
しばらく前のことですが、2月19日にマイルス・デイヴィスのプロデューサーだったテオ・マセロが亡くなりました。享年82歳。彼がプロデュースを担当したのは1959年の『スケッチ・オブ・スペイン』からで、1980年代半ばにコロムビアを去るまで(マイルスの作品でいうなら1983年の『スター・ピープル』まで)、多くの作品を手がけています。
テオがいなければ、ぼくはジャズにここまでのめりこんだかどうか。晩年の彼は好々爺という感じでしたが、もともと作・編曲家にしてアルト・サックス奏者でしたから、アーティストして鋭い感性に驚かされたことが何度もあります。そのテオの死を追悼して、『愛しのジャズメン 2』で書いた文章を以下に掲載しておきます。
コロムビア・レコーズ(現ソニー)のプロデューサーとして、テオ・マセロはマイルス・デイヴィスをはじめ、セロニアス・モンク、チャールズ・ミンガス、デューク・エリントン、ビル・エヴァンスなどの作品を数多く制作してきた。その彼が、同社を辞めて自主制作によるアルバムをリリースし始めたのは1980年代半ばのこと。
いまや伝説のプロデューサーのひとりに数えられるテオが構えるオフィスは、ぼくのアパートから10ブロックしか離れていない。しかも同じファースト・アヴェニューとセカンド・アヴェニューの間にあるのだから、いってみればとなり組のようなものだ。
「ここで寝泊まりもできるが、どんなに遅くなってもロング・アイランドの自宅に帰るんだよ」
こともなげにこういうが、マンハッタンのとなりに位置するロング・アイランドは広い。オフィスから自宅までは車を運転しても2時間、最近は足の調子が悪いので長距離バスを利用して2時間半はかかるという。それでも週に最低2回はオフィスにやってくるのだから元気だ。
「わたしはプロデューサーと思われているかもしれないが、自分では作・編曲家だと考えている。コロムビアでプロデューサー業をしながら、テレビや映画のための音楽も書いていた」
幼いときから音楽に興味を持っていたテオは、48年にジュリアード音楽院に入って作曲法を学んでいる。
「ジュリアードではクラシックと現代音楽を学んだ。でも、あの学校は好きになれなかった。わたしはポピュラー・ミュージックにも興味があった。しかし、そんなものはジュリアードじゃ認められていなかったからね」
ジュリアードに入ったのも、そこで勉強したいと強く願ったからではない。
「大学に入れば徴兵が延期される。第二次世界大戦が終わって平和が訪れようとしていたけれど、一方でそろそろ朝鮮半島がきな臭くなっていた。それで、いま徴兵されるのは得策でないと判断した。たまたまわたしを教えていた先生が推薦してくれて、ジュリアードの奨学金がもらえることになった。それで入学したにすぎない」
ジュリアードに入ってからも、テオはジャズ・クラブ巡りやブロードウェイのミュージカル観劇に夢中だった。
「父親が地元でナイト・クラブを経営していたんで、小さいときからジャズ・ミュージシャンに囲まれて育った。だからクラシックを学んでいたけれど、一方でジャズやポピュラー・ミュージックにも興味を持っていた」
マイルスもジュリアードに1年ほど在籍しているが、それはテオが入学する数年前のことだ。
「そう、マイルスは先輩だが、わたしが入ったときには辞めていた。彼の演奏を生で初めて聴いたのは49年のことだった。わたしはそのシンプルなプレイに強い印象を覚えた。当時のトランペッターはほとんどが強力なソロを吹くことで個性を競い合っていた。ところが、マイルスは繊細さも兼ね備えたプレイで自分を表現しようとしていた。まさか、その後に彼の作品をプロデュースするとは夢にも思っていなかったがね」
テオは優れたプロデューサーだが、同時に創造的なアーティストでもある。マイルスとのコラボレーションでは、ふたりのアーティストが出会ったことで、前人未到の音楽が次々と発表されることになった。
オフィスには、フェンダー・ローズ(エレクトリック・ピアノ)が置かれている。オーディオ装置で自分がプロデュースしたマイルスのレコードを大音量で鳴らしながら、テオは身ぶり手ぶりを交えて、一緒にフェンダー・ローズを弾いてみせる。
「ここは、本当はこうやりたかったのにマイルスが認めなかった。こちらは最初こんなハーモニーだった。それに7度の音を加えてみたら、ほら、このハーモニーだ。響きが穏やかになったじゃないか。これはわたしのアイディアだ」
まるで、いまもスタジオでマイルスを相手に「ああだ、こうだ」といっているような雰囲気である。ぼくは背筋がぞくぞくしてきた。
「マイルスのイメージはわたしが完成させたと自負している」
こう断言するだけのことをテオはやってきた。とくにエレクトリック時代の作品は、彼の大胆な編集作業によって完成したものだ。手を加えたことに対しては賛否両論あるものの、テオは動ずることなくこう話す。
「マイルスは録音するだけだ。やりたいことをやったら、さっさと帰ってしまう。そのままの形では作品にならない。そこで、わたしが彼のイメージを考えながらテープを編集していくんだ」
それだけに、最近次々と発表されているコンプリート・ボックスは許せない。
「わたしがゴミ箱に捨てたテープまで、彼らは見つけ出して発表してしまった。あれは、せっかく高い完成度を求めて制作したオリジナル・アルバムを踏みにじる行為だ」
この言葉に、テオのクリエイターとしての誇りが示されている。
テオの冥福をお祈りします。そして、グッド・タイミングというかなんというか、彼のドキュメンタリー映画『Play That, Teo』が近く公開されるとうです。といっても、日本ではどうなのか知りませんが。興味のあるかたは
http://playthatteo.com/まで。これ、ちょっと面白いです。