この年になると、生きててよかったと思うライヴも何度か経験しています。昨日観たスライのステージもそのひとつでした。一緒に観ていた平野啓一郎さんのチェックによればスライの出演時間は13分。去年より2分長かったそうです。そしてアンコールでステージに登場していたのは2分間だけ。この15分で、ぼくは人生の中でかなり順位の高い幸福感を覚えました。
スライ・ストーンは青春時代のアイコンのひとり。ウッドストックの映画で動く姿を初めて観たときの強烈な印象。眼光鋭く、そしてそれと同じくらいシャープなファンクのリズム。レコードで聴いていた以上の衝撃を覚えました。
当時のぼくは彼らのやっているファンクよりスタックス・サウンドに夢中だったので、関心はあったものの、この映画を観るまではそれほど気になる存在でありませんでした。ディスコでかかるダンス・ミュージックぐらいにしか思っていなかったんですね。
しかしウッドストックのステージを観てスライが時代のメッセンジャーであることを知ってからは、音楽もさることながら、彼が発信するメッセージにも注目するようになりました。日本も70年安保の前後で騒然としていましたし、ノンポリのぼくでも多感な時代を生きていましたから。
あれから40年。スライがこういう形でぼくたちの前に戻ってくるとは。去年の「東京Jazz」でも感じましたが、ステージでのスライは飄々としていて、それでいながら登場するや空気が一変してしまうほど強い存在感を漂わせていました。
それまでルーファスが熱演していたステージはなんだったのだろう? 素晴らしいパフォーマンスを聴かせてくれた彼らの1時間はスライのひと声でかすんでしまいました。
ルーファスについても触れておくなら、女性シンガー5人を加えた総勢13人。彼女たち(全員がとびきりのおでぶちゃん)が次から次へと素晴らしいノドを聴かせて、これでもか、これでもかと場内を盛り上げ、還暦イヤーを今年迎えるぼくは少々へばり気味のところでスライが登場。その途端、いっきにアドレナリンが体内を駆け巡り、ぼくは蘇生しました。
うまさとか音楽性を超えているのが現在のスライです。そこにいてくれるだけで十分。ぼくにとっては人間国宝のひとですから、長い時間ステージに立たなくていいんです。正味15分でももったいないくらい。
留学時代に一度だけ再結成されたスライとファミリー・ストーンを観ましたが、あのときに比べてなんてお爺ちゃんになっていることか。ステージではマイクを持たずに歌いはじめ、女性シンガーがマイクを差し出したり、飲み物をわたしたりと、上げ膳据え膳状態です。とにかくスライには気分よく時間をすごしてもらいたい。聴衆もそんな感じで見守っていたのではないでしょうか。
ぼくは彼の姿に、ソウルの未来はこういうことだったのかと思いました。この気持ち、うまく言葉で表せません。つまり、60年代に一所懸命ソウル・ミュージックを聴いていたときのぼくは、それから40年後にみんながどうなっているかなんて考えてみたこともありませんでした。それを、いまぼくは現実として体験しているわけです。
この心地のよさはどこから来るのか。音楽の究極は音楽性を超越することかもしれません。ぼくはとっくの昔に音楽的にどうだとかこうだとかいうことは考えなくなりました。そんなこと、どうでもよくなっちゃったんですね。自分にとって心地がよいか、楽しめるか、幸せな気分になれるか、そういったことが大切だと気がついたんです。
昨日のスライもまさしくそうでした。音楽的にはルーファスのほうが圧倒的に勝っていました。でも吸引力はスライがはるかに上です。あの15分間は至福の時間でした。かなうことなら来年も「ブルーノート」に戻ってきてほしいなぁ。