1975.2.15 Ella Fitzgerald 渋谷公会堂
全盛期はとうの昔に過ぎていたけど、エラのヴォーカルは貫禄十分。彼女にしか歌えないジャズ・ヴォーカルが堪能できました。バックのトミー・フラナガン・トリオによる絶妙なサポートと、フラナガンの小気味がいいソロも極上。このとき、フラナガン・トリオは日本で久々のリーダー作を録音。このエリントン集はよかった。
Her heyday had long since passed, but Ella's vocals were still very dignified. I enjoyed her jazz vocals that only she could sing. The backing band, the Tommy Flanagan Trio, provided exquisite support, and Flanagan's lively solos were superb. At this time, the Flanagan Trio recorded their first leader album in Japan in a long time. This Ellington collection is good.
『伝説のライヴ・イン・ジャパン 記憶と記録でひもとくジャズ史』よりhttps://amzn.asia/d/bVUdQzg

『トミー・フラナガン・トリオ/ア・デイ・イン・トーキョー』(LP)
ポリドール/Pablo MW 2120
The Tommy Flanagan Tokyo Recital(LP)
Germany Pablo 2310 724
[Side One]
① オールデイ・ロング(ビリー・ストレイホーン)5:12
② UMMG(ビリー・ストレイホーン)4:42
③ サムシング・トゥ・リヴ・フォー(デューク・エリントン&ビリー・ストレイホーン)3:04
④ メインステム(デューク・エリントン)6:55
⑤ デイドリーム(ジョン・ラトゥーシェ、ビリー・ストレイホーン)4:40
[Side Two]
⑥ ザ・インティマシー・オブ・ザ・ブルース(ビリー・ストレイホーン)6:10
⑦ キャラヴァン(ファン・ティゾール&デューク・エリントン)6:43
⑧ チェルシー・ブリッジ(ビリー・ストレイホーン)6:17
⑨ A列車で行こう(ビリー・ストレイホーン)5:17
トミー・フラナガン(p) キーター・ベッツ(b) ボビー・ダーハム(ds)
1975年2月15日 東京・目黒「ポリドール第1スタジオ」で録音
日本でこのアルバムが吹き込まれるまで、トミー・フラナガン(1930年3月16日 - 2001年11月16日)は寡作家として知られていた。本作の担当ディレクター、岡村融がいきさつを話してくれた。これをもって、作品の紹介としよう。
「1975年にエラ・フィッツジェラルド(vo)の伴奏でトミー・フラナガンが来たでしょ。プロデューサーのノーマン・グランツも一緒だったから、『来日中に録音させてくれ』といったんです。ところが、よその会社からもいくつかオファーが来ていたんです。その話を聞いて、『これは取られてなるものか』とポリドールも名乗りをあげて、グランツと交渉しました。
グランツは日本の定宿が虎ノ門の「ホテル・オークラ」。ホテルに行って、ロビーでよその会社の人間とばったり鉢合わせをしましたけど(笑)。そのときは、ジャズ担当の矢野泰三ディレクターとぼくと、それからミキサーとでグランツに会って。事前に油井正一さんに『レコーディングを考えている』と話したら、『日本では、歌の伴奏ではなくてハード・バップのピアニストとして人気があるから、ぜひやるべき』と、2、3曲リクエストもしてくれて。
グランツと会うのはこれが初めて。そのときに、彼がびっくりしてるんです。『さっきもよそのレコード会社が来たけど、フラナガンは歌伴のピアニストだよ。それを録ってどうするんだ?』というから、『日本では違う。これこれこういうピアニストだから、彼は日本で人気がある』と。『売れたってせいぜい3000枚がいいとこだろう』というから、『間違いなく一万枚は売るから、やらせてくれ』と、啖呵を切ってね(笑)。ポリドールならパブロ・レーベルで出せるし、まあ面倒は省けますよね。しかもこっちはミキサーまで連れて行ってるから、その話もできる。
ところがここで問題が出て、もうやめようかというところまでいったんです。われわれはハード・バッパーとしてのトミー・フラナガンのレコードを、ピアノ・トリオの編成で作りたい。しかも、彼はリーダー・アルバムを15年間吹き込んでいない。60年のムーズヴィル盤が最後ですから(60年5月18日録音の『ザ・トミー・フラナガン・トリオ』)。
フラナガンにしたっていつも歌伴でしょ。リーダーでレコーディングするなら絶対に乗ってくるはずですよ。それで『やりたい』といったら、グランツが『ダメだろう』というんです。『あいつはデューク・エリントンが好きだから、エリントン集なら自分も賛成する』『ちょっと待ってくださいよ。日本でエリントン集なんか出したら、それこそ売れない。それじゃ話にならない』。
結局、グランツから最終的に妥協案が出て、『ここでゴタゴタしててもしょうがないから、本人に任せよう。彼のやりたいことをやればいいわけだから』と。それで完成したのがこれです。みんなエリントンの曲でしょ。
でもね、本人に任せて『いちばんやりたいことをやる』といわれたら、こちらはなにもいえないですよ。だけど、これでよかったんです。キーター・ベッツとボビー・ダーハムのリズムでは、やっぱりハード・バップはできないですから。(それで5桁はいきましたか?)完全にいきましたし、グランツへの面子も立ちました」
ということで、このアルバムが世に登場した。前年にエリントンが死去したことから、フラナガンにはトリビュートの気持ちがあったのかもしれない。
本作はパブロの本社があるドイツをはじめ、各国で発売されている。ただし、そちらはジャケット・デザインと、コンサート録音でないのにタイトルも『トーキョー・リサイタル』に変えられていた。このあと、フラナガンは数多くのリーダー作を世に送り出す。そのきっかけを作ったのが日本のポリドールだ。