という話を昨年の9月に書きました。
一体どれだけの量の物があるのか、文字通り“先の見えない闘い”に覚悟を決めて挑んだわけだけれど、「この苦労は息子であるジェシーにも身をもって味わわせておかねばならぬ!」と、自宅へ呼び出して手伝わせることにしたんだ。
今ここで俺が何をしてるかっていうことを、見て知っておいてもらいたいと思ってね。
少しずつ部屋から物を運び出して片付けを進めていくと、今まで部屋の奥に隠れていた空間から、見覚えのある箪笥が現れた。
昭和ではなく、大正や明治の時代を強く感じさせる趣の箪笥だ。
そこにしまわれた物に陽の光が当たるのも恐らく50年ぶりくらいなので、引き出しを開ける時には「いざ御開帳!」なんて気分だったね。
その中からは、俺が子どもの時に目撃したきり所在不明になっていた8ミリの映写機や、その当時の懐かしい物が色々と出てきたよ。
息子はこの状況を目の当たりにして「これはトレジャーハンティングだ!」なんて面白いこと言ってたね。
息子にとっては、自分のおじいちゃんやおばあちゃん、果ては曾じいちゃんや曾ばあちゃんの時代の物ばかりなわけで、それはまるで映画で見る遺跡の発掘や海賊の宝探しのような体験だったんじゃないかな。
それが自分のご先祖様とはいっても、まるで現実感はなかっただろうね。
そんなこんなで何とか片付けも一段落したんだけど、何といっても大変だったのは写真の整理だった。
俺の兄弟なんかは「どうせ誰も見ないんだから捨てちゃえよ」なんて軽く言うんだけど、その写真にまつわる旅行の思い出話を親父やお袋から散々聞かされていたから、やっぱりなかなか踏ん切りがつかないんだよ。
でも、軽く二、三百冊はあるアルバムをそのまま残しておくわけにもいかないから、“風景や景色だけで親父もお袋も写っていない写真は有無を言わず捨てる。”とルールを決めた。それから、あまり表情が良くないのもどんどん捨てていった。
いつか息子や、もしかしたら孫がこの写真を見たときに、「自分のじいちゃん、ばあちゃんってこんな人だったんだ、こんな顔してたんだ。」っていう感じで何気なく楽しんでもらえたらいいなと、そんなことを考えながら、残す写真を選んでいったんだ。
今回、自宅をリフォームすることになって、建築や内装工事の専門家から話を聞いたり、打ち合わせをする機会が多くなった。
そういう話をするのは二十数年ぶりなんだけど、もうその頃とは使う資材や材料がずいぶん変わっているのに驚いたね。
ちょっとした壁とか床とかの素材とか、電気製品もそうだけど、エコとか節約という考え方が当たり前のように採り入れられている。
リフォームには内装、電気、家具、左官、その他にもいろいろな業種の人が関わるけど、その人達がそれぞれの職業の中で「エコロジー」や「もったいない」を考えていて、みんなでひとつのものを形作ろうとするときには、共通言語としてまずそれが出てくるんだ。
例えば湿気や臭いを吸収してくれる壁紙があって、余分なエネルギーを消費することなく生活に役立つ機能を果たしてくれたり・・・。
エアコンも最新型は消費電力が大幅に低くなっているし、それからトイレもすごい。30年前は一回あたり20リットルの水を流していたそうだけど、最新のトイレはその3分の1とか4分の1の水で同じようにキレイに流しちゃう。
そういうことを知ると、今までいかに無駄な生活をしていたかって思うよ。
日本が好景気に浮かれていた時代には、何かモノを選ぶときには色とか形とか、そんな外見ばかりを考えていたんだけど、虚飾を廃して機能性を追求していくとモノは自然とかっこよくなるんだなって思った。
無駄がないっていうのはカッコイイことだよね。
「人間も自然の恵みを享受するだけじゃなくて、共存していくことを考えなければ未来はない、」という状況が差し迫っていると思うし、それを進めていけば自然との共生につながっていくと思う。
つまり自然から何かを得ようとするなら、ほかの何かを我慢する、または保護する。そして人間から自然へも還元する。
そういう人間と地球の“持ちつ持たれつの関係”を作り上げて、その中でいい循環を作っていかないと、本当に今の地球環境の問題に未来はないと思うんだ。
もちろん現代生活の利便性は、にわかに手放せるものではないし、日々それにまみれて生きている自分がいるわけだけど、これからのライフスタイルは産業が発展する以前の「のどかな日本」の時代に近づいていくと思うし、そうしたいね。