ロックの行く末がどうなるのか──40年以上前にどれだけのひとが考えていたでしょうか? ストーンズがいてビートルズがいてフーがいた。彼らの音楽に囲まれているだけで、ぼくは満足していました。ロックの将来なんて考えずに、次から次へと出てくる彼らの新曲に胸を躍らせたものです。

そして気がついたら40年以上が過ぎていました。しかもいまだにストーンズの音楽にはノックアウトされっぱなしです。東京ドームに現れた彼らは、いまから16年前に同じステージに初めて登場したときの彼らと、ぼくのイメージの中では変わっていません。40代半ばだったストーンズがいまでは60歳を過ぎています。この間の変化は、普通のひとならとても大きなもののはずです。もちろん彼らにとっても、心身ともに大きな変化が訪れているに違いありません。
しかしストーンズはそんなことなど微塵も感じさせずに、ドームで2時間以上にわたってロックし続けました。1960年代前半にロンドンの小さな小屋で荒っぽいパフォーマンスを繰り広げていた彼らのステージと昨日のステージも、イメージ的には大きな違いはないのかもしれません。

ぼくにとってのストーンズは、中学生の時代に聴いたときのままです。「スタート・ミー・アップ」から始まり「イッツ・オンリー・ロックンロール」へと続くオープニングから、彼らは昔のままのサウンドでぼくに迫ってきました。
しかし、決して古いロックでないところがストーンズです。転がり続けているからこそ、苔の生えたロックにはならないんですね。一瞬たりともテンションの下がるところがなかった2時間余のステージ。こんなに内容の濃いエンタテインメントをストーンズは40年以上にわたって繰り広げてきたのです。
ぼくより年上の彼らが、ステージで転がり続け、古くて新しいロックを聴かせてくれる──その姿に勇気をもらったひとも多かったでしょう。ぼくもそんなひとりですが、とても彼らにはかないません。それでも、少しでも近づければいいなと思います。
ロン・ウッドのコメントがプログラムに書かれていました。
「ギヴ・アンド・テイクを惜しまないこと。相手の意見を聞くこと。大人になること。一歩引くこと」
なるほど。ぼくも大人になりきれない中年ですが、居直って大人の妙な分別を敢えて拒否し続けてきたからこそ、これまで楽しい日々が過ごせてきたのかもしれません。その代わり、周りはずいぶん迷惑していることでしょうが。
ロン・ウッドも「大人になること」といいながら、相変わらずやんちゃでロック少年の面影を残しています。大人になろうと意識しつつも子供の純粋さは保ちたい。これがぼくの行き方の根幹を成しているのかもしれません。ただし、ひとはそれをさして、「お前、まだそんなことをやってんの」といいますが。これは、ぼくに対しての褒め言葉と勝手に解釈しています。
ここ数年、中学や高校時代の友人と会う機会が増えました。それこそ40年近く会ったことのない友人との再会もあります。互いにいろいろと転がり続けてきての再会は、懐かしいというだけでなく、言葉ではいえないさまざまな思いが交錯します。

若いころは、当たり前のことですが、将来のことなど漠然としか考えていませんでした。自分が目指した目標に向かっていくひともいれば、その場の享楽に身をゆだねていたひともいます。ぼくはどうだったかなと振り返ると、両方があったように思います。それが、まあ一般的な行き方かもしれませんね。
古い友人と会いながら、そんなことを考えていました。あのころはピュアだったし、夢も沢山ありました。転がり続けるうちにいつの間にか忘れてしまったこともあります。しかし、友人と会い、ストーンズのライヴを観て強く思いました。僕たちは、うしろは振り返っても、決してそこにとどまっていないということです。友人たちもまだ転がり続けています。これぞロックじゃありませんか。昔を振り返ることが多くなってきた昨今ですが、それを今日の生きるパワーにできるうちは、まだまだ転がり続けていけるな、と。
40年前に今日のストーンズやロックのことが想像できなかったように、ぼくたちの未来も想像できません。けれど、転がり続けていくことの意味と意義を、ぼくはこのところ強く感じています。
ストーンズのライヴが終わってから参加したDJイヴェントについては、後日報告しますね。