ジャッキー・マクリーンが3月31日に亡くなりました。死因は発表されていないようです。コネティカットの自宅で亡くなったとありますから、心不全とかそういったものかもしれません。享年73歳は早すぎます。
マククリーンとはたくさんの思い出があります。最初に言葉を交わしたのが留学していたころですから、25年ほど前になるでしょうか。「ヴィレッジ・ヴァンガード」に彼のクインテットを観にいったんですね。そのときにピアノを弾いていたマルグリュー・ミラーが休憩時間に紹介してくれました。
社交辞令でしょうが、ぼくが整形外科の医者だと知るや、首が以前から痛くて困っているという話になりました。症状を聞いてちょっとしたアドヴァイスをしたら、とても喜んでくれたので、こちらもずっと憧れてきたジャズの巨人にそんなに喜んでもらえて本当に嬉しかったことを思い出します。
その後は、2年に一度くらいの割合でインタビューをしたり、仕事以外でも会うことがありました。
親しくなったのは、1986年の「第1回マウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァル」にやってきたときです。直前に足首を骨折していたんですが、マクリーンは邪魔だからと自分でギプスを外してしまいました。それで足首がぱんぱんに腫れ、痛みも強くなってしまったんですね。
ぼくはミュージシャンとスタッフ専属の医者としてフェスティヴァルに参加していました。そういうわけで、来日してすぐに呼ばれてホテルで診察をして、応急処置をしたんですが、このときも異常なほどに喜んでくれて、帰国後に「You saved my life.」とお礼状を送ってくれました。骨折の治療くらいで命の恩人は大げさですが、それより手紙を送ってくれたことに感激しました。ぼくにとっては長年のアイドルだったんですから。
このときは、フェスティヴァルが終わってから、たまたま自分のツアーで来日していたマル・ウォルドロンと東京でライヴ・レコーディングをする計画がありました。ところがマルは「レフト・アローン」だけは絶対に演奏しないと言い張り、関係者が頭を抱えていました。
日本のファンは、その昔にふたりが共演した「レフト・アローン」に格別の思い入れがあります。この曲を吹き込んだことでマルは永遠に日本で人気者になった経緯もあって、そのオリジナル・レコーディングに参加したマクリーンとの共演となれば、どうしても「レフト・アローン」は演奏してほしいと願うのが普通です。
ところがマルにしてみれば、いつまで経っても「レフト・アローン」ばかりリクエストされることにうんざりしていたのでしょう。それで今回は「演りたくない」という話になったのですが、それだと企画自体がつぶれてしまいます。
そこで、関係者からぼくにコーディネーションの依頼が来ました。どちらも知っているんだから、何とか説得してもらえないかというんです。こういう依頼は気乗りがしません。演りたくないものを無理強いするのは、ミュージシャンに対して敬意の念を欠くことになります。
しかし、ぼくもふたりが演奏する「レフト・アローン」はどうしても聴いてみたいひとりです。そこで、まずはマクリーンに話をしました。ふたりがこの曲をやる必然性とか、日本のファンがこの曲に寄せる愛着とかを、下手な英語で一所懸命に説明しました。
するとマクリーンは、こう言ってくれたのです。「この曲で日本のジャズ・ファンが増えたという君の意見はその通りだと思う。そしてわたしたちがこの曲を演奏すれば、今度は新しいファンが増えるかもしれない。それがわたしたちにとって大切なことはわかっている。わたしからマルに話をしてみるよ」
これがライヴ・レコーディングの3日前です。調べてみると、この日、マルは仙台にいました。電話でマクリーンがマルを呼び出します。ひとしきり挨拶が終わり、マクリーンはぼくに受話器を渡しました。
「まずは君から、さっきわたしに話したことを彼に伝えてみたらどうだい? それで足りないところは補足するから」
突然そんなことをいわれてどぎまぎしましたが、マルとも旧知の間柄です。そこで、もう一度熱弁をふるいました。最初は「ノー」の一点張りだったんですが、マクリーンからの電話ということもあって、こちらの話には誠実に耳を傾けてくれます。そして、ひとこと「ジャッキーと代わってくれ」
マクリーンとは「レフト・アローン」のことではなく世間話をしているようです。それで、しばらくして彼は受話器を置いてしまいました。やっぱり拒否されたかな? そう思いました。
ところがマクリーンは「マルが君によろしくって。3日後に最高の「レフト・アローン」を聴かせるといっていたよ。だからわたしも負けちゃいられない」
あとでマクリーンが教えてくれたんですが、彼は最初の会話でマルからOKの返事をもらっていたんですね。あとは、ふたりでぼくのことをからかっていたんです。ただし、マクリーンにはひとつ考えがありました。それは、ぼくの熱意をマルにも伝えれば、彼が一層やる気になると考えていたんです。
これはマクリーンの気配りでした。うまく説明できないのですが、こうやって自分のモチヴェーションも高めていたと同時に、マルとぼくの関係も良好なものにしようと気を配ってくれたみたいです。そんな優しいところがマクリーンにはたくさんありました。
東京でのライヴは大成功でした。コンサートの模様は『レフト・アローン '86』のタイトルでパイオニアLDC(現在のジェネオン)がビデオ化し、キングがCDでリリースしました。ぼくは、舞台の袖で25年ぶりに演奏されたふたりによる「レフト・アローン」を聴きながら感極まっていました。
そして、さらに彼らはぼくを感激させてくれたんです。発売されたアルバムのジャケット裏を見ると、そこには「Special thanks to Dr. Takao Ogawa」の文字がありました。こうクレジットしてくれたのはマクリーンとマルの好意です。彼らの心遣いには感謝してもしきれません。
そのマルも数年前に永遠の旅立ちをしました。いまごろふたりは天国で3回目の「レフト・アローン」を演奏しているかもしれません。その演奏が聴きたいのはやまやまですが、こちらはもう少しこの世で「レフト・アローン」を聴かせてもらいます。
合掌。