昨日は、雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ、行ってきました。渋さ知らズのライヴ。しばらくぶりに彼らのステージを見ましたが、以前にも増してパワーアップされていたステージににやりとさせられました。
このオーケストラ、純然たるジャズ、それもフリー・ジャズをやっているのですが、完全にジャンルを超越しています。会場に集まったファンにも、ジャズ・ファンなんてほとんどいなかったんじゃないでしょうか。渋さ知らズをジャズのオーケストラだと考えるのが間違いなんですね。

ごった煮の面白さというか、このオーケストラにはさまざまな要素があります。そもそも、ホーン・プレイヤーの並び方が雑多です。通常のオーケストラなら、ジャズもクラシックも歌謡曲も、何でもそうですが、トランペット・セクションとかサックス・セクションとかにきちんとわかれています。ところが、渋さ知らズでは半円形にホーン・プレイヤーが並び、トランペット奏者の隣にサックス奏者がいて、その隣にトロンボーン奏者、次にまたサックス奏者とか、ばらばらなんです。計算されたポジションに配置されているのかもしれませんが、見た目は雑然としています。
この「雑然」が渋さ知らズの本質かもしれません。ぼくは彼らの演奏を聴いていて、アレキサンダー・フォン・シュリッペンバッハ、バルトーク、ジョージ・ラッセル、スティーヴ・ライヒ、ジミ・ヘンドリックス、マイルス・デイヴィス、ローランド・カーク、ジャン・リュック・ポンティ、マハヴィシュヌ・オーケストラ、ラヴィ・シャンカール、山下洋輔、アルバート・アイラーなど、さまざまなひとの顔や音楽を思い浮かべていました。

この「雑然」は祝祭的なものも思わせます。盆踊りや阿波踊りからリオのカーニヴァルまで。日本的であって、外国的であって、何だか国籍不明。不思議なエスニック風味が醸し出されます。まったく関連はないのですが、ぼくのヘミングウェイ感にもどこかで通じているように思いました。
ぼくがいいなと思っているは、音楽が非常に実験的でありながら、エンターテインメントになっているところです。凄いミュージシャンが集まって、やりたい放題と思わせつつ、その裏にしたたかな計算や構成が認められます。もうひとついいところは、フリー・ジャズでも踊れることなんですね。壮大な音楽絵巻をダンス・ミュージックにしてしまうしたたかさ。そこに渋さ知らズの面白さを感じます。
オーケストラのメンバーにしても、通常の倍くらいの人数がいます。ヴァイオリン奏者がふたりいたり、バンドネオンみたいなものを弾いているひともいますし、ギターもふたり、チューバ奏者もどこかにいたみたいです。サウンドのぶ厚さと演奏のドライヴ感に圧倒されたステージでした。加えてダンサーや山海塾みたいなひとたちが出たり入ったりと、意味不明の面白さもこのオーケストラならではです。
こういう音楽というかパフォーマンスは外国、とくにヨーロッパなんかで受けるんでしょうね。電撃ネットワークと渋さ知らズ。全然日本的でない日本のサブカルチャー(でも実はとても日本の土着性が認められるもの)が外国で受ける痛快さ。
これまでのところ、レコード会社の肝いりで計画的に海外進出したアーティストのほとんど全部が討ち死にした事実を考えても、彼らのゲリラ的な進出には喝采をあげたくなってきます。というわけで、昨晩もいい夜が過ごせました。