
もう38年になるのか。Alfred Lion (born Alfred Löw; April 21, 1908 – February 2, 1987)
マンハッタンからジョージ・ワシントン・ブリッジを渡ってニュージャージーに入る。ブルーノートを中心にしたレコーディングの名エンジニア、ルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオでお馴染みのハッケンサックやイングルウッド・クリフスを通り抜けた少し先にパラマスがある。亡くなる半年前、日本で10日間近く行動を共にしたライオンがここで眠っている──寂しいような懐かしいような、言葉ではいい表せない思いが胸いっぱいに広がった。
墓地の事務所でお墓の場所を教えてもらう。これで見当はついたものの、正確な場所がわからない。指示された一画まで行き、あとはひとつひとつの墓石を調べていく。幸いなことに、ライオンのお墓は比較的前方にあった。

盟友だったフランシス・ウルフのお墓も同じ区画にあることはわかっていた。ライオンより15年ほど前に亡くなっていることから、もっと後方を探したところ、こちらも簡単に見つけることができた。同じように質素な墓石で、下半分が雑草で埋まっている。親友同士は10メートルほどの距離で安らかに眠っていた。あとはライオンのお母さんのお墓も探してみたが、見つけることはできなかった。再婚していたため、苗字が違うのだろう。
現地に行くとわかることがある。ハッケンサック、イングルウッド・クリフス、パラマスあたりはユダヤ系のひとが多く住む街だ。裕福な感じではない。パラマスはとりわけ貧しい印象だった。このあたりに住むひとのことを、侮蔑を込めて「ポリエステル・ピープル」と呼ぶひとがいる。友人が、そう教えてくれた。「貧しくて、ポリエステルの服しか着られないからだ」という。いやな言葉だ。
どうしてライオンがプリマスの墓地に埋葬されているのか? 彼はブルーノート時代の後半、そして引退してからの数年間、この街に住んでいた。ここが第2の故郷だったのだ。街の貧しいユダヤ系のひとたち専用の墓地に埋葬されていたことで、ぼくはさまざまな思いにとらわれた。

ブルーノートのオーナーでプロデューサー──聞こえはいいが、ライオンはすべての財産をレーベルの運営につぎ込んでいた。ブルーノートと関わったミュージシャンにあらゆるものを捧げた人生だった。ミュージシャンが喜んでくれればそれでいい──その一心でブルーノートを運営していた。豊かな生活など望んでいなかったのだ。
拙著『改訂版ブルーノートの真実』より
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