8日にキース・ジャレットのトリオを聴いてきました。結論からいうと、ちょっと物足りなかったですね。小ぢんまりとまとまっていて、これまでの奔放さが少し薄らいでいたように思いました。
とはいっても、キースのレヴェルでの話です。ありきたりのピアノ・トリオに比べたら圧倒的に素晴らしかったですし、ピアノ・トリオによる屈指の演奏のひとつだったことに違いはありません。こちらの期待があまりに大きかったため、物足りなく覚えたんでしょう。
それというのも、1年半ほど前に聴いたソロ・ピアノに驚愕させられたからです。そのときのキースは、ぼくが理解できる音楽のはるか先を行っていました。そのことに啓発されて、しばらくの間、ジャズとは、はたたま音楽とは自分にとってどういう意味を持つものだろうなんていうことまで考えさせられました。
こういう触発のされ方はそうあるものじゃありません。あのときのソロ・コンサートは、ぼくが体験したライヴの中でもかなり上位に入るものでした。そしてその後にリリースされた「カーネギー・ホール」でのソロ・ライヴも非常によかったものですから、おとといのコンサートにも大きな期待を抱いて「上野文化会館」に向かったわけです。
コンサートは「グリーン・ドルフィン・ストリート」から始まりました。キースにしては物足りなく感じましたが、それを脇に置くなら、この平凡な曲でも彼の手にかかれば非常に魅力的なものに変身します。この日はアマチュアのミュージシャンやシンガーが取り上げる曲が多かったんですが、それらがどれも輝くばかりの内容になるんですね。
聴き飽きた曲でも、解釈やアプローチによっては素晴らしい演奏に繋がります。そのお手本のようなプレイが連続しました。オールド・ボトルにニュー・ワインを注ぐようなものでしょうか。
キースの場合、斬新な解釈にいつも嬉しい驚きを感じます。この日はプレイがいま一歩でしたが、相変わらず誰もやらない解釈とか表現には感心させられました。それとソロ・パフォーマンスではぼくの手の届かないところまで行ってしまったと感じた彼ですが、この日のトリオ演奏は十分に理解し楽しむことができました。
こう書いたところで、物足りなく感じた理由がはっきりしてきました。マイルスはいつもひとより半歩先を行くことで、人気を維持していたひとです。キースのソロは、ぼくから見れば半歩どころか二歩も三歩も先を行っていました。そこに触発ざれたんだと思います。ぼくよりずいぶん先を行っている彼ですが、おとといのトリオでは追いつくことができました。
先を行くひとを追いかけることに魅力を感じるのだと思います。マイルスが好きなのもそれが理由です。そういう先を行くひとと肩を並べてしまうと、物足りなくなってしまうんでしょう。
とはいっても、先を行くとか、肩を並べるとかいうのは勝手な思い込みです。でもそう考えると、これまでに何度も聴いてきたトリオの演奏も常に先を行っていました。こちらの意表をつく演奏がぼくは好きなようです。予定調和でまとまりのいい演奏には興味がありません。キースは、常に考えもしない展開やフレーズで翻弄してくれます。その面白さに触れて40年も経ったんですね。
最初はチャールス・ロイドのカルテットで存在を知りました。1966年のことです。その後、トリオやカルテットやソロなど、いろいろなスタイルの演奏を聴きましたが、いつもキースのプレイはぼくの思いの先を行っていました。だから飽きずに40年間も聴き続けてこれたんでしょう。これって大変なことです。
キースがずっと高い音楽性を維持してきたことも驚きですが、つき合いのいい自分にもいまさらながらにびっくりです。一度惚れ込むといつまでもつき合うぼくですが、こんなに長いつき合いをするひとは珍しい・・・いやそうでもないか。考えてみたら結構いますね。
それでもその何十倍も消えていくひとがいるわけですから、自分の守備範囲を考えれば確率は低いと思います。でも有難いことに、数自体は多いですから、それだけ楽しみもたくさんあります。
ところで、ぼくは大の偏食です。何でもおいしく食べられるひとをうらやましく思います。音楽はその反対で、何でも好きになってしまいます。好き嫌いがほとんどありません。そして、よっぽどつまらないものでない限りはしばらくつき合います。
そいうやって出会えた素敵なアーティストや音楽は数限りなくあります。食べ物でもそういうことができればいいのですが、そうはいかないところが人生です。好き嫌いがあることも個性のうち。そんな風にも思っています。
あさっては渋谷でDJイヴェントがあります。今回は久しぶりにジャズをかけようと思っていますが、気が変わるかもしれません。何しろ気の向くまま、思いつきで生きていますから。キースの演奏は予定調和でないから面白いと書きました。ぼくの人生も予定調和ではありません。だから自分では面白いと思っています。