寒くなってきました。モモコモーション、実はこの夏からだんだんと秋めいて涼しくなるというこの風流な時間感覚を味わうのが7年ぶりくらいなのでした。
はっきりいってつらい。なにがつらいかというとこの強制的に情緒不安定させる季節の演出です。
しかも劇的に温度や風景、食べ物、衣服などが変化するので、気分的には同じ場所にいながら違う場所に来たような、そう舞台は同じだけどライティングから音楽から衣装から変え、「さて、第二幕」というかんじ。劇的すぎてとまどってます。
あとそれからなんと、私は長年南国に住んでいたため、ほとんど長袖の服というのをもっていないの。夏服=服、なんですね。コートとかジャケットなんてものはステージか撮影スタジオか旅行先で着る「衣装」としてしか持ってないんです。
だから、ほんと生活のために身体を守るものとして衣服を買わないといけないとおもっております。雑誌を見ると「この秋のブーツ、マストアイテム」とか「ロックテイストのコーディネート」がなんとかって言ってますが、私にはそんなことより、寒いので着るものが必要なんですね。
ところで、日本に帰ってきてもうはや3ヶ月目。これまでみたいに外国語ではなく、日本語で会話できること、百パーセント自信をもって操れる言語による会話がとにかくたのしいのですが、それがね、そういうわけにもいかないんです。
この前お友達のお家でのパーティーに行ったのですが、そこでお酒をのみながらはじめて会う人や久しぶりに会う方とお話をしていて、すごく親近感のあるいつもの感覚を思い出しました。日本人の人と話しているのに、向こうの話の仕方がまるで私がつたない外国語を話しているような感じとそっくりなんです。
まず外国語を話す時は語彙も少ないし、うまくさっさと文章を組みたてられないため、思いついた単語や短い文章をとにかく並べて行くような話しかたになってしまうんです。それで足りない部分は相手にゆだねているところもあるというか、「えーと、ようするにmomokoのいってることはこういうことでしょ?」とか間の手を入れてもらって完成するというかんじなんです。私は幸い、いつも外国ではまわりには親切な人に恵まれていたため、そうやって不自由な言葉を支えてもらいつつコミュニケーションしてたんですね。もちろん、助けてくれない人もいます。そういう時はもちろんただ「伝わらない」のです。「伝わらなく」てくやしかったことや、相手の行ってる事がおぼろげにしかわからなくて戸惑ってくるしくなることもよくありました。
それがですね、日本人同士、日本語で話していてもこういうことたくさんあるんですよ。
まず日本語はあまり文章を完成させなくてもいい言葉なんですね。英語だと主語や述語目的語がないと、もうそれは「意味が通じない」不要品、電池の入ってない時計、ハンドルのない車みたいなもんです。使えないんです。でも、なんと日本語はそんながらくた品をどんどん使って会話をつづけていけるんです。
主語がなくても「いいよね」だけで一体何がいいのかは空白で残ったままです。
目的語がなくても「私、好きだ」だけで何が好きなのかは言わなくても良いんです。
テストの問題によくあった、前後の単語を見てこの空白には何が入るかを埋めなさいっていうやつです。
下手したら、名詞だけでも会話が続きます。
とても感覚的なんですよ。論理的ではないんですね。
ロジックとか意味でできてる表現ではなく、抽象芸術。
ちなみに私が英語で歌詞を書くと、この日本人っぽさが英語に出るらしく、「これは文章としてまちがってるけどまあ、俳句ってことでいいか」とかネイティブの方に言われるんですよ。俳句っていうのはアメリカでもHAIKUとして学校で勉強するくらい、現代的な教養のひとつになってるんですよ。もちろん英語でHAIKU的感覚に乗っ取って詩を書くらしいです。
HAIKUも5/7/5というリズムを持って、季節の単語を入れて書く三行の詩なんですけど、これは最初はかなり英語スピーカーの人には慣れない作業みたいです。
「え?これだと言いたい事が何にも伝わらない」と思うみたいです。単語だけをぽんとおいて、それ以外は白紙で置いておくという、余韻、余白の感覚。
伝わるか伝わらないかではなくて、それ自体がもう表現であり世界であり、意味なんだという、このうつくしい日本の感覚!
それが、英語スピーカーの人にとってはとても現代的で新しい前衛的な感性なんですよ。
当たり前なんですが、これをなんと日本人は若い人でも、芸術家でも、ビジネスマンでも、主婦でもだれもが日常的にやってるんだというこの事実。またしてもあらためてびっくりです。