悲しいニュースが届けられたのは昨日の午後のことでした。レコード会社のひとが、休日にもかかわらず電話で教えてくれたのです。
実は、ニューヨークにいたときからマイケル・ブレッカーが危ないことは耳にしていました。しかし、医者のくせにぼくは奇跡が彼に訪れることを祈っていました。多くのひとがそう願っていたことでしょう。
以下は、2月に出版予定の『愛しのジャズ・マン』からの引用です。この文章をもう一度読みながら、自分なりにマイケルの冥福を祈りたいと思います。
ぼくが1990年代初頭にプロデュースした作品で、テナー・サックス奏者のボブ・ミンツアーをリーダーにしたものがある。彼とは2枚のアルバムを作ったが、2枚目では歴代のテナー・サックス奏者にトリビュートしようということになった。そこで、同じテナー・サックス奏者のマイケル・ブレッカーにゲストとして入ってもらい、テナー・バトルをやってみようではないかと提案してみた。
マイケルはインパルスの契約アーティストである。レコード会社から許可を取らなくてはならない。ジャズの世界でも、彼のクラスになれば他社でのレコーディングはおいそれとは許してもらえない。そこは同じ世代で同じ楽器、長いこと一緒に苦労してきたボブがマネージメントと交渉してくれて、3曲ならOKの返事をもらう。そうして『ジャイアント・ステップス~フィーチャリング・トゥー・ティーズ』(BMG)という作品がニューヨークでレコーディングされることになった。
マイケルとは留学時代からの知り合いである。ボブの1枚目『アイ・リメンバー・ジャコ』(同)を作るときに、彼のグループでピアノを弾いているジョーイ・カルデラッツォを起用することになり、その了承を得るため挨拶をしにいったことがある。そのときに、「タカオがプロデュースするなら何でも協力するから遠慮なくいってくれ」とはいわれていた。社交辞令だろうが、そういういきさつもあったので、今回はぜひともマイケル本人に参加してもらいたいとお願いしたのである。
マネージメントがレコード会社の了解を得てくれたので、晴れてマイケルも交えてボブと具体的な企画を練ることにした。ピアニストには何人かの候補を考えていた。ぼくが挙げた中から、最終的にこのひとがいいと選んでくれたのはマイケルだった。彼はゲストであるにもかかわらず、仲のいいボブのレコーディングということから、積極的にこの企画に参加してくれた。
そのピアニストとはドン・グロルニックである。当初はフュージョン派として注目を集めていたが、ぼくは彼が弾くアコースティック・ピアノにも魅了されていた。ただしグロルニックはマドンナのプロデュースなども手がけていて多忙だし、ギャラもそれによって跳ね上がっている。こちらは低予算に泣かされている身だから、そこがちょっと引っかかっていた。
しかし、それもマイケルが解決してくれた。かくしてレコーディングは、彼とボブがジョン・コルトレーンの代表曲「ジャイアント・ステップス」などで創造的なバトルを繰り広げる素晴らしいものになった。
発売を目前に控えたある明けがた、家のファクスが1枚の紙を吐き出した。この時間帯に届くのは大半がアメリカからだ。そして眠い目をこすりながらその紙片を見たぼくは、いっぺんに目が覚めてしまった。マイケルの所属レコード会社から送られた警告書だったからだ。
「当社専属のアーティストを無許可でレコーディングに起用したことに対し、当社はそれに該当する作品の発売中止を要請すべく弁護士と協議中である」
こんな内容のファクスが届けば誰だってびっくりする。気が弱いぼくは、それだけで腰が抜けそうになった。しかしマネージメントを通してレコード会社の許諾は取っているのだから、どうしてこうなったのかがわからない。マイケルのマネージャーと交わしたこの件のやりとりはファクスで記録に残っている。
そのままボブに国際電話をかけ、ファクスも転送する。彼の意見では、マネージャーからOKの返事をもらったファクスさえあれば問題はないから大丈夫ということだった。しかし、心配な気持ちは一向に晴れない。アメリカは訴訟社会だし、向こうには専門の弁護士がついている。こちらはレコード会社からの請負いなので、個人で対応するしかない。そんなことを考えていたらすっかり憂鬱になってしまった。
しかしその直後に電話のベルが鳴る。ボブからだろうと思ったが、受話器の向こうから聞こえてきたのはマイケルの声だった。彼がしきりに謝っている。ボブから電話をもらってことの顛末を知ったという。
彼がいうには、マネージャーがレコード会社の担当者に了解は取っていたものの、それを書類の形で提出しなかったため、事情を知らない会社の上層部が問題視して、法務部経由でぼくのところにファクスが来たということだった。
マイケルに非はもちろんない。ぼくが最後まできちんと確認しなかったのが悪いのだ。しかしこの一件があって、彼とはますます親しくさせてもらえることができた。そのマイケルが、いま死の病と闘っている。何とか生還してもらいたいと願っているが、祈ることしかできない自分がもどかしくてしょうがない。
マイケルとは同じ世代でした。数年前には、やはりぼくが企画したレコーディングに参加してくれた同世代のボブ・バーグも交通事故死を遂げています。あとは日野元彦さんも病で失ってしまいました。年齢の近い、そしてぼくにとっては個人的にも親しくさせてもらったミュージシャンの死に接するのは辛いです。でも、ぼくにとってはいつまでも心の中で生きている永遠の彼らです。
ここ数年、死について真剣に考えるようになりました。生があるから死がある。死ぬために生きている。そんな気持ちが強くなっている昨今です。マイケルの悲報を聞いて、だからこそ、きちんと生きていこうという思いをますます強くしました。
マイケルは昨年の夏にレコーディングしています。パット・メセニーとブラッド・メルドーをバックにしたふたつのセッションです。その場に居合わせた友人によれば、薬で痛みを和らげながらのレコーディングだったそうです。かなりしっかりとサックスは吹いていたとのことですが、終わると見るのが辛くなるほど苦痛の表情を浮かべていたといいます。そして2週間前にも最後のレコーディングをしたそうです。春ごろにはこのアルバムがリリースされるようですが、平常心で聴けるかどうかわかりません。
そしてもうひとり、アリス・コルトレーンも12日にこの世を去ってしまいました。彼女とは面識がほとんどなかったですが、ふたりの悲報に接して、歴史がどんどん動いていることを実感しました。