
真剣にジャズを聴いているひとはきっと見向きもしないと思いますが、今回はフリオ・イグレシアスの『今宵もロマンティック(原題:Romantec Classics)』にぞっこんまいってしまいました。ポップス系のラヴ・ソングを英語で歌ったものですが、甘さ加減が何ともいえず実にほろりとさせられます。オープニングがニルソンの<うわさの男>、そして次がビージーズの<傷心の日々>。この2曲を聴いただけでノックアウトされてしまいました。そしてそのあとも大好きな曲が続いていきます。
フリオ・イグレシアスは留学時代にやたらアメリカで流行っていました。25年くらい前の話です。ぼくは大の偏食で、病気になったいまでも魚や野菜を食べるのに苦労しています。でも、音楽に関しては何でも好きなんですね。雑食です。フリオ・イグレシアスも大好きですし、シャンソンとかカンツォーネとかも好きです。
音楽には先入観がありません。不思議なもので、ひとつのことにとても細かいくせして、別のところでは大雑把です。このジキルとハイドみたいな人格は、音楽に限らずあらゆるところで顔を出します。大雑把なところと細かいところがほんのちょっとした違いで明確にわかれているんです。その境い目が何なのかは自分にもわかりません。これってB型の特徴でしょうか?
この『今宵もロマンティック』を聴いていて思ったことがあります。楽曲の持つ力っていうのでしょうか。それがフリオの表現力と良好なバランスでかみ合っているんです。ただし、ぼくにとってはということですが。何でもそうしょうが、大切なのはバランスだと思います。どんなにいい音楽でも、聴き手がそれを受け止めることができなければ、その音楽はそのひとにとっていい音楽にはなりません。
あらゆるひとにとって「いい音楽」というのはありえません。どんな名曲・名演・名唱にも、嫌いだっていうひとはいるんですから。楽曲とパフォーマーとリスナー。これらの三位一体によって、「そのひとにとってのいい音楽」が生まれてくることになります。ぼくはずっとそう考えてきました。
ニルソンが歌う<うわさの男>やビージーズの<傷心の日々>も素晴らしいことに違いはありません。若かったころのぼくに何らかの思いを強く感じさせてくれたのがこれらの歌です。けれど、フリオの歌はもっと素晴らしいと思えました。深い人生が感じられるんですね。味わいといってもいいです。それが年齢によるものなのか、持って生まれた才能によるものかはわかりません。でも、ぼくの心をぐっと掴んだことは確かです。

ぼくも年を取ったんでしょう。いまは渋い歌が大好きで仕方ありません。サウンドトラックですが最近出たレナード・コーエンの『I'm Your Man』もよかったですし、もちろん前回のMHRで書いたボブ・ディランもよかったです。あと、フリオ以外でいま聴いていていいなと思っているのがスモーキー・ロビンソンのジャズ・アルバム『タイムレス・ラヴ』です。
ロックやポップス系のひとが歌うジャズ・アルバムがどんどん出ていますが、ミラクルズで一斉を風靡したスモーキーのジャズ・ヴォーカルは妙に浮いていて変な感じです。この変な感じこそスモーキーじゃありませんか。彼が神妙にジャズ・ヴォーカルを歌ったって面白くありません。
話は戻りますが、『今宵もロマンティック』を聴いて、楽曲が持つ力に思いが巡りました。ぼくたちは、どうもパフォーマーの力量についてああだこうだといい勝ちです。ところ楽曲が持つ力についてはほとんど語っていないかもしれません。せいぜい「いい曲だ」くらいで終わっているでしょう。
「いい曲」はパフォーマーの力を引き出すんですね。「いい曲に巡り会えた」というのがそういうことです。素晴らしいパフォーマンスはもちろんパフォーマーの力量によるものですが、そのうちのいくらかは楽曲の持つ力にもよるのだと思います。
ぼくはそう考えることをおろそかにしていました。「いい曲だ」で片づけていたことを反省したいと思います。これからはその曲が持つ力についても考えてみたいと思います。そこからいままでとは違う音楽の楽しみかたが生まれるかもしれません。そしてそういうことを思い出させてくれたのが、ジャズでもロックでもなくフリオの歌だったことに喜びを感じました。
ジャズ・ファンは多分ほとんど見向きもしないだろうフリオの歌から大切なことを教えられました。嬉しいじゃありませんか。幅広く音楽を聴いてきてよかったと思うのがこういうときです。