ハウストン通りとバウリー通りの交差点、北西コーナーにあるこの壁は、1982年にキース・ヘリング(Keith Haring)さんが初めて壁画を描いてから続くという、壁画の多いニューヨークでも特に有名で、歴史的にも特別な壁画スポット。
今回、その伝統の『バウリー壁画』を継承することになった松山智一さんは、ブルックリンご在住、今や、ニューヨークを代表するアーティストの一人。
でも、改めて、松山さんのご経歴を確認してみたら、日本にいた頃、通われていたのは芸術系の大学じゃなく上智大学経済学部なのですよ。経済学をご専攻されていたのに、アートの世界へ?! なぜ??? 疑問に思って調べてみたら、3日前(10月20日付け)のフォーブス・ジャパンの松山さんの特集記事「「
NYの聖地」に作品を残したアーティスト 松山智一が世界に名を馳せるまで」を発見。
その記事によると、松山さんがアーティストを目指すことになった理由は・・・:
病院の天井を見ていた10ヶ月で、進路が変わった
今から22年前の1997年冬、当時21歳だった松山は、スノーボードを始めた故郷、岐阜県飛騨高山の一面雪に覆われたスキー場にいた。今でこそオリンピック競技のひとつとして認められているスノーボードも、当時はエクストリームスポーツの一種だった。その日も、パフォーマンスをよりクリエイティブに、より華やかに見せるための練習をしていた。
いつも通りに滑走をしていたが、わずかにバランスを崩し、激しく横転した。その時、足先から「ボキッ」という鈍い音がした。恐る恐る見た足首は、普段とは180度異なる方向に曲がっていた。プロとして、練習に集中するために上智大学を休学した矢先の事故。スノーボードどころか、松葉杖なしには歩くことのできない10カ月のリハビリ生活を余儀なくされた。
「スノーボーダーとしては、もう先がないことはわかっていました。だからリハビリ期間中に、なぜ自分がこの競技に夢中になっていたのかをとことん考えたんです」
自身の過去と将来へ思いを巡らせて辿り着いたのが、スノーボードでも実現していた、「表現すること」を一生の職業にしたいという思いだった。リハビリに通っていた病院のベッドの天井を見上げながら、新たに挑戦を決意したのが、商業デザインだった。
アーティストになることを決意した瞬間
本格的に商業デザインを学ぶのなら、アートとビジネスの中心地であるNYへ、と渡米したのは、アメリカ同時多発テロ事件が起きた3カ月後のことだった。松山が入学したプラットインスティチュートは、美術大学の名門として知られるが、当時彼が専攻していたのはグラフィックデザインだった。そこではクリエイティビティやオリジナリティを求められることはなく、実利性の高いスキルを磨くことに重きをおいた講義を中心に学んでいた。
NYでの新生活が始まったばかりではあったが、今もスタジオを構えるブルックリンが、再び松山のキャリアを変えることになる。
「そこには、自宅のロフトをアトリエにして作品をつくり続けるようなアーティストがたくさん住んでいたんです。彼らがどう生活費を稼いでいるのかはわかりませんでしたが、こんな生き方があるのかと衝撃を受けました。彼らが新鮮で、輝いて見えました。そこで、自分もアーティストになろうと決意したんです」
アーティストを目指した松山が初めて画材にふれたのは、25歳の時だった。
・・・とのこと。
まるで、ドラマみたいな人生。
そんな松山さん、今回、この『バウリー壁画』を制作するため、12人のアシスタントさん達と2週間、毎日12時間も描き続けたのです。その様子のほんのちょっぴり、ごく一部を9月にこのブログでもお伝え致しましたが、たぶん、松山さんたちの姿をみた方々の多くが「こんな生き方があるのかと衝撃を受けました。彼らが新鮮で、輝いて見えました。」って思ってると思います。
あの日、松山さんを感動させたニューヨークのアーティストに、いつの間にか、もう、松屋さんご自身がなっちゃってます。完全に。
以下、そんな松山さんの『バウリー壁画』完成版の様子、ご参考まで。
全体巨大壁画とは思えない、信じられないレベルの細やかさ左下あたりに、こんな感じのプレートも作品名は”Untitled”(タイトルなし)Tomokazu Matsuyama NYC Japanってなってます右下の人間と比較すると壁の大きさがお分かり頂けるでしょう独特の世界観9月にペンで書いてた葉の部分あと、この小鳥の絵がかわいいー素朴な表情巨大壁画の中に描かれたものすごく小さな鳥の表情なのですが、一羽ずつ羽ばたきや、微妙な色使いや陰影が違っているため、まるで鳥たちが動いているように感じられ、じっと目を向けると、鳥たちのキュートな瞳と目があって思わず口角が上がってしまう・・・みたいな、なんとも言えない独特の魅力を感じます
(ご参考)