969年以来ですから、16年ぶりでしょうか。一時は生死も不明だったライオンです。
リハーサル・スタジオには彼が育てたミュージシャンがたくさん集まっていました。最初に、「あなたはミスター・ライオン?」と訊ねたのはロン・カーターです。リハーサル中だったフレディ・ハバードは、ロビーでの騒ぎを聞きつけ、スタジオを飛び出し、ライオンに抱きついて涙を浮かべていました。
この写真は、そうした興奮が収まったあとに写したものです。みんな若い。行方さんは前列のひと。左端は、彼と一緒になってぼくを音楽業界に誘ってくれた中山康樹さん。当時は『スイングジャーナル』の副編集長でした。そのとなりが油井正一さんです。
行方さんとの対談では、そういうわけで、ライオンのことを個人的に知っているふたりで、彼がどんな人物だったか、なぜ彼が作ったアルバムがことごとく名盤と呼ばれるのか、みたいな話をしました。
あのころのぼくたちは、いまからは考えられないほどブルーノートに情熱を燃やしていたんですね。対談をしながら、それらのことがいろいろと頭の中をよぎりました。
行方さんは、「ブルーノートを日本で売るなら、ライオンの精神を尊重すべき」と、会社を説き伏せ、1500番台を番号順に発売することにした人物です。『ジャズ批評』に話を持ち込み、別冊の「全ブルーノート・ブック」も企画しました。ぼくは、彼のあとをついていくだけ。それで、思いもよらぬ楽しいことがたくさん味わえました。
「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」が終わったときに、ぼくたちはこういうコンサートが日本でも開けないものかと、夢を語りました。それから1年半後、「マウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァル」が実現したのです。行方さんの奔走によるものです。
ぼくはライオンの主治医ということで、フェスティヴァルではスタッフにしてもらいました。これは楽屋からステージに向かうときの写真です。
こちらはウェルカム・パーティでのライオン夫妻、アート・ブレイキー、それにジャッキー・マクリーン。
対談では、ライオンと最初に会ったときの顛末なんかも話しましたが、すべてがいい思い出ですね。そのときからでも23年。
行方さんがいみじくも話していたんですが、ライオンがニューヨークから忽然と姿を消して、再びみんなの前に登場したのが16年後。その期間より、ライオンとぼくたちが出会ってからのほうが長い時間が過ぎているんですね。ときが経つのはなんと早いものでしょうか。
行方さんと会ったころのぼくは大学病院に籍がありました。彼は、一介のディレクター。その後のぼくは大学病院を辞めて、いまでは明日をも知れぬフリーの医者をしています。
ところが行方さんはとんとん拍子かどうかは知りませんが、気がついたらちゃ~んと出世していて、いまではブルーノートからビートルズまで扱うストラテジック・マーケティングのプレジデントという偉そうなひとになってしまいました。
友達が出世するのは嬉しいし、会えばお互い単なる音楽ファンに戻って、いくらでも話に興じることができます。そういうわけで、おとといも本当に楽しい時間がすごせました。人生って悪くないなって、何気なく感じるのがこういうときでしょうか。