
ブルーノートの創立者アルフレッド・ライオンがこの世を去ってから、早いもので20年が過ぎました。彼は1986年8月に最初で最後の来日を果たしています。それからわずか半年後の87年2月2日午前8時、サンディエゴ市内のポメラード病院で眠るように息を引きとったそうです。
サンディエゴでのメモリアル・サーヴィスには、親友だったホレス・シルヴァーをはじめ、リード・マイルス、ギル・メレといったゆかりのひとが参列し、11日にはニューヨークのセント・ピータース教会でもメモリアル・サーヴィスが行なわれました。ライオンの遺体は、ルース夫人と少数の知人が立ち会って、翌12日、母親と親友のフランシス・ウルフが眠るニュージャジー州パラマスにあるベス・エル墓地に埋葬されます。

ぼくは縁あってライオンと知己を得ました。そのときのことはあちこちで書きましたので繰り返しません。そして、あるとき、思い立ってライオンの伝記とブルーノートのストーリーをたどる『ブルーノートの真実』を書くことにしました。
それまでに集めたライオンやルース夫人をはじめ、このレーベルにかかわった多数のミュージシャンや関係者の話をまとめて、大好きなブルーノートというレーベルの紹介とライオンへのオマージュとしたかったからです。そのためには、どうしてもライオンが埋葬されている墓地も訪ねてみたいと思いました。
マンハッタンからジョージ・ワシントン・ブリッジをわたってニュージャージーに入ります。ルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオでお馴染みのハッケンサックやイングルウッド・クリフスを通り抜けて少し行くと、パラマスという小さな街に入ります。亡くなる半年前に10日間近く行を共にしたライオンがここで眠っている。寂しいような懐かしいような、言葉ではいい表せない思いで胸がいっぱいになりました。
事務所でお墓のある場所を調べてもらいました。それである程度の見当はつきましたが、正確な場所がわかりません。その一画までいって、あとはひとつひとつの墓石を調べなければなりません。しかし幸いなことに、比較的前方にライオンのお墓はありました。

ウルフのお墓も同じ区画にあるとのことでした。ライオンより15年ほど前に亡くなっていることから、もっと後方を探したところ、ありました! 同じように質素な墓石で、雑草に下半分が埋まっていました。親友同士は10メートルほどの距離で安らかに眠っていたのです。その後はライオンのお母さんのお墓も探したのですが、再婚していたため苗字が違うのでしょう。名前がわからないため、見つけることは諦めました。
現地に行ってみると、わかることっていろいろあります。ハッケンサック、イングルウッド・クリフス、パラマスあたりはジューイッシュの街のようです。裕福な感じではありません。パラマスはとりわけ貧しい街の印象でした。
どうしてライオンがプリマスの墓地に埋葬されていたのでしょうか? 彼はブルーノート時代の後半、そして引退してからの数年間、この街に住んでいたからです。ここが第二の故郷だったのでしょう。そしてこの街にある貧しいジューイッシュ専用の墓地に埋葬されていたことで、ぼくはさまざまな思いにとらわれました。
ブルーノートのオーナーでプロデューサー。聞こえはいいです。しかし、ライオンはすべての財産をレーベルの運営に注いでいました。豊かな生活なんか望んでいなかったのです。
「好きな音楽とミュージシャンに囲まれているのが何よりの財産」
日本で語っていた言葉を思い出しました。
ヴァン・ゲルダー・スタジオが近くにあったことも、この街に住んでいた理由です。ライオンとヴァン・ゲルダーの友情も、ここまで来て初めて実感することができました。ライオンは私生活のすべてをジャズに捧げていたのです。
ルース夫人から、「ライオンが危ない」という話はしばらく前に知らされていました。そして、日本の関係者もその日が来ることを覚悟していました。ぼくは、重い心臓病を患っていたラインが、無理をしてまで日本に来てくれたことに感謝すると同時に、医師として取り返しのつかないことに加担したのではないかと自責の念にかられました。
しかし、しばらくしてルース夫人から暖かい手紙をいただきました。

アルフレッドは、この世を去る直前まで、「マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル」で自分が撮った写真や、放送局から贈られたフェスティバルのヴィデオ・テープを繰り返し観ていました。
アルフレッドが日本に行くといい出したとき、わたしは絶対に承服できませんでした。彼の体調は、サンディエゴから日本への長旅には耐えられないと思ったからです。何度も何度も反対しました。一度は主催者のかたに正式なお断りもしたほどです。それでも、アルフレッドはどうしても行くといって聞かなかったのです。
これまで、わたしはアルフレッドの体調を思うあまり、彼がやりたいことに随分反対してきました。いつもならわたしの意見を受け入れてくれましたが、このときは最後まで行きたいの一点張りでした。そこまでいうのならと、わたしも折れたのです。
日本に着いた当初、わたしは心配で心配で夜もほとんど眠れませんでした。しかし、関係者のみなさんが献身的にアルフレッドの体調を気にかけて下さいました。そのことに心を動かされたことも再三です。
そして何よりも嬉しかったのは、アルフレッドが心から幸せそうにしていたことです。あんなに嬉しそうな夫の顔を、わたしはこの20年間見たことがありません。それだけで、日本に行ったことが間違いでなかったと確信しました。
最後の日々、アルフレッドは日本の思い出ばかりを口にしていました。日本行きが彼の死期を早めたかもしれませんが、いまとなっては、アルフレッドが幸福な最後を過ごせたことに感謝しています。
日本のみなさんがブルーノートを愛して下さっている──。そのことを肌で感じることができて、アルフレッドはどんなに幸せだったことでしょう。彼の人生は間違っていなかった。アルフレッドがわたしの前からいなくなったことは言葉でいい尽くせないほど寂しいことですが、彼は最後にとても大きな喜びをわたしに残してくれました。
日本のみなさんが、これからもブルーノートのレコードを愛してくれることを、アルフレッドとわたしは願っています。
この手紙はぼくの宝物です。ライオンの冥福を祈るとともに、失意のどん底にいたにもかかわらずこんな素敵な手紙を送ってくれたルースに心から感謝します。