ぼくの世代なら『11PM』という番組をご存知でしょう。月・水・金が東京の日本テレビ制作で司会が大橋巨泉、火・木が大阪の読売テレビ制作で司会が藤本義一だった番組です。この番組の火曜と木曜のエンディング近くに、あるときからやけに唸り声を上げるオルガン・プレイヤーが登場するようになりました。
それ以前のオルガン・プレイヤーは上品な紳士然としたひとでしたが、こちらの“唸り声氏”はソウルフルそのものの音をしていて、強烈な印象を与えてくれました。それが若き日の寒川敏彦です。ちなみに紳士然としたオルガン・プレイヤーは小曽根真さんの父君です。
寒川さんと知り合ったのは20年以上も前です。聞けば、何のつてもなくアメリカにわたってジミー・スミスの家に行き、それこそ落語家の卵のように弟子入りをしてオルガン修業をしてきたといいます。この無鉄砲さからしてソウルフルな生き方に思えてなりません。
ですから、寒川さんは筋金入りのジミー・スミスの後継者です。いまはKANKAWAと名乗るようになりましたが、ぼくにとって、寒川さんは相変わらず寒川さんです。その彼が、昨年この世を去った師匠のジミー・スミスに捧げて『SOUL FINGER』(&フォレスト)という素晴らしいアルバムを完成させました。
そのライナーノーツを書かせていただいたことは大変光栄です。それで改めて感じたのが、寒川さんこそジミー・スミスの流れを汲む正統派ジャズ・オルガン奏者だということでした。現在のオルガン・ジャズは、ヒップ・ホップやクラブ・ミュージックの流れもあって、さらに進化した形の音楽に進みつつあります。KANKAWAと名乗る寒川さんも、そうしたクラブ・ミュージック的な演奏をやるようになりました。
しかし原点は、『SOUL FINGER』に聴く、ジミー・スミス的なダイナミックでソウルフルでスインギーなオルガン・ジャズです。そのアルバム発売を記念して、23日は渋谷の「JZ brat」で、中村誠一、杉本喜代志、ジミー・スミス(同名異人のドラマーです)、そしてゲストに10人編成のゴスペル・コワイアを迎えるライヴがありました。
寒川さんはステージに登場するところからソウルフルな雰囲気を醸し出します。仕草も決まっていますし、唸り声もグルーヴしていました。腕達者のミュージシャンに囲まれて、オルガンも冴えに冴えまくりました。この手のプレイをさせたら、世界的に見て寒川さんが第一人者でしょう。心からジミー・スミスを尊敬していることがよくわかるライヴでした。
寒川さんとジミー・スミスと言えば、忘れらないことがあります。1985年、ニューヨークで「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」というコンサートが開催されたときです。コンサートは、しばらく活動を休止していた名門ジャズ・レーベルのブルーノートが復活したことを記念して開催されました。ジミー・スミスもコンサートに出演するため、そして寒川さんやぼくはコンサートを観るためニューヨークにいたのです。
ミュージシャンやぼくたちも含めて関係者はみな同じホテルに宿泊していました。ニューヨークに着いた翌日の朝、朝食を食べようとロビーに下りると、入り口のソファで寒川さんとジミーさんが早くもお酒を飲みながら談笑していました。そして、そこを通るミュージシャンや関係者に誰彼構わず、「どこに行くんだ」と問いただします。まるで関所の番人のようでした。ぼくもふたりに聞かれました。
それで朝食を食べてから友人に会って、お昼ごろにホテルに戻ってくると、まだふたりはそこで関所の番人をやっていたんですね。聞けば3時ごろまでやっていたそうです。
翌朝ロビーに行くと、今度はジミーさんひとりがそこに座っていました。また「どこに行くんだ」と聞いてきます。朝食を食べに行くと言うと、近くにいい店があるからそこに行かないかと誘われました。ジミーさんにそう言われて、断れるファンはいないでしょう。しかしそれが悪夢の始まりでした。
ぼくはジミーさんが大食漢であることをすっかり忘れていたのです。そのことで、前年、東京で大変な目にあったのですが。
そういうわけで、その日も夜ご飯までマンハッタン食べ歩きツアーになってしまいました。この話はこれまでにもどこかで何度か書いたことがあります。とにかくジミーさんの驚異的な食欲にはびっくりさせれました。詳しい話はいずれ「愛しのジャズマン」にでも書くことにしましょう。
そのジミーさんももういません。寒川さんが遺志を継いで、オルガン・ジャズの伝統を継承してくれていることは嬉しい限りです。
「あと3枚オルガン・ジャズの作品を作って、最後はフリー・ジャズのアルバムが作れれば死んでもいい」
演奏後にこんなことを言っていた寒川さんですが、オルガン・ジャズの今後はこのひとにかかっています。ぼくより若いんですから、これからもどんどんいい演奏を聴かせてください。