
今年もこの日がやって来ました。ジョンが凶弾に倒れてから26年が過ぎたんですね。光陰矢のごとしですが、あの日のショックは忘れません。ぼくは勤務先の病院から戻るときに、たまたまスイッチをひねったカー・ラジオでこの悲報を聞きました。
最初は誤報じゃないかと思ったほどです。にわかには信じることができませんでした。それでもこれは冗談じゃないんだとわかり、思わず車を止めて、あちこちのチャンネルを回しました。運転なんかできる状態ではありません。
『ダブル・ファンタジー』が発売されて、ようやく長い眠りから醒めたジョン。翌年はツアーの開始も噂されていました。本当にこれからというときの予想もしなかった出来事です。それだけに、ショックの大きさは言葉で表せません。
去年のブログにも同じようなことを書いたと思いますが、毎年こういうことしか頭をよぎりません。12月8日が来ると、あのとき、車をとにかく停めて落ち着こうとしていた自分を思い出します。翌年の命日にはダコタ・ハウスにも行き、世界中のファンとジョンが残した歌の数々をうたいました。
そのときのことを、2年前の『月刊Playboy』の10月号で書いたことがあります。そのさわりの部分を今日は紹介して、ジョンの冥福を祈りたいと思います。

1981年12月8日、ぼくはダコタ・ハウスの前にいた。ジョンが凶弾に倒れて1年。ニューヨーク大学に留学していたぼくは、居ても立ってもいられない気持ちで、授業が終わったあと、西72丁目にあるダコタ・ハウスへ向かった。
同じような思いで集まってきたひとがすでに100名以上はいただろうか。ニューヨークの冬は夕暮れが早い。午後6時を過ぎたばかりというのに、街灯がともり、行き交う車はライトを点灯している。肌寒い空気の中で始まった「イマジン」や「ギブ・ピース・ア・チャンス」の合唱。そして暮れなずむマンハッタン。
やがてヨーコさんが出てきて、銀紙に包んだチョコレートの小片を配り始めた。そのときの光景がいまも目に焼きついて離れない。いつまでもやまないコーラスは、ジョンへの思いをそれぞれが辿る旅。
ジョンとヨーコは、式を挙げず、役所に書類を提出しただけで結婚した。その話を聞いて真似したことが懐かしい。ニューヨークに留学したのも、ジョンが主夫となって子育てに専念するという話を耳にしたからだ。忙しい東京での生活から離れ、もう一度勉強をしながら子供を育ててみたい──そんな思いも留学に駆り立てた。
しかし、ジョンは何の断りもなしに旅立ってしまった。その衝撃も、彼が住んでいたニューヨークに向かわせる決断に繋がった。

ニューヨークでジョンを思い出す場所は、ダコタ・ハウスのほかにもいろいろある。一番有名なのは、セントラル・パーク内のストロベリーフィールズ・フォーエヴァーだろうか。その死を追悼して1985年に設置されたこのメモリアルは、ダコタ・ハウスの向かいからパークに入ってすぐのところ。
木漏れ日がそっとメモリアルを照らす。夏でも程よい涼しさと明るさが、疲れた足を癒してくれる。ニューヨーカーも観光客もほっとひといきつける場所。横には「イマジン」を歌う、長髪で上半身裸の若者がいた。
それでは、しばし“フリー・アズ・ア・バード”となって、マンハッタンを飛び回ってみようか。(以下略)

最初にジョンとヨーコが住んだ105 Bank St.のアパート(白い建物)

ジョンが息を引き取ったルーズヴェルト病院

ジョンとヨーコお気に入りのコーヒー・ショップで。この席で写した写真が「Nobody Told Me」のジャケットに使われている