THE QUARTETの演奏を聴いて気分が盛り上がってきたので、明日のコンサートに弾みをつけるため、ハービー・ハンコックについてのエピソードをひとつ。これは、来春発売する『愛しのジャズメン パート3』に掲載予定の原稿です。
どうしてハービーからこの話を聞いたかのいきさつは端折ります。気になる方は、拙著発売の暁にお読みください、と、これは前宣伝です、早すぎますが。
「わたしはマイルスのバンドに5年と少し在籍したが、毎回クビになるんじゃないかと思って演奏していた」
ハンコックがマイルスのクインテットに抜擢されたのは1963年5月のこと。当時、マイルスはグループの再編に取りかかっていた。2ヵ月前にはベースのロン・カーターを迎えたし、ハンコックが加入する直前に参加したのが17歳のドラマー、トニー・ウィリアムスだった。テナー・サックス奏者だけが以前からのジョージ・コールマンで、マイルスのクインテットはこのメンバーで新たなスタートを切る。
「1年ほど前にドナルド・バードがわたしをマイルスの家に連れていってくれた。そのときに弾いたピアノが、マイルスの心にずっと残っていたんだろう。それもあって、ロンとトニーを得ていた彼は、このリズム・セクションに一番フィットするのがわたしと考えてくれたようだ。そこでわたしたち3人を家に呼んで、リハーサルをすることになった」
ところが、マイルスはなんの注文も出さない。ハンコックにしても残りふたりにしても、どうやったらいいのか、皆目見当がつかない。
「3~4日、マイルスの家でリズム・セクションだけの演奏をした。最後にマイルスも加わって、少しだけ一緒にプレイしたのかな? それで“明日レコーディングするからスタジオに来い”っていわれた。わたしが、“それはあなたのグループのメンバーになるってことですか?”って聞くと、マイルスに“レコーディングするのかしないのか”ってムッとされた」
ハンコックは、どうしていいのかわからないので前任者のウイントン・ケリーやビル・エヴァンスのプレイを見習い、同じように演奏していたという。それを2~3ヵ月続けていたら、どうにもフラストレーションが溜まってきた。
「出身地のシカゴで演奏したときに、溜まりに溜まったものが爆発して、自分のやりたいように弾いてしまった。これでクビだなと思いながら楽屋に戻ると、マイルスは“どうしていままでそういう風に演奏しなかったんだ”といってくれた。彼は、誰のコピーでもない、わたしにしかできないプレイが聴きたかったのさ」
それでも、ハンコックはグループを去るまで試行錯誤を続けていた。マイルスの音楽はいつも進化していたからだ。それに追いついていけなければ、即刻クビになる。その恐怖心が常につきまとっていたから、緊張感のある演奏が維持できたと振り返る。名盤と呼ばれる『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』をライヴ・レコーディングしたときも、ハンコックは大きなミスをしたそうだ。
「タイトル曲のイントロを、うっかりして、打ち合わせとはまったく違うスタイルで弾いてしまった。録音テープは回っているし、途中でやめるわけにいかない。それでこのときもクビを覚悟して、コンサートが終わるまで、あとはいつも以上に緊張して演奏した」
ところがこのときもマイルスは褒めてくれた。その話を聞いたせいか、以来このアルバムを耳にすると、マイルスとハンコックの間に漂ういつにないぴりぴりした緊張感が感じられるようになった。気のせいかもしれないが。
しかし、やがてハンコックにもマイルスのグループを去る日がやってくる。ミスをしたからではない。病気で仕事に穴を開けてしまったのが理由だ。その穴を埋めたチック・コリアが、そのまま後任としてマイルスのクインテットに加わることになった。
「世の中、そういうものだよ。マイルスからは大きなレッスンを受けた気持ちだった。常に自分であれ。そういう感じで、わたしたちにはやりたいようにやらせてくれた。責任は自分が取るから、といった態度でね。その姿勢をわたしも見習っている」
さて明日のTHE QUARTET。このような緊張感とは別種でしょうが、やはりある種の緊張感が漂うものになるんじゃないでしょうか? 4人の思いは知るよしもありません。しかしいつもと違う気持ちで演奏することだけは、何となく察せられます。いやぁ、楽しみになってきました。