1973.5.22 Cecil Taylor Trio 厚生年金会館大ホール

この後も東京とニューヨークで何度も観るが、初来日したこのときがいちばん凄かった。個人的には、当時におけるジャズの究極形がこの演奏。

『セシル・テイラー・ユニット/アキサキラ』(2LP)
トリオ・レコード/Trio PA 3004-5
[Side One]
① ブル・アキサキラ・クタラ1(セシル・テイラー)20:46
[Side Two]
② ブル・アキサキラ・クタラ2(セシル・テイラー)20:06
[Side Three]
③ ブル・アキサキラ・クタラ3(セシル・テイラー)19:40
[Side Four]
④ ブル・アキサキラ・クタラ4(セシル・テイラー)20:27
セシル・テイラー(p) ジミー・ライオンズ(as) アンドリュー・シリル(ds)
1973年5月22日 東京・新宿「東京厚生年金会館大ホール」で実況録音
驚くべき体験だった。まさかセシル・テイラー(1929年3月25日 - 2018年4月5日)の初来日が実現しようとは夢にも思っていなかったからだ。マイルス・デイヴィスが2度目の来日を果たすことが決定的となり(1973年6月)、日本中のジャズ・ファンが気もそぞろになっていたころ、突如としてまだ見ぬテイラーのツアーが発表された。マイルスとはタイプも違えば音楽性も違う。けれど、当時のファンはマイルスにもテイラーにも同じような期待を寄せていた。
マイルスの来日も、来るまでは信じられなかった。しかし、それ以上にテイラーが本当に来るのか、そちらのほうがもっと信じられなかった。いまとなってはそのあたりの空気が上手く伝えられない。招聘元も、羽田に着くまでは半信半疑だった。全国5か所で公演が行なわれ、東京では2回のコンサートのほか、待望のソロ・ピアノ・ライヴが来日後に追加される。
テイラーが連れてきたグループは、アルト・サックスのジミー・ライオンズにドラムスのアンドリュー・シリルという、当時のレギュラー・ユニットだ。同じ編成であることから、全盛を誇っていた山下洋輔トリオと比較されたことも懐かしい。
このときの、暴力的ですらあるプレイには嵐か荒れ狂う暴風雨を思わせるものがあった。ひたすらピアノに向かうテイラーには、なんぴとも寄せつけない雰囲気を感じた。そこに切り込むライオンズには突撃隊長のような悲壮感が漂っている。この両者の間に入って、さらにすさまじい突風を送り込むのがシリルだ。三者三様、それでいてピタリと息が合っている。そこに、絶頂期のレギュラー・トリオにしか表現できないグループのサウンドがあった。
ライオンズはフリー・ジャズ系のアルト・サックス奏者として向かうところ敵なしの存在である。シリルのように複雑なテキスチャーとポリリズミックなドラミングができるひともいない。その3人が火花を散らすように、持てる力と技の限りを尽くす。それがこの演奏だ。
レコーディングの話は直前まで出ていなかった。日本に来てから交渉が始まったという。ステージのパフォーマンスにひと一倍神経質なテイラーである。彼がOKすることはめったにない。関係者の熱意や本気でジャズのことを考えている姿に接し、例外的に許可したのである。しかも、その時点で初めての発表になるソロ・ピアノのレコーディング[175]もしたのだから、にわかには信じられないことだった(ソロ・ピアノ作品に関しては、これ以前に吹き込まれたものがのちに作品化されている)。
テイラーの日本公演は極めてセンセーショナルなものとなった。その東京における2日目のコンサートを収録したのがこの作品だ。ファンの期待を背負って来日した彼は、自分のペースで演奏し、それによってこれまで以上に高い評価を獲得する。フリー・ジャズということで敬遠するファンもいたが、そんなせせこましい考えを一掃してしまうほど、ステージには強い衝撃と聴くものの心を揺さぶる感動があった。テイラー・ユニットの音楽は、ジャンルを超えていたといっていい。
「コンサートは視覚の面でも重要だ」
この考えがモットーのテイラーは、白いタートル・ネックのセーターに白いパンツと白い靴の全身白ずくめだった。オフ・ステージではそこに白い帽子も被っており、白に強いこだわりを見せていた。ピアノを精力的に弾きまくった次の瞬間にフラリとバレエのようなステップを踏んだこともある。これも、視覚効果を高めるためのものだ。
興奮の坩堝に叩き込んだセシル・テイラー・ユニットの公演は、その直後に9年ぶり2度目の訪日を果たすマイルス・デイヴィスのグループと共に、73年のハイライトを成す出来事となった。そのときの記録がいまもCDで聴ける喜びは大きい。

『セシル・テイラー/ソロ』(LP)
トリオ・レコード/Trio PA 7067
[Side One]
① コーラル・オブ・ヴォイス [エリージョン](セシル・テイラー)7:21
② ロノ(セシル・テイラー)9:25
[Side Two]
③ アサック・イン・アメ [ファースト・レイヤー・パート・オブ・インデント](セシル・テイラー)7:09
④ インデント [1/2・オブ・ファースト・レイヤー~セカンド・1/2・オブ・ファースト・レイヤー](セシル・テイラー)7:17
セシル・テイラー(p)
1973年5月29日 東京・内幸町「イイノホール」で録音
1980年代にニューヨークで会ったとき、セシル・テイラーは73年の来日についてこう振り返ってくれた。
「日本で自分の音楽がどれくらい認知されているか、非常に心配だった。しかし、すぐに多くのひとがわたしの音楽に関心を持っていることが理解できた。レコーディングをするために特別なことはしなかったけれど、あの時点で最良の演奏ができたと思う。ユニットのコンディションもよかったし、ステージ上で、わたしも創造的な時間を十分に持つことができた。ユニットによる作品もソロ・ピアノも、いまだ印象に残っている」
テイラーが言及した「ソロ・ピアノ」(本作)については、ライナーノーツで、コーディネイターを務めた評論家の悠雅彦がこんなやりとりを紹介している。
「ねえ、セシル。もし、レコーディングの決心がついたのなら、トリオとソロを半分ずつやってくれないか。われわれは、あなたのソロもぜひ聴きたい。去年、マッコイ・タイナーが日本でソロを吹き込んだのだが[167]、これが素晴らしい内容だっただけにね」(悠)
「興味はあるし、自分としてはやってみたい。でも、今回はユニットのツアーだから、彼ら(ジミー・ライオンズとアンドリュー・シリル)の意見も聞かないと。たぶん、いい顔はしないだろう」(テイラー)
ライヴでのソロ・レコーディングは叶わなかったが、「イイノホール」をスタジオ代わりにして、もう1枚のアルバムが録音される。それが、すべてのコンサートを終えたあとの5月29日に残された本作だ。
『アキサキラ』発売の翌月、10月21日にこのアルバムはリリースされた。こちらは油井正一が、『スイングジャーナル』誌(73年11月号)で大絶賛している。
「セシル・テイラーの来日は、ジャズ界における本年最大のイヴェントであったと思う。前々からテイラーのグループでは、彼ひとりが傑出していると考えていたし、コンサートを聴いた実感としては、やはりソロで聴きたいひとであった。
テイラーのソロ・アルバムは、知る限りでこれが最初のものである。素晴らしい! テイラーはLP片面の時間を認識して、実に鮮やかにA面を纏め、B面に入って、いっそう高揚する。起承転結も申し分ない傑出した1枚で、異端的名ピアニスト、セシル・テイラーの代表作として、世界に誇り得る記録となった」
評点は文句なしの5星である。
本作を発売したトリオ・レコードのプロデューサー、稲岡邦弥の回想にこういうくだりがある。
「鯉沼さん(招聘したあいミュージック社長の鯉沼利成)が、イイノホールでセシルのソロを録音していた。オーディオ・マニアでもある鯉沼さんが起用したエンジニアは菅野(ルビ=すがの)沖彦さん。アートワークは鯉沼さんのスタッフにお任せした。ライヴ盤、スタジオ盤、共に内容を見事にヴィジュアル化した素晴らしい作品が届けられた。ライヴ盤は『スイングジャーナル』のディスク大賞で銀賞、ソロは最優秀国内録音賞を受賞した。時代を反映した受賞でもあったのだろう」
これら2作が評判を呼び、翌年9月にセシル・テイラー・ユニットは再来日する。今回は、前年の3人に、新人トランぺッターのアート・ウィリアムスを加えたカルテット編成である。嬉しいことに、東京と札幌ではソロ・ピアノ・コンサートも実施された。
筆者は東京で行なわれたユニットによる2回の公演とソロ・コンサートも聴くことができた。しかし、受けた衝撃は初来日時を超えるものでなかった。
印象はひとそれぞれだが、その後にニューヨークで何回か聴くことができたステージも含めて、73年のすさまじい破壊力と、そこから生まれた高い創造性を凌駕することはなかった。73年5月のセシル・テイラーには創造の神が宿っていた。それが記録されたことに感謝したい。