成毛滋さんさんが3月29日に大腸がんで亡くなりました。若いひとはご存じないかもしれませんが、彼は「伝説のギタリスト」と呼んでもいいひとです。つのだひろさんの大ヒット曲として知られる「メリー・ジェーン」は、成毛さんとつのださんが作ったユニット=ストロベリー・パスというグループが1971年に発表した『大鳥が地球にやってきた日』からのシングル・カットでした。
成毛さんはその後、このふたりユニットに18歳の高中正義さんをベーシスト(!)として迎え、フライド・エッグを結成します。デビュー・ライヴとなった「箱根アフロディーテ」をはじめ、こちらのトリオは何度かライヴを見たことがあります。とにかく3人のスーパー・ミュージシャンが織り成す変幻自在な演奏と、超絶的なテクニックに、いつも一音たりとも聴き逃すまいと必死で耳を傾けていました。
成毛さんの存在を知ったのは1966年だったと思います。彼が参加していたアマチュア・グループのザ・フィンガーズが、エレキ少年必見のフジテレビ『勝ち抜きエレキ合戦』に出演し、最初の週から満点を獲得して圧倒的な強さ(巧さ)で規定の4週間を勝ち抜き、グランド・チャンピオンになったときでした。
毎回楽しみにしていたのが成毛さんのギター・ワークです。それこそシャドウズもびっくりのテクニシャンぶりで、こんなにすごいひとがアマチュアにいたんだと呆れ返ったものでした。翌月には「グランド・チャンピオン」大会でも優勝して、日本一のエレキ・バンドとして注目を集めます。
ザ・フィンガーズ(中央が成毛滋)
その実績で、翌年テイチクから「灯りのない街」という曲でデビューしました。続いて出た「ゼロ戦」は『勝ち抜きエレキ合戦』でも演奏されて大評判を呼んだ曲です。しかしエレキ・インスト・ナンバーはヒットする状況でなく、もう1枚「ツィゴイネルワイゼン」をシングル盤でリリースして終わってしまいます。
次にフィンガーズの名前を耳にしたのは翌1968年のことで、今度はメンバーも何人か入れ替えてキングからシングル盤と唯一のアルバム『サウンド・オブ・ザ・フィンガーズ』を発表します。ところがこのときはステージであまりにも成毛さんがギター・ソロを延々と弾くため、ギターを弾くことが禁じられ、キーボードに転向させられたというエピソードも残されているほどです。しかもこのアルバムは洋楽のカヴァー集ということで、GSによる作品としてほとんど注目を集めませんでした。
成毛さんが本格的にロックのフィールドに登場してくるのはこれよりもう少しあとのことです。翌年(1969年)渡米して、ウッドストックのロック・フェスティヴァルを観たのがきっかけでした。帰国後、すぐに彼は日比谷の野音で「10円コンサート」のシリーズを開催します。
ウッドストックはフリー・コンサートでした。それに触発されたようです。日本では、そのころ日比谷の野音がロックのメッカで、暖かい季節になると週末は毎週のようにロック・イヴェントが開催されていました。入場料は500円とかそんなもので、12時から8時くらいまで、10バンド前後が登場するといったスタイルです。それを10円にしたのがこのコンサートです。
実は成毛さん、ブリジストンの創業者石橋財閥の御曹司でした。それで、赤字分は全部自分で負担していたそうです。ぼくも何度か野音で演奏しています。自慢ははっぴいえんどと同じステージに立ったことと、「10円コンサート」に出演したことです。成毛さんとも、そういうわけで面識程度のものはありました。一番強く記憶しているのは、彼が会場にロールスロイスに乗ってきたことです。
まだたいしたアンプ類もなかったのですが、成毛さんは外国のロック・バンドが来日公演で使い始めたマーシャルのでっかいアンプなども手に入れていました。ぼくもそのアンプでギターを弾かせてもらったことがありますが、それは快感でした。自分のギターとは思えない迫力のあるサウンドに、病みつきになると思ったものです。
その後、成毛さんは先にも書いたようにストロベリー・パスやフライド・エッグを結成して、日本のロック・シーンのトップに立ちます。そのころだと思いますが、共立講堂かどこかでフライド・エッグのコンサートを観たときです。途中でメンバーのふたりが引っ込み、成毛さんのソロ・パフォーマンスになりました。
その姿がなんとも異様です。左手一本でハンマリングを駆使してギターを弾き、右手はオルガン、左足はオルガンのフット・ペダルでベース・ノート、そして右足でベース・ドラムを叩くというひとり四重奏です。それも曲芸的なものではなく、素晴らしいロックのバラードになっていました。フィンガーズ時代にオルガンを弾かされたことが、こういうパフォーマンスに繋がったのかもしれません。
1970年にはCBSソニーで『イエロー・リヴァー』という素晴らしいギター・インストによるソロ・・アルバムも残しています。これまで何度も担当者にお願いしてきたのですがCD化されていません。これを機に出してくれるといいのですが。
1971年には先に書いたストロベリー・パスで1枚、この年から翌年にかけてはフライド・エッグで『ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』と『グッバイ・フライド・エッグ』を残し、その後はセッション・ミュージシャンとなって滅多に表舞台に登場しなくなりました。
これらふたつのグループの間には、ロンドンで録音した『ロンドン・ノーツ』という2枚目のソロ・アルバムも残しましたが、こちらは本人にいわせれば実際は3曲しか参加していないという変なものです。ただし内容は素晴らしく、世界的なレヴェルで通用するロック・アルバムじゃないかとぼくは思っています。
成毛さんは、1960年代後半から70年代前半にかけてギターを弾いていた人間にとって、プロもアマも問わずヒーローでした。ただし、残念ながらその名前は1970年代後半になるとほとんど聞かなくなってしまいます。あれだけの才能があったひとですから、そのまま活躍していればいろいろ面白い展開もあったことでしょう。
何があってシーンから距離を置くようになったかは知りません。しかし、人生いろいろですから。いまは60歳という若い死を惜しむと同時に、その冥福をお祈りしたいと思います。