ぼくが接したミュージシャンの中で、本当におひとよしだったのがギル・エヴァンスです。
「こんなにいいひとが、どうしてこれまで無事にニューヨークで暮らしてこれたんだろうね」
友人と大分以前にこんな話をしたことがあります。熾烈な競争社会に身を置きながら、ギルは飄々とした生き方をしていました。そんな彼が、ある日、こんなことを言っていました。
「もしわたしがきちんとギャラとか印税とかを貰っていたら、裕福な生活ができたと思うよ。でも、お金にうるさいことを言っていい生活ができても、いまの幸せは得られていないだろうね」
50年代から60年代にかけてのことですが、ギルのおひとよしにつけ込んで、ギャラを踏み倒すプロモーターやプロデューサーもいたそうです。たまにレコーディングをしても、レコード会社が倒産したりして、ギャラがもらえなかったなんていう話もしていました。
こんな話をしてくれたころのギルは(82年)、日本で言えば生活保護みたいなものを受けていました。なにしろ、ほとんど仕事をしていなかったのですから。
おひとよしではありますが、ギルには完璧主義者のところがあって、自分が納得できない仕事は引き受けません。それでいろいろとコンサートのオファーが来ても、滅多に腰を上げようとしなかったんですね。そんなこんなで、ぼくがニューヨークに住んでいたときに開かれたコンサートは、「パブリック・シアター」での1回だけです。
その後、ぼくが帰国する3ヵ月前の83年4月から「スウィート・ベイジル」でのマンデイ・ナイト・ライヴが始まって、晩年のギルはようやく才能に見合う収入を得るようになりました。
その準備に忙しいギルを陣中見舞いに行ったときです。支援者のひとりが提供してくれたワン・ルームのアパートで、床一杯に広げた譜面と彼は格闘していました。ギルの趣味は譜面を書くことと、書き直すことなんですね。このときも、あと1週間で「スウィート・ベイジル」の1回目が始まるのに、まだほどんど準備はできていませんでした。
それで、いよいよ当日。「スウィート・ベイジル」でのリハーサルに顔を出すと、譜面が用意されておらず、オーケストラの面々を前に、ギルはまだ手直しをしているところでした。
仕方がないので、オーケストラのバンマス的存在だったルー・ソロフが、ギルの横からいくつかの譜面を取り出して、それでサウンドチェックだけは始めました。これじゃあリハーサルになりません。
しかも、その音を聴いていたギルが、今度は各メンバーの譜面台を覗きながら、鉛筆でなにやら音符を書き加えていきます。ギルの面目躍如たる姿を目の当たりにした光景でした。
結局、初日のステージ開始までに、ギルは納得の行く譜面を完成させることができませんでした。休憩時間にも一所懸命になって手直しをしています。そのお陰で、最初のセットと2回目のセットではほぼ同じ曲が演奏されました。
しろうとのぼくには、どこがどう違うのか、その差がよくわかりません。終わったあとにトランペットで参加していたマーヴィン・ピーターソンに聞いたところ、アンサンブルがかなり違うものになっていたとのことでした。
このマンデイ・ナイト・ライヴには、飛び入りのミュージシャンが多かったことでもぼくは注目していました。よく登場したのはデヴィッド・サンボーンで、途中から彼はほぼレギュラー・メンバーとなって、最初から席が与えられるようになりました。サンボーンがレギュラー・メンバーとしてギルのオーケストラでもらえるギャラは50ドルです。
「ほかで仕事をすればひと晩で何百ドルかになる。でもギルのバンドは勉強になるし、彼と一緒にいると気持ちがおおらかになれるんで、お金は関係ない」
サンボーンはこう言いながら、いつも嬉しそうに演奏していました。
心優しいギルですが、金銭的には生涯を通して大変だったと思います。割り切って仕事をすれば裕福な生活も可能だったでしょう。しかし、彼は清貧を貫いたのです。ギルは多くのミュージシャンから尊敬されていました。金銭では買えない尊いもの──。ぼくにそれを身を持って示してくれたのがギルです。
こんなエピソードも話してくれました。あるとき、ギルは生活のためにピアノを手放してしまったのです。するとそれを耳にしたマイルス・デイヴィスが、黙ってピアノをプレゼントしてくれたそうです。それもスタインウェイのグランド・ピアノで、添えられたカードにはこうか書かれていました。
「これを売ったら承知しないぞ」