McCoy Tyner Quartet 1972.10.31 新宿厚生年金会館大ホール
『サハラ』で話題を呼んでいた時期に、同じメンバーで来日。これほどワクワクしたコンサートはなかった。何度もマッコイは聴いたが、このときが最高。そして置き土産がソロ・アルバムの傑作『エコーズ・オブ・ア・フレンド』。
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『マッコイ・タイナー~コルトレーンに捧ぐ/エコーズ・オブ・ア・フレンド』(LP)
ビクター音楽産業/Victor SMJX 6009
[Side One]
① ネイマ(ジョン・コルトレーン)6:34
② プロミス(ジョン・コルトレーン)6:10
③ マイ・フェイヴァリット・シングス(オスカー・ハマースタイン二世、リチャード・ロジャース)8:38
[Side Two]
④ ザ・ディスカヴァリー(マッコイ・タイナー)17:32
⑤ フォークス(マッコイ・タイナー)7:39
マッコイ・タイナー(p, per)
1972年11月11日 東京・青山「ビクター・スタジオ」で録音
マッコイ・タイナー(1938年12月11日 - 2020年3月6日)の初来日は1966年だが、このときは「第3回ドラム合戦」の一員ということもあって、それほど大きなスポットライトは当たらなかった。それでもブルーノートから注目作は出していたし、前年までジョン・コルトレーン・カルテットで活躍していたこともあり、ファンはそれなりに興味を向けていた。
そんなタイナーだが、その後にマイルストーンに移籍し、72年に出した1作目の『サハラ』によって俄然注目度が高まる。コルトレーンの後継者として名前は挙がっていたものの、本命だったアーチー・シェップ(ts)やファラオ・サンダース(ts)の活躍が目立ち、楽器も異なることから、ダークホース的存在に甘んじていた。ところがコルトレーン直伝の音楽をオリジナリティ溢れる形で示したこのアルバムで、一躍「後継者」の最有力候補に躍り出る。
その『サハラ』が日本でも大きな話題を呼んでいる最中(ルビ=さなか)の訪日である。それゆえ、初日の「東京厚生年金会館大ホール」はほぼ満員の入りだった。同作と同じ、ソニー・フォーチュン(sax)、カルヴィン・ヒル(b)、アルフォンス・ムザーン(ds)が繰り広げる演奏はアルバム以上の出来栄えで、強く印象に残るものだった。
この時点で、タイナーはニューヨークを拠点にするミュージシャンの中でトップ・クラスの実力と人気を備えていた。優れた作品の発表にもかかわらず中堅どころでくすぶっていた60年代と違い、ジャズの最前線で華々しい活躍をしていたのがこの時代だ。
ツアーを終えたあと、タイナーはひとり東京に残り、初めてのソロ・アルバムを吹き込む。充実した日本公演がレコーディングのあと押しになったのだろう。敬愛するコルトレーンに捧げた内容も、彼には意味のあることだった。これにより、「コルトレーンの後継者」であることを表明したからだ。その音楽とは正反対で、控え目な性格のタイナーである。これは、相当な決断だったと推測される。
A面はコルトレーンの愛奏曲で、タイナーも幾度となく彼と共演してきた3曲だ。これらをひとりで演奏することには、思いもひとしおだったに違いない。『サハラ』同様、コルトレーンの音楽性を受け継ぎながら、彼ならではのソロ・パフォーマンスになっているところが素晴らしい。
タイナーにしては珍しいほどリリカルに演奏される〈ネイマ〉。一転してスピーディで強力なタッチを駆使した〈プロミス〉。緊張感が最後まで途切れない〈マイ・フェイヴァリット・シングス〉。これら3曲では、背後でコルトレーンが見守っているかのように、タイナーがそのスピリットを受け継いだ趣で自己を表現していく。
オリジナルで固めたB面は、このころ頻繁に披露していたスケールの大きな楽想を持つ〈ザ・ディスカヴァリー〉で始まる。タイナーみずからが叩いたドラの音に続いて登場する複数のモードで構成されたプレイは、日野皓正が追求していたドラマティックな音楽と近似している。「スピリチュアル・ジャズ」と呼ばれていた、黒人であることを意識した先鋭的ミュージシャンによるスタイルの典型がこのトラックだ。
〈フォークス〉は、フィラデルフィア出身のタイナーや、同地で少年時代をすごしたコルトレーンの音楽仲間であるカル・マッセイ(tp)に捧げた曲である。タイナーが日本に着いたその日(10月25日)にこの世を去ったニュースを聞き、彼とその家族を思い、書いたという。コルトレーンを紹介してくれたのがマッセイだった。これもアルバム・タイトルの『エコーズ・オブ・ア・フレンド』に相応しい1曲だ。
なお、アルバムは『スイングジャーナル』誌の「第7回ジャズ・ディスク大賞・金賞」を受賞している。