高知の飛行機事故、全員無事で本当によかったですね。乗客・乗員、そしてご家族のみなさんは気が気じゃなかったと思います。それにしても機長の腕前は見事でした。乗り合わせていたかたがたも冷静だったようで、そういうことも無事に着陸できた要素になっているんじゃないでしょうか。
このところ航空機の事故が続いているようで、気がかりです。以前ほどではありませんが、年に何度か飛行機を利用しているので、こういうことにはちょっと過敏になっています。そして事故が報道されるたびに思い出すことがあります。
あれは医師の国家試験に合格して、医局に入るまでの休みを利用してニューヨークにいったときのことです。ぼくは出来が悪かったので、大学の卒業が半年延期になって、秋の国家試験を受けました。以下は、1年ほど前に出した『ブルーノート・コレクターズ・ガイド』からの引用です。

最初に行ったときより外国は身近になっていた。しかし3週間の滞在となれば費用もかさむ。ところが世の中うまくできているもので、6歳上の兄が脱サラをして旅行会社を経営するようになっていた。聞けば、格安のチケットが手に入るらしい。ただしキャンセル待ちのチケットだから、直前になっていつ出発するかが決まるという。
こちらはどうせ休みだし、いつでも大丈夫だ。宿も、兄の旅行会社に勤めていたひとが結婚してマンハッタンに住んでいるので、差し当たってそこに泊めてもらい、そのひとに長期滞在者用のホテルを探してもらうことでプランが出来上がった。
今度は以前よりレコード店の情報もあるし、何より現地に住んでいるひとがいるから心強い。出発したのは11月4日である。キャンセル待ちで、しかも格安のチケットだ。往復で15000円くらいだったと思う。当然、直行便に乗れるはずもない。まずはハワイに行き、そこで入国審査を受けてロスに飛ぶ。ロスからニューヨークまではナイト・フライトといって、夜に出て明け方に着く、これまた一番安い便を予約した。
ところがハワイの入国審査で問題が起こった。ここで係官から「アメリカで働く気はあるのか」と聞かれた。これには「ノー」と答えなければならない。観光ビザで入国して不法就労するのはご法度だ。ハワイは1年中暖かいから、しばらくアルバイトをして資金を溜めて本土へわたるヒッピーまがいが当時は多くて社会問題になっていた。
そんなことも知らないぼくは、「アメリカで仕事ができるなら最高だ」などと、いつものように深く考えずに「イエス」と答えてしまった。それからが大変だった。言葉もほとんど通じないから、係官がなにかを問題にしているのは気がついたものの、こちらにはどうすることもできない。しばらくすったもんだをしたところで、日本語ができる職員が呼ばれて、ぼくの勘違いというか誤解を解いてもらった。
これでアメリカには入国できたが、もうひとつ問題があることに気がついた。ロス行きの飛行機との接続時間が非常に短かったのだ。入国審査でかなり時間を食ったのと、国際線と国内便のターミナルが違うのとで、危ないところでロス行きの便に乗り遅れるところだった。それも何とかクリアしたが、今度はもっと大きなピンチが襲ってくる。
ロスからニューヨークに行く便にはスムーズに乗れたのだが、飛び立ってすぐに大騒動が起こった。何気なく窓から夜のロサンジェルスを眺めていた。するとエンジンのひとつから花火のように綺麗な火花が散ったのである。次の瞬間、その火花が猛烈な勢いの火炎となり、エンジンが燃え始めた。その途端、今度は飛行機ががくんと傾いたのだ。
そのころまでには多くの乗客が異常に気づき、騒ぎ始めていた。飛行機は傾きながら旋回して空港に戻ろうとしている。離陸してから1分も経たないうちのアクシデントだったから、そのまま無事に着陸して、ぼくたちは筒状の滑り台みたいなもので地上に降りた。地面に足をつけたころには、消防車が爆発したエンジンの消火を終えていた。この間、おそらく10分もかかっていないと思うが、ぼくは生きた心地がしなかった。
こういうときは走馬灯のように、これまでのことがフラッシュバックされるとよくいわれる。しかし、実際に死の恐怖に直面したぼくにはそんな現象は起こらなかった。エンジンの炎上を目の当たりにして思ったのは、「ああ、ようやく国家試験を通ってこれから新しい人生が始まるのにこれで終わりか。でも、仕方ないや」というものだった。嘘のようだが、本当にそんな考えしか浮かばなかったのである。こういうときでも諦めが早いのだ。
2004年に心筋梗塞の発作で倒れて救急車で病院に運ばれたときも、似たような気分を味わっている。このときは走馬灯ほど早くなかったが、ゆっくりと自分の過去のことが思い出され、「そんなに悪い人生じゃなかったし、やりたいことはまだあるけれど、ここで死んでも悔いはない」などと考えていた。
小心者のくせに諦めは早い──。しかし、不思議なことにレコードには執着心が極めて強い。ある友人がぼくのことを(レコードに関しては)“欲望の塊”だといっていたが、たしかにその通りだと思う。
これは1977年のことです。そして、そのときにニューヨークの「ヴィレッジ・ヴァンガード」でビル・エヴァンス・トリオを聴きました。聴いているうちに、生きていてよかったという感慨がこみ上げてきたんです。鈍いというか、ひと晩がすぎて緊張感が解けたというか。こういうのも最近はやりの「鈍感力」でしょうか?
実は子供のころに、もうひとつ死にそうな体験をしたことがあります。ですから、ぼくは3回死に損なったことになります。悪運が強いんでしょうね。ここまで生き延びればあとはおまけのような人生で、せいぜい楽しくやっていこうと思っています。
今日はCDの棚のことでも書こうと思っていたのですが、急遽思いついて、こんな体験を紹介してしまいました。
■おまけ(その3)

看護師のディジー・ガレスピーです。注射を打たれているのはコルトレーン?