ぼくは小学校から高校まで成城学園という学校に通っていました。幼稚園から大学まである一貫教育の学校だったので、きわめてのんびりと育ったようです。ともだちのほとんどが大学まで進んだので、ぼくも一緒に成城大学に行きたかったのですが、ひと
り進路変更をして医学部に入りました。
成城学園は不思議な学校で、小学校の音楽の時間、普通なら縦笛みたいなものを習うんでしょうが、ぼくたちはウクレレを習いました。それでぼくは体が大きかったのでギターをやりなさいと先生に
いわれ、ギターを弾くようになったんです。それが3年のときで、以後はその音楽の先生の息子さんについて中学までクラシック・ギターを週に1回習っていました。
たまたまクラスにはトランペットを習っているひともいて、それで6年生のときは担任の先生が書いたミュージカルを「劇の会」でやったこともあります。テーマ曲は「聖者の行進」でした。
あと「映画の時間」というのもあって、最初のうちはディズニーのアニメとか自然物のドキュメンタリーなんかを見ていたのですが、6年のときはクラスを何班かにわけて、8ミリ映画を作ることもしました。ぼくたちはプラモデルが大好きだったので、戦争映画を作って、それが案外好評だったことを覚えています。
そんな学校なので、中学になってロック・バンドを作ったときも、先生に頼んで音楽室を練習場所に使わせてもらいました。あのころ、全国的に中学や高校は「エレキ禁止令」なるものがあって、エレキ・バンドは作ってはならぬ、ロック・コンサートに行ってはならぬ、みたいな状況でした。
そういう時代にそんなことをやらせてくれた学校ですから、森山良子さんや、ブロードサイド・フォーや、ヴィレッジ・シンガーズなんかが生まれたんでしょう。とにかく学校に行くのが楽しくて、このまま大学まで進めたらどんなに人生ばら色かと思ったものです。
それで本題です。先週の金曜ですが、成城時代の友人何人かと、そのなかのひとりが経営する渋谷のバーで会いました。ちょっと相談されていることがあったんですが、すぐ近くでライヴ・ハウスをやっているひともその相談ごとに乗るからといってしばらくあとにやってきました。
そのライヴ・ハウスが伝説的な「B.Y.G」でした。「B.Y.G」は69年にオープンした店で、その昔はっぴいえんどがマンスリーで出ていたことでも知られています。ぼくは道玄坂を隔てた向いに住んでいましたので、ここで何度もはっぴいえんどを聴いています。そのオーナーが成城の先輩だったんですね。これは初めて知りました。
しかも聞けば、その昔、小川医院の患者さんで毎日注射を打ちにきていたことがあるそうです。ぼくの周りの話ですが、だいたい成城大学を卒業したひとにまっとうなサラリーマンはいなくて、この日会った友人も家業を継いでいるひとが大半でした。
そこが成城のいいところでもあり、悪いところでもありますが、まあそれは置いておきましょう。ぼくは、昔散々通った「B.Y.G」のオーナーが成城出身と聞いてとても嬉しく思いました。ちなみに新宿の「ピットイン」も先輩の店です。
それで翌日のこと。この日はある雑誌に頼まれて、藤井英一さんのインタヴューをしました。藤井さんはニコンの創業者のお孫さんにあたる方で、5歳のときにNHKでモーツァルトを弾き、8歳のときには名古屋に遠征してベートヴェンやモーツァルトを弾いたという経歴の持ち主です。70代なかばの方で、聞けばやはり成城の先輩でした。高校のころからジャズ・ピアノを弾きはじめ、大学は学習院の物理学科だったそうですが、そのころからプロのジャズ・ミュージシャンとして活動されていました。
その後は日本テレビに就職されるのですが、隠れてはジャズ活動も続け、日本に駐留していたハンプトン・ホーズや幻のピアニストと呼ばれる守安祥太郎さんの演奏も何度となく聴いたそうです。
デューク・エリントンが来日したときに自作の作・編曲を演奏してもらったというエピソードにも驚かされました。日本テレビを途中で退社してからはヤマハ音楽振興会でジャズ・ピアノの講師を務め、お弟子さんには向谷実、国府弘子、松居慶子、大島ミチルといったほとたちがいるそうです。個人レッスンでは大野雄二さんが有名でしょうか。
藤井さん、とても素晴らしい経歴ですが、これもぼくから見るととても成城的です。自分の個性を伸ばすのが成城の教育方針です。「自学自習」がモットーでした。藤井さんの生き方をお聞きして、やっぱり先輩だなぁと思いました。
話はまだ終わりません。飽きたかたはこのくらいでやめておいあてください。昨日のことです。日本橋で開かれた「フランス映画の夕べ」というパーティに行ってきました。これはユニフランス東京という団体が、今年15周年を向かえたフランス映画祭の「劇場未公開作品コレクション」を、東京国立近代美術館ナショナル・フィルムセンターに寄贈した発表会を兼ねて開かれたパーティです。
どうしてぼくがこのパーティに呼ばれたか。主催者のひとりが、兄だったからです。彼も成城の中学から大学まで進みました。一度は就職したのですが、すぐにやめて、成城時代の友人の協力を得て旅行会社を作ります。たいした会社だとは思いませんが、細々とやってきて、いまではカンヌ映画祭をはじめ、世界中の国際映画祭のツアー企画なんかもやっているようです。このパーティも、実態はわかりませんが、兄がかなり出資したようです。成城時代の友人が仕掛け人かもしれません。
兄は成城時代の友人をとても大切にしていて、昨晩も大盛況だったのは、それが少しは関係しているのではないでしょうか? ぼくはなるべく顔を広くしないように生きてきたのですが、兄はその反対です。友人・知人も大勢いるようです。成城のひとはたいていがそうですから、ぼくは変わり者でしょう。
それで昨日は、兄にある方を紹介されて、そのままずっとその方とお仲間の席にいました。たぶん誰でもご存知の有名な映画監督ですが、ちょっとプライヴェートなことなので、いずれ紹介するかもしれませんが、今日は書きません。なかなか、興味深い話も聞けました。それもできたら、いつか紹介したいのですが。