偉大なドラマーのマックス・ローチが去る8月15日に亡くなりました。享年83歳。
ローチといえば、ぼくには硬骨漢のイメージがあります。1960年に発表した『ウィ・インシスト』(キャンディド)のイメージが強いからでしょう。人種差別に真正面から音楽で抗議した作品です。ジャケット写真がとても鮮烈でした。なにしろお客さんが黒人で、店員が白人なんですから。このジャケットは、タイトルや収録された「Freedom Now Suite」と共に当時は大きな物議をかもしたようです。
人種差別が社会問題として盛り上がっていた時代です。一部の黒人ミュージシャンも音楽を通して自己主張をするようになっていました。チャールズ・ミンガスと共にその先端に立っていたのがローチです。
「表面的には人種差別も少なくなり、どこの高校や大学でも黒人が入学するのに拒否されることはなくなった。けれど30年足らず前には人種差別に端を発した事件がそこらじゅうで起こっていた。30年も経っていない最近の話だということを忘れないでほしい」
ローチがこの話をしてくれたのは20年ほど前のことです。彼の口癖は《イコール・オポチュニティ(機会均等)》。口調は穏やかでも、主張は明確でした。そこに、激しい人種差別の時代を生き抜いてきたひとの確たる信念がうかがえます。
過激な抗議をする一方で、ローチは先輩を敬う気持ちもひと一倍強い人物でした。83年のことです。モダン・ドラミングの始祖と呼ばれるドラマーのジョー・ジョーンズを救済するベネフィット・コンサートがニューヨークの「ヴィレッジ・ゲイト」で開かれました。しばらく前から心臓病を患っていた彼の療養費を集めるのが目的のコンサートです。
そのとき、来場したジョーンズに寄り添い、甲斐甲斐しく面倒を看ていたローチの姿を、居合わせたすべてのひとは忘れないでしょう。ジョーンズの乗った車椅子を、用意された席まで押して、抱きかかえるようにゆったりとした椅子に座らせた彼。その後は、食べものや飲みもの、時間が来れば薬も飲ませるなど、親身になって世話をしていた姿が目に焼きついています。
コンサートは昼夜を通して行なわれたのですが、ジョーンズが会場にいたのは2時間ほどでしょうか。そして家に戻る時間がきました。帰り間際に、どうしてもひとことお礼がいいたいといい、席に座ったままで彼がマイクを手にします。
「来てくれたみなさんにありがとうといわせてください。ジャズは本当に素晴らしい音楽です。その素晴らしい音楽がわたしたちを結びつけています。肌の色も宗教も、年齢も男女の差もなく、ジャズは心をひとつにしてくれます。わたしはここにいるマックスよりずいぶん年上ですが、そのことを彼から教えられました。まさしく、今日、みなさんがこの会場にいらっしゃったことがその証拠です。みなさんとマックスに幸がありますように。どうもありがとう」
ローチがハイハットをジョーンズのところまで運んできました。そして彼に聴いてもらおうと、ハイハットだけの演奏を始めます。ジョーンズが《オール・アメリカン・リズム・セクション》と呼ばれていた時代に評判を呼んだ<ミスター・ハイハット>。ハイハットをさまざまな奏法で叩くことによってひとつの曲にしてしまう名人芸です。
それを聴きながら、ジョーンズがおぼつかない手で、ローチから予備のスティックを受け取りました。思わぬ共演の始まりです。ローチがテンポを落として、ジョーンズのペースに合わせます。演奏しながらローチがハイハットの高さを、椅子に座っているジョーンズに合わせました。その間にもジョーンズは調子を確かめるようにしてハイハットを叩いています。そして一瞬のブレーク。
驚く光景を目撃したのは次の瞬間でした。ジョーンズがローチを脇にやり、ひとりでハイハットを叩き始めたではないですか。テンポも元に戻っています。目にも見えぬ鮮やかなスティックさばきで次々とフレーズを重ねていきます。絶好調を取り戻したかのように淀みがありません。ドラムスの神様が乗り移ったかのようです。ぼくの目にはそう映りました。
そのときのことを何年もあとになってローチに聞いてみました。
「あのときは本当に目の前に神様がいた。正しい機会さえあれば、誰でも実力が発揮できる。そのことをパパ・ジョーからは改めて教えてもらった気がする」
ローチには、マイルス・デイヴィスのことやクリフォード・ブラウンのことについて何度も話を聞かせてもらいました。いつも紳士然とした態度が印象に残っています。しかしひとたび人種差別に話題を向けると、いつも熱い口調で自分たちの立場についてを語ってくれました。
ジョーンズも、そして最後まで人種問題に心を痛めていたローチもいまはいません。天国でふたりして<ミスター・ハイハット>の続きを楽しんでいるのじゃないでしょうか。